『子ども族探検』(第三文明社 1973)

I子どもたちは生きている

<生きている>というのは、呼吸をしていることと同じではない。心臓が動いていること。と同じではない。
 人間の子どもとして<生きている>という場合には、はっきりとした意識が必要なのだ人間として、子どもとして、生きている、という意識を持つこと。これはけっして、たやすいことではない。
 現代社会は、まぎれもなく、人間のつくりだしたものではあるが、すべての人間の合意にもとづいているわけではない。とくに子どもたちは、合意から遠くへだてられた存在で、それゆえに、人間として生きていく上で幾多の障害に出会うのである。
 それでもへこたれずに<生きている>子どもたちがいる。呼吸が乱れることもあるだろう。心臓が高鳴る場合もあるだろう。
 けれど、人間であるために、子どもであるために、きょうも<生きている>という意識だけは明らかなのだ、この子どもたち。

遊びのタテとヨコ
 正月が近づくと、人はなんとなく懐古的になる。そしてたいていは、いまどきの正月がはなはだ殺風景であることを嘆きたくなる。親たちは子どもに向かっていう。
「おとうさんやおかあさんが子どものころのお正月にはいろいろな遊びがあった。タコあげ、ハネつき、コマまわし、カルタ、スゴロク、その他いろいろ」
 だが、ほんとうに、いま、親になっている世代が子どものころの正月に、いろいろな遊びがあったかということになると、かなり疑問だ。実際にはそれほどのことはなくて、たくさんの遊びがあると思わされていたのではあるまいか。すでにその当時、
「昔の正月とちがって、いまどきの正月は味気なくなった」と嘆いていた老人たちがいたのだから。
 けれど、それでもなお、子どもたちのあいだの“遊び”にはタテの関係があった。たとえばタコあげを考えてみよう。これは相当に技術の錬磨つまり熟練を要する遊びである。
 いまは、シッポまでちゃんとついたタコを売っていたりするが、昔のタコは糸目さえ自分でつくらねばならなかった。技術がつたなければ、タコはあがらない。せいぜい、短い糸をつけて走りまわるのが関の山だ。ここでモノをいうのが、子どものあいだのタテの関係である。
 年下の子は、年上の子のやることなすことを、うまく見習わねばならぬ。ベイゴマなどという遊びになると、それをやる子どもがいて、そのうしろに、ベイゴマを持っている控え選手がいて、さらにそのうしろに見習いたちがいた。実際に勝負ができるようになるまでには、かなりの期間の下積み生活が必要だったのである。これをタテの関係とよぶ。
 女の子でいうなら、オテダマ、アヤトリ、オハジキ、その他、これまたタテの関係が確立していない現在は、ほとんど滅びてしまっている。たまにそれをしているのを見ても、内容がまことにまずしい。
 タテの関係がくずれてしまっては、遊びは単純化するばかりだ。もはや、熟練を要する遊びは伝承されない。
 先日、子どもが持ち帰ったベイゴマを見たが、完全にできあがってしまっている。昔のベイゴマは半完成品であった。尻の部分もとんがっていなかった。ために、そのままでは、まわすと、ぐるぐる大きく輪をかいて、トコの外へとびだしてしまう。だから、尻のさきを道路や塀にこすりつけ磨滅させて、とんがらかす。これをケットンといった。
 さらに背が高いと、どうしても背の低いベイからつきあげられるかたちとなり、弱い。そこでこれまたすりへらす。その他ワクを角にするなど、機能を考えての創意工夫がほどこされたものだ。このとき、タテの関係が大きくものをいう。先輩たちの体験こそが、子どもの遊びにおける唯一の“科学”だったから。
 ほかのところでも触れようと思うが、子どもにおけるタテの関係を滅ぼしてしまったのは、学校教育・幼稚園教育なのだ。そして、これらにベッタリの児童心理学とやらである。
 三歳児なら三歳児の水準ということを、教育や児童心理学はやかましくいう。平均的にさえ子どもが育っていれば安心する仕掛けになっている。幼稚園へ通っている子どもは、家に帰ってきてからも、幼稚園なかまとだけ遊んでいる。
