『子ども族探検』(第三文明社 1973)

『子ども族探検』(第三文明社 1973)

一年坊主をめぐる思想
 ことしは春のくるのがバカに遅くて、桜の花の咲くのがずいぶんおくれた。それでも、モクレンやレンギョウなんかが見事に咲いている道をとおって、新入生がつぎつぎに校門をくぐった。自分だってそうだったにちがいないのだが、それはもう遠い昔のことなので忘れてしまい、あんなチビッ子が学校生活にたえられるのかなァと心配になってくる。
 こんど墨田区から渋谷区の小学校に移って一年生を教えることになった横倉つやこセンセイの話では、年ねん、一年生の態度が妙におとなびたというのか、わきまえているというのか、とにかくおとなしくして、ききわけがよくなっているそうである。とくに、渋谷区の一年生にはその傾向がつよいという。
 とはいえやっぱり一年生ってかわいらしいものだ。学校からの帰り道、ガードレールの内側を大きく手をふりばがら歩いている。と、ひとりが何を思ったか、いきなり走りだすと、ほかの一年生もつづいて走る。その連鎖反応のすばやさは一年生独特のものである。見送っていたみどりの小母さんが笑っていた。
「あれあれ、何をいそいでいるのかしらねえ。みんなで走らなくてもいいのに。一年生って、つきあいがいいのねえ」
 ところで、この一年生を学校へ送りだすについて、それぞれの家庭では、それなりの準備をかさねたにちがいない。学用品からクツ・カバン、そして服装などなどだが、当然のこと新学期がちかづけば、デパートの宣伝にも一年生を狙ったものが多くなる。親たちもそれに気をつける。
 ところが、デパートなんかの一年坊主たちにたいする“感覚”の古めかしさときたら、まさにバツグンなのだ。若い人たちのおしゃれ用品などには、おどろくほどの新しさを展開してみせ、現代風俗を完全にリードしていると思えるデパート商法だが、こと“新学期”ものの宣伝となると、もう確実に三十年は古いのではなかろうか。
 テレビのCMでさえそうだ。なかには金ボタンの学生服を着用し、金ピカの校章をつけた学生帽までかぶった子どもが、ランドセルをせおい、おまけに草履袋までさげているのが登場する。そしてもちろん、胸には名前を書き入れた白ハンカチとくる。これが戦前の風俗を描きだすドラマとしてでなくて、この春の新学期の各種用品を宣伝するフィルムのなかに出てくるのだから、あっと驚くなんとやらといわざるをえない。
 おそらくいまでは、デパートの宣伝のモデルそっくりのカッコを子どもにさせようなんていう親は、よほどのトンチキ以外はいないだろうが、二、三年前まではついうかうかと、あの古典的な草履袋に上履きを入れて子どもに持たせる親もずいぶんいた。そしてそれが一日でムダになることを知り、だまされたと感じたものである。いまどきゲタ箱設備のない学校なんてほとんどないので、草履袋なんて、まず必要ないわけだ。それを売っているのだから、ひどいいいかたをするなら、あれはサギだ。
 しかし問題はデパート屋さんのセンスの古さを責めたてることではないのだ。あのような古めかしさを許してしまっている現状が問題なのである。いうまでもなく、その“現状”をつくっているのは学校と社会の両方だ。
 どんなに時代が変わっても、子どもの本質とやらは昔も今も同じで、ましてや一年生には変わりがないと決めてかかってしまう現状がある。早い話が、この文章のはじめにわたし自身がいっているように、
「やっぱり一年生ってかわいらしいものだ」というような考えかたが、十年一日どころか三十年一日のごとき古めかしい現状をつくりだしてしまっている。いや、その古さを許してしまっているといったほうが適切だろう。こんなことだから、文部省はいい気になって、学校教育を三十年前の内容にまでひきもどそうとするのだ。
 もっともっと親たちは子どもの現実にちゃんと目を向けて、デパートの宣伝ひとつにしても、古すぎるものは古すぎると文句をつけるようにしなければいけないのではないか。学校のセンセイたちにしてもそうだ。宣伝のなかの一年生の姿と、自分の目の前の一年生の姿との、おそろしいほどのちがいにたいして、「これは古すぎます」というべきなのだ。
 たかがデパート屋さんの宣伝とタカをくくっていてはいけない。この世は資本主義、そして宣伝の時代なのだから、逆に商業主義が現実をリードしていることがすくなくない。学校教育だって、そうした世のなかの動きのラチ外にあるわけじゃない。
 世界の情勢は、いまや大きな転換期にさしかかっている。それなのに、教育がデパートの宣伝みたいに古めかしくなったらどうなるか。もちろんそれは社会のこれからを考えれば、ものすごい大問題である。親や教師は、三十年前の教育、自分たちが受けた教育を思いだしてもらいたい。
 人はともすると、古いものを見て安心する。古いものからは、“毒”がぬけ落ちているように思うのだろう。ところが、教育の毒だけは、古くなればなるほど激しくなる。ましてや毒が薬に転化するなどということはない。三十年前の教育の毒を、現代に移しかえれば数倍、数十倍の毒性を発揮すると考えるべきである。

