読書の秋に考える・・・・・・・・・・・・・・・・・・227

読書の秋に考える------------------

 灯火親しむの候とか読書の秋とかいうコトバがあり、それに便乗して読書週間という運動がある。それなりに意味のあることだと思う。とくに、読書とは何か、ということを改めて考えるならば、だ。
 グーテンベルクが活字印刷機を完成したのが1449年というから、もうすでに520年ものながいあいだ、人類は”活字文化”の恩恵を受けていることになる。
 いちじ、テレビがものすごい勢いで普及し、映像文化がマスコミの中心におどり出たとき、もう活字文化は過去のものになるだろうというような意見が続出した。しかし”本”は亡びなかった。人びとが、映像文化と活字文化の本質的な差異を感じとったからだ。
 子どもとテレビの結びつきについても、いろいろと論じられた。テレビが読書を駆逐してしまうなどの悲観論も多かった。が、いまはどうか。かえってテレビ出現前よりも子どもは本を読むようになっているではないか。
 しかし、本さえ読んでいればよいというものではない。とくに子どもの場合、自分が何を読むかという選択能力はほとんどないといってよい。ほとんどの場合、与えられた本を読むということになる。もちろん学校図書館などになれば、何冊もの本が並んでおり、子どもが任意にそのなかから、自分の好みの本をひきだすようにはなっている。ために、親や教師はともすると、子どもは本能的に、自分の好みの本を選択する能力を持っているかのように錯覚する。だがこれはあくまでも錯覚だ。なぜならば、すでにそこに並べられている本そのものが、子どもたちの選択とは関係なしに、ある種の基準によって選択されてしまっているからだ。
 つまり、子どもが本を選ぶ自由は、限られたワクのなかの自由でしかない。極端ないいかたをするなら、クサリの長さだけは”自由”に歩くことが許されているドレイのそれに似ている。
 現在、児童図書出版は、かつてその類を見ないほどの活況を呈している。それも学校図書館があるからこそである。学校に図書館があるということじたいもちろん悪いことではない。それは結構。しかしその運営はどうか。図書購入の価値基準はどうなっているか。図書係のセンセイの見識のほどは、ということになると、まるでダメな学校が多い。ここに、各種の児童図書スイセン活動がつけこむ余地がある。
 日本図書館協議会とか学校図書館協議会というような団体はその歴史も古く、それなりの客観的な見識をもって幅広いスイセン活動をやっている。ところが、えてして古いものは平凡に見える。あまり見識もない人は、とかく新しがりたがるものだ。できることなら、新しい図書スイセン団体のスイセンしてくる本を購入したいと考えたりする。そのほうが新しい時代を生きる子どものためにもなるんだろうなどと考えて。
 ところがである。いま、児童図書のスイセン活動にものすごいエネルギーを注入している政党があるのだ。それは日本共産党だ。日共党員は、人のいいノン・ポリをまきこみながら、いくつもの児童図書スイセン団体をつくったり、各種の組織にもぐりこんで、自分たちの政治路線に忠実な本を売るためにヤッキになっているのだ。
 東京新宿の伊勢丹は、デパートとしては日本一というくらい子供の本が売れるところだが、ここでも、おすすめする本を選んでいる委員の大半が日本共産党員。いやいや、これなどは小さなことだ。日本最大の書籍取次ぎ会社(問屋)である日販が出している児童図書関係のパンフレットでも、日共党員は大活躍。朝日、毎日、読売の三大新聞の子どもの本紹介もほとんど日共党員。
 いうまでもなく、だれがどんな活動をしようと、それは自由だ。自民党員が本を書こうが、社会党員がスイセン活動をしようが、いっこうにかまわない。しかし日共の児童図書スイセン活動はあまりにもロコツなのだ。あれでは子どもが迷惑する。
 たとえば国分一太郎という児童文学者がいる。生活つづりかたで有名な人だ。この人、5年ほど前までは日共党員であった。しかし政治理論のくいちがいから除名された。このときから、国分サンの本は日共党員がもぐりこんでいる図書スイセン活動から一切オミットされてしまった。それまでは、たった三冊の本を選べといわれても国分サンの『鉄の町の少年』や『リンゴ畑の四日間』がかならず一冊ははいっていたものである。それがいまや、カゲもかたちもない。しかもそうした変化について、ひとことの弁明も釈明もないのだ。このような党利党略によって、子どもの本が選択されてよいものであろうか。
 五年前は、Aという本を読んでホメられた子どもがいた。いま、その子の弟や妹はAという本を読むことさえ禁じられる。こんなバカげたことが読書週間のなかで起きているのだ。
テキストファイル化小野寺紀子