 幼稚園児から小学生、さらに中学生までがいっしょになって遊んでいるなどという光景はほとんど見られない。たまに見かけると、大きいのが小さいのに妥協していることが多い。小学校上級生や中学生が、オニごっこをしていたりするのだ。あれではもうタテの関係など確立されるはずがない。
 大学や高校で、さまざまな問題が起きている。その根底に流れているのは、旧世代にたいする不信ではないだろうか。
 大学や高校へ話をしにいくことがある。自分たちで招いておきながら、わたしのいうことにさえ反発する。なかなか信じない。これはこれでいい点もあるけれど、かなりやりきれない思いをさせられるものだ。こういうとき、いつも考える。これは結局、タテの関係の崩壊がもたらしたひとつの帰結なのだ、と。
 戦後日本の先輩たちは、幼い後輩たちに向かって、あまりにも多くのことを伝えなさすぎた。タテの関係を断絶させたまま生きてきすぎたのだ。
 たとえばまんがの読みかたひとつにしても、子どものときにそれを伝承されなかったからこそ、いま、おとなになってそれを読む。わたしは、いまのまんががおとなの鑑賞にも耐えられるほどの形式・内容をもちえているとは思わない。それでもそれが若いおとなたちに読まれている風潮のなかにこそ、ニンゲン関係のタテ・ヨコの必然性が無意識的にせよ、改めて問題にされていると考えるのだ。
 遊びとは、つまり、ニンゲン関係の基調ってわけだろう。

遊びにも錬磨が必要だ
 民俗学者の宮本常一氏が語ってくれた。
「用事がありまして伊豆のほうまで行ってきましたんですが、あの辺まで行きますと、まだ子どもたちがのびのびと遊んでおります。バイまわしというやつをやっておったのでしばらく見ておりましたが、あれはまったくの実力主義でして巧いものがいばっておるわけです。年が上、からだが大きいからいばっておられるというものではなくて、小さくともバイまわしの実力があるものがいばっておる。子どものあいだの関係というのはああでなければいけませんですな。都会の子どものなかにはああいう関係がなくなってしまった……」
 ここでいう“ああいう関係”とは、言葉をかえていうなら、遊びにも錬磨が必要であり、その錬磨こそが遊びの世界における栄光をささえるということだ。それでは、その場合、才能というやつはどうなるのだという心配があるかもしれないが、その点はそれ、海の向こうのエピグラム(警句)が教えてくれている。「才能とは持続力のことなり」つまり錬磨しつづけることが才能そのものなのだ。
 ということで、わが周辺のガキども、いや子ども族を見わたしてみるに、残念ながら才能ゼロの連中ばかり。だれも錬磨をしていない。宮本常一氏はこの原因を、「都会には遊びのための場がなくなってしまった。場所さえあれば子どもは遊ぶのですが、それがないのでは遊びようがないわけでしょう」といった。
 しかしわたしは、かならずしも都会に遊びのための空間がないとは思わない。東京の下町で育ったわたしの目から見れば、まだまだ遊びの可能性はある。その気さえあるならば、だ。
 問題は、子どもたちのあいだから、錬磨を必要とするような遊びがなくなってしまったということなのだ。だからいいかたを逆転させなければならない。
 遊び場がないから子どもが遊ばないのではなくて、遊びがないから、子どもが遊び場を必要としない。必要ならば、どんなささやかな空間であろうとも、子どもはそこを遊びの場にしてしまうはずだ。その意欲が見当たらない。なにがなんでも遊んでやろうという気がないのである。
 とはいっても、子どもたちは<錬磨>というものが必要だということは知っている。錬磨なくしては、自己の才能が発見されないということも感じている。その証拠のひとつが「巨人の星」や「サインはV」への人気ではないのか。あの主人公たちには錬磨の日常がある。けれど彼ら・彼女らの錬磨は直接人類の進歩や発展に貢献するというようなものではなくて、しょせんはスポーツという名の遊びのための錬磨にしかすぎない。けれど子どもたちの目から見ると、それがいかにも価値ある錬磨のように思える。
 錬磨の機会=遊びの本質をうばっておいて、「巨人の星」や「サインはV」など一連のスポーツまんがの根性論は軍国主義の復活に通じる危険があるなどという論議は愚かしい。
