『子ども族探検』(第三文明社 1973)

子どもをめぐる三角形------------------------------

 三角形について書く。とはいっても色恋のはなしではなくて、すこぶる色気のない事柄だ。対象はあくまでも子どもである。
 児童文学なんてものをやっていると、しばしば同じような質問を受ける。なかでも多いのが、
「作品のなかに登場する子どもはいったいどのようにしてつくられるのですか」というようなこと。
 ひと昔まえの童心主義者はもっぱら、自分の内なる子ども、つまり幼年時代を想い出しながら書いた。
 すこしまえの生活主義者は、現実ベッタリの子どもを書いた。
 このごろの教育主義者は、子どもというものはこうあるべきだと決めてかかって書く。
 そしてわたしは、童心主義も生活主義も教育主義もまちがっていると考える。わたしの作品のなかに登場してくる子どもは、わたしの内なる子ども○Aと、現実社会に生きている子ども○Bと、想像のなかの子どもCとの合成物にほかならない。AとBとCの割合は等しい。つまり正三角形をかたちづくるのだ。
 この三角形の考えかたを、むずかしいと思うのはまちがっている。ひとりの"おとな"としてこの世のなかに生きている限り、ごく当然の思考法なのだから。
 おとなはすべて、子ども時代を体験している。だから、内なる子どもAを持つ。よほど特殊なところにいるのではない限り、わたしたちは、現実の子どもBを見ることができる。そして、いささかなりとも<未来>について考えるなら、そこに子どもCを想像するはずだ。かくて、子どもをめぐる三角形は容易に成立するし、またそうあることが、ごく自然なのである。
 ところが、児童文学や、教育や、さらにあちこちの家庭やらを見まわしてみると、意外にも三角形が見当たらない。奇妙な偏向が目立つのだ。現実もみつめないで将来ばかりを考えたり、過去にばかりこだわったり、そうかと思うと、現実にのめりこんだり、まるで三角形からはほど遠いかたちで子どもを問題にしている場合が多いのに気がつく。このため、いっこうに具体的な子どものイメージが浮かびあがってこない。
 イメージが浮かびあがってこないのだから、そこには、どんな計画も、方針もない。育児といい教育といい、さらには児童文学といっても、つまるところは、子どもに関する計画であり方針であるわけだろう。それを欠いた育児も教育も児童文学も無意味(ナンセンス)だとわたしはいいたい。
"ナンセンス"というコトバとともに、学園闘争についてのマスコミ報道のなかから流行したコトバに"ノン・ポリ"がある。ノン・ポリとは、いうまでもなく、ノン・ポリシイの略。そしてポリシイは計画・方針などの意味を持つコトバだから、子どもをめぐる三角形を持たない人は、とりもなおさず、子どもに関するノン・ポリというところだろう。
 ノン・ポリなんていう存在を"一般"なんていうコトバに置きかえて、さもさも価値あるようにいうのは、現実=体制ベッタリのマスコミだけでたくさん。そんなゴマカシを真に受けて
「わたしはノン・ポリです」なんていう人間は、てめえの愚かさをさらけだしているようなものである。
 世界は動いている。揺れている。流動化という表現がピッタリする"現況"のなかで、子どもとつきあおうとする人間が、ノン・ポリであっていいはずがない。三角形のなかで子どもをとらえ、明確なポリシイを打ちだすことこそ、いま、わたしたち"おとな"がやらなきゃならないことなのだ。
「いまに地球は破裂する」と考えた十九歳の男が子どもを殺害した。
 地球が破裂するという想像のなかでは、子どもは存在しない。三角形をつくるにもC点が足りない男は過去にこだわった。子どものときに、いじめられたから、その復しゅうをしたいと考えた。しかし、未来の欠落した男には、復しゅうのためのポリシイさえ打ちだせはしないのである。ノン・ポリだ。
 あの男は狂っていたかもしれない。バカだったかもしれない。しかし、あの男の"狂気"や"バカさ加減"をおしはかる尺度となると、ポリシイのなさという一点しかないのではないか。それ以外に何があるというのだ。
 生命を絶つということは、その人間(ここでは人間だけを問題にしよう)の"未来"を消してしまうことであって、それはつまり、三角形の一辺をとりはずしてしまうことに他ならない。
 だから、だからだ。子どもをめぐっての三角形を考えられない人は、ひょっとすると、無意識のうちに、子どもを殺害しているかもしれないのである。ノン・ポリとは殺人犯の代名詞かも・・・・。


子殺しの風潮はいぜんとして衰えない。そしてわたしの子どもをめぐる三角形という考えかたも、いぜんとして普及していない。おかしな世のなかだとつぶやいているあいだにも、子どもは無惨に殺されてゆく。ノン・ポリがとにかく多過ぎるのだ。
テキストファイル化小野寺紀子