犬と子どもの関係
 数年まえからのペットブームが、ことし、イヌ年をむかえて遂に頂点に達したといわれている。たしかに犬を飼っている家庭はおおい。周辺を見まわしてみても、犬のいない家のほうがすくないくらいだ。わたしの家にも二頭の犬がいる。わたしは子どものころから熱狂的に犬がすきで、親にせがんではつぎつぎに犬を飼った。なんであんなにオレは犬がすきだったのかと、ときどきふりかえっては考えた。ところが最近、ようやくこれがわかったのである。それはつぎの文章を読んだからだ。
《その子が出会ったのは、仔犬に乳を呑ませている親犬でした。出会った時には、その子はすでに二カ月経つと自分にも弟か妹ができるのだということを、両親に教えられて知っていました。仔犬に乳を呑ませている犬に出会うということは、その子どもにとってどうでもよい現象ではなく、自分の身のまわりで起ころうとしている或る似たような出来事の眼に見える象徴だったわけです。その女の子に対して二ヵ月後に実現されようとしている図式、つまり、〈両親−自分−弟(あるいは妹)〉という図式が、〈親犬−私(女の子)−仔犬〉という図式のなかに、すでに現わされていたわけです。その光景の眺めは、何よりもその子が置かれようとしている状況との関係で、意味をもつことになったのです》(M・メルロ=ポンティ著『眼と精神』のなかの「幼児と対人関係」)
 メルロ=ポンティは、わたしの知るかぎりでは、もっともすぐれた子ども(にかぎらないけれど)研究者だ。そのメルロ=ポンティは生後三十五カ月の女の子が犬の親子を見たことによって、自分の態度の変化がスムーズにおこなわれたといっている。
 だれもが知っているように、子どもは弟や妹が生まれると、“さまざまな形で嫉妬を現わし”“赤ん坊が生まれてからの最初の数日間は、子どもは自分を赤ん坊と同一視し、まるで自分が赤ん坊になったように振舞い”“歴然たる言語の退行や性格の退行さえ見られる”場合がある。そしてこれにこだわりすぎると、ドモリのような言語障害を起こしたり、性格異常になったりする。
 だけど、ほとんどの子どもは、そうしたショックをのりこえていく。親たちはいう。
「あんたはもうおにいちゃんなのよ(あるいは、おねえちゃんなのよ)」つまり態度を変えろといいきかせるわけだ。右の女の子の場合は、そういう親の教えと、犬の親子とをむすびつけて、たやすく、姉になっていったのである。
 もうすこしくわしく考えよう。態度を変えるとはどういうことか。これはきのうまでの他人を、きょう自分として生きるということだ。だから、他人になれない子どもは他人を理解することができず、したがって、自分と他人とをむすびつけるコトバの使用もまたままならずということになる。
 ところがわたしは末っ子だった。末っ子だからといっても、やはり他人になっていく必要、つまり何かを弟や妹に見立てて、兄や姉になっていかなければならない。それが成長というやつだし、それによって、他人との関係、世界のなかの自分をなりたたせることができるからだ。そして、わたしの場合、犬が弟あるいは妹だったのだろう。このように考えると、このごろのペットブームは、子どもをすこししか生まない家族計画と無意識のままにむすびついているのかもしれない。
 だとしたら、これをもっと意識的にむすびつけるべきだ。自閉症の子どもなんかも、ペットとしての犬を与えることによって、対人関係をたてなおすキッカケがつかめ、自分を世界のなかにひらいていくことになるかもしれない。もちろん、自閉症という病気も、すくない子どもという家族計画に密接に関係があるはずだ。
 かなりまえのことだが、わたしは児童文学に関する論文を書き、そのなかでやはりメルロ=ポンティの“女の子と犬の親子の関係”の部分を引用し、つまり児童文学というやつは、この犬のようなものになればよいのだと主張したことがある。いまでも、この考えかたは変わっていない。
 子どもが本を読む。そこには他人がいる。その他人に感動するということは、その他人の生きざまへと、自分をのりかえて変わったことなのだ。ところが古くさい読書指導屋は、「本を読んで感動するということは、自分を発見することで、それゆえに読書は自我の形成に役立つ」なんてことをいう。じょうだんじゃない。他人のなかに自分を発見したりすれば、言語や性格が退行することさえあるのだ。こういうでたらめな読書指導がのさばっているから、本を読むガキは自閉症的なやつがおおいのである。
 犬いっぴきだって、子どもにはずいぶんと役に立つ。

テキストファイル化岩楯真理