 錬磨を必要とする遊び、たとえば宮本常一氏のいうバイまわし(東京ではベイゴマ)などは、わたしたちが子どものころから、良識おとなの攻撃をうけてきた。メンコなどもそうだ。それらは遊びではなくてギャンブルだというような禁欲主義的良識が、錬磨を敵としたのである。そして、戦後社会において、禁欲主義的良識派は民主主義者と名をかえて、とうとう都会地から子どもの遊びを追放することに成功した。
 いうまでもなく、禁欲主義的良識派のおとなの子ども時代は、遊びのヘタクソなガキであり、遊びの才能がないので勉強に精をだし優等生というおとなのお墨つきをいただいて、なんとか肩身をひろくしようとしていたにすぎないのだ。
 小学五年生の加々美誠クンはよく勉強をするという評判だ。そこでわたしはきいてみた。
「マコちゃんはずいぶん勉強するそうだけど、好きなのかい、勉強が」
「そうでもないけど、なにもすることがなくてヒマなんだもん」
 ヒマだから勉強をする?! まちがいなく、こういう子どもは禁欲主義的良識派のおとなになり果てることだろう。
 民俗学と文化人類学は関連の強い学問だ。民俗学者の宮本常一氏が子どもの遊びに関心をもつように、文化人類学者も遊びにたいしては強い関心をしめしてきた。たとえばヨハン・ホイジンガはその著『ホモ・ルーデンス』において、遊びこそが人類の文化を高め発展させてきたのだという主張をおしだしている。だとしたら、遊びを見失った子どもたちがかたちづくる未来社会はいったいどういうことになるのか。
 こころあるおとなたちは、ここらで声高く、錬磨を必要とする遊びの復興を叫ばなければいけない。いまの子どもは、せいぜいインターバル(休憩)しかもっていない。
「いま、どういう遊びをしていますか」という調査をしたら、「日向ぼっこ」とか「散歩」とかいう回答が多くの子どもたちから返ってくる時代なのだ。

何が襲われているのか
 東京都練馬区石神井台ということになっているが、西武池袋線大泉学園駅が一ばん近い。戦前、東京都(市)が開発して売り出したとかで、こぢんまりした屋敷が建ちならぶ住宅地がある。学芸大付属小・中学校もある。このあたりの細い道路も、いまではほとんど舗装された。
 ということは、近ごろの自転車ブームをささえる条件が備わっているというわけだろう。自動車が激しく往来する表通りへは出ないという約束で自転車を買ってもらった子どもが細い道路を走りまわるのだ。しかし、自転車といっても、このごろはぐんと高級化しつつある。小学生でも上級生になると体格もいっぱしだから、子ども用の自転車なんかでは満足しない。15段変速などというサイクリング車を欲しがる。高いのになると、備品もいれて五万円もするそうだ。
 どういう仕掛けで、ガキに四、五万円もする自転車を買ってやれるのか、わたしには見当もつかないけれど、とにかく、そういう高級車を乗りまわしているガキが、近所にもいる。佐野斗美クン(小五)が父親に向かって「オレも15段変速に乗れるよ」といったら、「乗れるからどうだっていうんだ。あんな高けえもの、ゼッタイに買ってやらないからな」というきびしい反撃をうけた。
「わかってるよ、そんなこと」
 佐野斗美クンはプイと横を向いた。かくて、15段変速の高級車を乗りまわすやつらは、佐野斗美クンの羨望のかなたにあるわけだ。
 ところが最近、15段変速を乗りまわす連中のあいだに、一種のパニック(恐慌)が発生しはじめた。最初の事件は、学芸大付属の横通りで起きた。15段変速を得意気に乗りまわしていた小学六年生が、五、六人の同年代の一団に襲われ、なぐる・けるの暴行を受けたというのである。
 道はばいっぱいに歩いてきた連中に、あやうくぶつかりそうになり、
「失礼」といって通りすぎようとしたら、
「そのあやまりかたはなんだ」
「ちゃんと自転車から降りてあやまれ」というようなアヤをつけられ、ためらっているうちに、ひきずり降ろされ、フクロだたきにあったのだという。
 血だらけ、泥まみれで泣き泣き帰ってきた子に驚き、近所の若い男を同行にたのんで現場にとんで行った母親は、途中、自転車を奪われたにちがいないと思っていたそうだが、自転車は現場の垣根にもたせかけてあり被害者の帽子もハンドルにひっかけてあったそうな。つまり自転車ドロボーではなかったわけだ。
 その後、同様の事件が続発している。いずれも被害者は15段変速の高級車を乗りまわしているガキで、加害者は小学校上級か中学一、二年ぐらいの小集団。まだ、自転車が奪われたという情報はない。
 そこで、子どもたちのあいだでは、「あれは、きっと、高い自転車なんか買ってもらえない子が団結して、いい気になって15段変速なんかに乗っている子を襲っているんだ」というウワサがしきりである。
 これが江戸時代などであれば、その小集団は一種の正義の味方みたいなことになる可能性もあるわけだが、いまはちがう。母親族のほとんどが、まず暴力を否定する。理由がどうあろうとも暴力をふるうことがよくないと思いこんでいる。したがって“15段変速”を襲う一味に同情は寄せられていない。
 その一味に、わたし自身、出会ったこともないし、もちろん動機について知らされているわけでもないから、事件の“核心”に触れることはできないけれど、問題はそれほど複雑ではないような気がする。
 わたしにいわせれば、いかに日本の資本主義が高度成長をとげ、親の収入が増えたとしても、たかだか小学生か中学生の子どもに、四万も五万もする遊び道具を買い与えてやる必要がどこにあるのだ――ということになる。
 買ってやるだけの経済的余裕があったとしても、買ってやるという気持ちがすでに異常である。子どもにそれだけのことをしてやっているという親の自己満足が、子どもの成長にどれだけプラスするというのか。
 冷静に考えてみたほうがいいのだ。“15段変速”を襲う小集団は、15段変速がどうしても欲しいから行動しているのではない。欲しいのなら奪うだろう。奪わずに、その乗り手をなぐる・けるというのは、かなり精神的な領域における行動ということになる。ひょっとすると、かれらは、高い自転車を子どもに買い与えて自己満足している親どもの“過ち”を激しく襲っているのかもしれないのだ。
 親の世代が、子の世代に与えるものは、15段変速の高級自転車などという“物質”ではなくて、もっと精神的な何かであるべきだという抗議を、一連の暴力行為は表現しようとしているのではないか。たとえそうでなくても、そのように受けとめて、親たちは、深く考えたほうがいい。襲われているのが何かということを……。
 自転車ブームはその後も進展して“バイコロジー”などという運動まで起きるようになった。だから、この話は“すでに過去の事柄”として捨て去れるだろうか。親の世代の物質至上主義までが過去のものとなったというなら、話は別であるけれど。

下町っ子はもういない
 子どもと読書についての話をしろと頼まれて隅田川の向こう側にある区立の小さな図書館へ行ってきた。そこではわたしの持論であるところの「子どもにとって読書もまた体験である」という説をぶちまくってきたわけだが、そのあと母親たちの質問をうけながら、窓外の景色と子どもの現況とがかなりピッタリと一致していると思いつづけていた。
 その図書館のあるあたりと、わたしが生まれ育ったところとは、隅田川をはさんでほとんど向かいあわせだ。子どものころには、よくそのあたりまで足をのばしたものである。その記憶をたどると、そこはまぎれもなく東京の下町であって、雑然とした街並みが展開されていたにはちがいないのだが、それだけにかえって人間の住むところという感じがあったものだ。
 ところが、いま、街はかんぜんに色彩をうしなっている。茶褐色というのだろうか、わたしは鉄錆色とでもいったほうがいいと思うのだが、とにかく暗くよどんだ一色なのだ。レンガ造りの図書館に隣接して児童公園があり、そこには数十本の樹木も植えられている。これが空気の汚れたところでなかったら、かなりシャレた光景にちがいない。わたしはレンガ造りの建物がすきだ。三びきの子ブタの物語ではないけれど、レンガの家というのは、なんとなく心やすまるような気がする。
 しかし、樹木もまた鉄錆色で、緑ッ気をすっかりなくしている。窓外の風景は荒涼としかいいようがない。“おお、子どものころの、あの下町よ何処いった”である。
 そして、母親たちの質問がまた、山の手の、あるいは新興住宅地のインテリ(?)ママたちのそれとほとんど変わらない。その母親たちをとおして子どもたちの姿を想像するかぎり、そこにはもう、イキのいい下町っ子なんてものはまるで見当たりそうもない。もう東京は、子どもを育てるところではなくなったのではあるまいか……と考えていたところへ、群馬県M市にすむ高校生深町実成クンがやってきた。深町クンはこの『子ども族探検』の「高校生の非行」というところにも登場している。深町クンはタメ息まじりに嘆く。
「ああ、もうつくづく高校生活がいやになったよ」
「何かあったのかい」
「こないだの期末試験でネ、国語の点数がよかったのさ。どういうわけかクラスで一ばんだった。そしたら、すぐにクラスのやつらがおれにききにくるのさ何人も」「何をききにきたんだい」
「何時間ぐらい勉強してるのか、睡眠時間はどれくらいとっているか。参考書は何を使っているのか、なんてことばかりさ。おれはもう情けなくて泣きたいのココロ」
 深町クンは怒りをこめていう。いい若いもんが集まって話をするのに、勉強のことばかりとはなんたることか。キザにいうなら青春の時代、もっと色気のある話題が出てきてもいいはずではないか。さらには、人間いかに生くべきかというようなことさえも、真剣に話しあえる時期ではないのか。それがクラスなかまの睡眠時間や勉強方法をさぐりだして、自分はそれよりもねむらず、それをとり入れて成績をあげることばかりを考えている連中との高校生活。それも決して一流の高校ではない。だから深町クンはいうのだ。
「おれたちの学校なんて三流で、先生も生徒も三流、ほんとなら勉強なんかそっちのけで青春をたのしみ、そのなかで社会へ出てからの自信みたいなものを身につけるべきなんだ。そういうやりかたで、むかしの劣等生はガリ勉の優等生と対決し、それなりに勝利をおさめたりしたんじゃないのか。そういうやりかたが人間的だと思う」
 こういう考えかたは、下町の人間にもあった。勉強なんてものをガリガリやっても、山の手のいい家庭の坊っちゃん、嬢ちゃんにはかないっこない。環境がちがう。そこで下町のガキどもは、せいぜい遊びに精をだし、そのなかで生活の知恵や、不屈の精神なんてものを身につけていったのである。
 しかし、いまや、下町っ子はいなくなり、劣等生はいなくなり、子どもたちはみんな、優等生的ないやらしい生きかたをするようになってしまった。
 下町の母親が、「なるべくまんがを読ませないようにしておりますが、読書の方法としては、どういうものからどういうものへ進ませるのがよろしいのでしょうか」なんていう質問をしてくるようでは世も末だ。街の風景だけではなくて、人の心の内部までが荒涼たるものとなっている。
 あの隅田川の向こうの街が鉄錆色になってしまったのは、あきらかに公害のためだということは、多くの人びとが知っている。それでは人の心の内部を荒涼にしたのは何か。それもまた公害ではないのか。子ども族をむしばむ公害こそが問題だ。
 いわゆる知識人たちが、戦前の通俗児童文化の代表のようにいう『少年倶楽部』でさえ、わたしたちの街では、開業医の息子の豊チャンが購読しているだけであった。豊チャンの家には自家用車のオースチンがあって、車庫わきの小部屋には運転手が住み込んでいた。その、あこがれの『少年倶楽部』の後身が『少年マガジン』だと思うわけだが、それをいまどきの下町の母親たちは「俗悪まんが雑誌」だというのだ。下町っ子がいなくなるのは当然である。

交通事故体験記
 新学期から集団登校がやめになって自由登校になったので、佐野あゆみサンはタバコ屋の角のところでPチャンと落ちあう約束をした。Pチャンとは三年生のときまで同じクラスだったけど四年のときに組みがえがあってべつべつになってしまった。集団登校の班もちがった。それでも、あゆみサンとPチャンはものすごい仲よしなのだ。
 約束では八時五分にタバコ屋の前に立って、百かぞえても相手がこないときは先に行ってもいいということになっている。ひとりのためにふたりが遅れることはないという合理主義だ。
 四月六日、きょうから新学期という日の朝、あゆみサンはタバコ屋の前で二百までかぞえた。できることならPチャンといっしょに行きたかったからだ。けれどPチャンはこなかった。
 始業式のとき、背のびをしてPチャンの姿をさがしもとめたけども、見当たらない。どうしたんだろう。急に病気にでもなったのかな。おとといは、あんなに元気だったのに。
 帰り道でPチャンと同じ組の清水サンにあった。
「ねえ、Pチャンどうしたか知らない」
「あら、あんた知らないの。Pチャン、きのうトラックにはねられて、あたまを五針も縫ったんだってさ」
 あゆみサンはかけ足で家にかえり、クツもぬがないうちから、父親に報告した。
「ねえねえ、Pチャンがたいへんよ……すぐにお見舞いに行かなきゃ」
 あゆみサンはPチャンの家へ電話をかけた。病院はどこかとききだすつもりだったのだが、すでに家へ帰ってきてるということで肩の息をぬいて安心した。
 それから庭の花を切りだした。
「この花、みんなちょうだいね。お見舞いに持って行くんだから」
「だめよ、そんな花じゃ。ちゃんと花屋で花束でも買って行きなさい。子どもだから、百円のでいいわね、ハイ、百円」と母親。
「まんがの本でも持っていってあげな」と父親。
 見舞いから帰ってきての、あゆみサンの報告によると、事故は四月五日の朝八時ごろに起きた。その日、春休みの最後の日だというので、Pチャンは親せきの子といっしょに、映画「若草物語」を観に行くことになっていたそうである。前夜から親せきの子は泊まりこんでいて、Pチャンはごきげん。かなりはしゃいでいたらしい。おかあさんが台所から声をかけた。「Pチャン、おとうふを買ってきてちょうだい」
 親せきの子もいっしょに行くというので、ジャンケンをし、往き道はPチャンが自転車にのることに決まった。そしてその帰り道で事故が起きたのだ。細い道から区道へ出る、その出会いがしらだったという。
 Pチャンはいきなり飛びだしたし、トラックのほうもわき見運転だった。ハッと気がついた運転手が外を見ると、自転車がぐしゃぐしゃになっていて、とうふが散乱している。これはテッキリ、人間は車の下だと思ったそうである。
 ところがPチャンは運よく、ハネとばされた瞬間に自転車からころげ落ち、道ばたの塀に頭をぶつけて裂傷を負ったというわけ。念のために調べたレントゲンによっても異常なし。報告のあとで、あゆみサンはつぶやいた。
「あぶないと思ったら、パッととびおりなきゃ」
 親はおこる。「バカいうな。そうなったら、もうおそいのだ」
 数日後、こんどは母親どうしが会話をした。そのとき、Pチャンのおかあさんが嘆いていたそうだ。
「やれやれ、いのちに別状がなくてよかったと、親が胸をなでおろしたら、あの子はいうんです。『あーあ、とうとうケガをしちゃった』って。驚いて、いままでにもあぶないことあったのってたずねたら、『うん、なんども、どなられたりしたよ』って、あっけらかんとした顔なんですからね。もう、ほんとにおそろしくて」
 当然のこと、あゆみサンにも問題ははねかえる。おまえさんにも、事故寸前の経験はあるのか問われての答え。
「そりゃね。でも、しょうがないじゃない、いまどき、そんなことをいったって」
 Pチャンはたまたま、運がわるかったということになる。同じような日常、そしてかず多い危険を体験しあっている仲だからこそ、その運のわるかった友にたいして心からなる見舞いができるのだというのが、小学五年生のあゆみサンのいい分、つまり論理なのである。なるほど。まったくきびしい世の中だ。

ゴリラの子どもたち
『一年のかがく』(学研)という雑誌から類人猿とインフルエンザについての原稿をたのまれたので、上野動物園へ取材に行った。昔からバカはカゼをひかないなんていうことがいわれていて、まるでカゼをひくのは人間の特権であるかのように考えている人もいるようだが、それは迷信。どんな動物だってカゼをひく。とくにゴリラ・オランウータン・チンパンジーといった類人猿諸君は人間とまったく同じようにカゼをひくのだ。インフルエンザが流行すれば、たちまちこれに感染する。カゼだけではなく、ハシカなどの流行にもソッポを向かない。
 いま、上野動物園の類人猿舎に、三頭の子どもゴリラがいる。ゴリラ的にいえば二〜三歳、人間流に数えなおすと六〜七歳だというから、まァ、一年坊主ぐらいと思えばいいわけだ。動物園内の動物病院に勤務する中川志郎センセイの話だと、
「やはり、子どもはおとなよりも病気にかかりやすいねえ。この冬の心配は三びきの子どもゴリラだなァ。悪い流感がマンエンしなければいいけれど……」ということになる。
 いざ流感となれば、ワクチンの予防注射もするし、かかってしまえば人間なみの治療もうける。中川センセイはいう。
「注射なんか、人間の子どもよりおとなしくやらせる。クスリもシロップにしてやると、喜んで飲む」
 まァ、このあたりのことは雑誌にも書くから、これ以上はいわない。問題はカゼひきのことなんかじゃない。三頭の子どもゴリラを見ているうちに考えたことだ。
 子どもゴリラの隣の部屋(オリというには立派すぎる)には、体重二五〇キロの大ゴリラがいる。この大ゴリラ、いかにもゆうぜんと腕ぐみし、どっかりとあぐらをかいて、部屋の前の人間どもをガラスごしに眺めていた。カンロク十分である。
 子どもゴリラも腕ぐみをし、すわりこむ。といっても、大ゴリラのマネではない。隣部屋は見えないのだから。
 腕ぐみはゴリラの先天的な習性なのだろう。しかし、大ゴリラが身動きひとつせず、ゆうゆうと座り続けているのに対して、子どもゴリラのほうは、すぐに姿勢がくずれる。ひとつのポーズをとり続けることができないのだ。ガラスに顔をおしつけたり、からだのあちこちをかいたり、まったくおちつかない。子どもゴリラとおとなゴリラの“違い”は静と動ほどもある。しばらく見ているうちに、「やっぱり、ごつい顔をしていても、こいつらはホントに子どもだなァ」とつぶやいてしまった。そして、そのあとすぐに考えたことは、オレはやはり、子どもとおとなの違い=相違点を問題にしないではいられないということだった。
 もちろん、いうまでもないことだが、人間の子どもとおとなの共通点や類似点は多い。しかし、子どもゴリラと大ゴリラの場合と同じく、ある瞬間にはまったく同じような行動や思考をしたとしても、それを一定の“連続”のなかで観察したときには、かならずしも共通してはいない事柄もすくなくないものだ。
 大ゴリラは腕ぐみをしていた。子どもゴリラも腕ぐみをした。一瞬、両者は“共通”する。けれど、そのあとすぐに子どもゴリラはほかの行動に移っていったのだ。
 人間の子どもも、ある瞬間、おとなとまるで共通のことをやる場合がある。するとすぐに<教育>がそれをほめる。いや、逆だ。おとなとの共通点を発見したとき、それをほめるのが教育なのだろう。ほめられたことによって、子どもは、連続すべきはずの行動をタチ切られ、その共通の瞬間を繰りかえしておこなうよう強要されてしまう。つまり、子どもは、おとなになるよりほかに方法を見出せなくなってしまう。もしも、子どもが<教育>によって、行動の連続性をタチ切られることがないとしたら、いったいどういうことになるのか。これは大いに関心がある。人類の未来像?
 全集まで刊行されるほどに愛好者が増えつつある夢野久作という作家(故人)によると、人間は胎内で人類進化の全過程を夢に見ているはずだという。これは他の動物でも同じことなのだが、人類は他の動物に比べて“進化”の過程が長いので、それだけ見るべき夢が多く、それゆえに胎内にいる期間が長いのだそうな。これもまたわたしにいわせれば教育だが、いざ、この世に生まれてきたからには、過去のプロセスを終了して、人類は新たなる段階に向かって進みだしていくべきではないのか。ひょっとすると、子どもがおとなと同じようなことではないことをやっているのは、新人類としての行動かもしれない。それを教育が妨げているなどということはないだろうか。いささか気になる。気にしてみたい。
 二五〇キロの大ゴリラはまったくゴリラ的だが、三頭の子どもゴリラは、かなりゴリラ的ではないところがあるように思えたのだ。

テキストファイル化上森典子