『子ども族探検』(第三文明社 1973)

性教育は枯れ木ばかり

 いったい何がキッカケなのか知らないが、とにかくやけにはやりだしたのが性教育とやらである。何かブームとか流行とかいうものをつくりだし、その上にのっかてないと安心できないのがマスコミというやつの習性なのだ。性教育もまたマスコミがつくりだしたところの最新流行のひとつだ。かくていまや性教育は花ざかりといいたいところだが、どっこいその内容は? となると、花も実もない枯木ばかりといわなきゃならない。
 なぜ、性教育は枯木ばかりなのか。その理由はすこぶる明白。もともと性教育なんてものは、非画一的なもの、アンチ・マスコミ的なものなのだ。それを画一化し、マスコミにのせようとするところに、喜劇がうまれる。
 「うちの子どもは八歳でございますが、どの程度の性教育をすればよろしいのでしょうか」なんていう質問にたいして、
「そうですな、八歳ではこれこれこの程度でしょう」てなことを性教育者(?)がもっともらしい顔で答えているなんていうのは喜劇以外の何ものでもない。
 性にたいする関心・興味、そしてさらにはその能力なんていう事柄は。それこそてんでんばらばら、何歳ならこの程度なんてことは、いえるはずがないのだ。こんなことは、てめえたちの性体験をふりかえれば直ちにわかるはず。
 その、てんでんばらばらの性の結果として生まれてきたのが、子どもだ。正常位でこしらえた子どもだから、この子は正常なはずだなんてことは決していえない。にもかかわらず、当今の性教育とやらをきいていると、どうにもバカバカしい画一化がいそがれているような気がしてならない。
「NHKが性教育をするというのは、おそろしいことです。これは性教育を体系化することです。体制におさえられたセックスほど無意味なものはありませんからね」という発言を『平凡パンチ』のインタビュー記事のなかでやっているのは医学博士の奈良林祥氏。一見、イイセンをいっているようだが、実はこれも枯木的発言。だってそうだろう。マスコミなんてものは、何もNHKだけが体制のワクのなかにいるのではない。
 民放だって、それこそ同じ穴のムジナだ。こういうことをいって、てめえたちは民放テレビで性教育の専門家でございと、せっせと体系化のためにご尽力というわけだ。
 とはいっても、性教育はすべてくだらないなどと主張するつもりはない。このごろの若いもんや子ども族とのつきあいのなかで、わたしなどがつくづくと感じさせられるもののひとつに、やはり、あきれるほど性的無知がある。このごろの子どもが性的に早熟だなどというのは、実情を知らない連中のデマだ。
 いまどきの性教育のほとんどは子どもたちが性的に早熟すぎて、その性知識に偏向があるから是正してやろうというのが前提になっているように思う。しかしわたしにいわせると、その前提そのものがまちがっているのだ。
 問題は"無知"である。その"無知"をもたらした要因である。性というやつは、それぞれの人間の全体のなかに在るものであって、それ自体をぬきだして存在させることが可能なものじゃない。だから、ある人間から性についての知識を教えられるということは、その、ある人間の全体を理解していくことにほかならないのだ。
 人間をぬきにして教えたり、教えられたりすることができるのはせいぜいのところ、性器の構造ぐらいなものだろう。男の性器がどうなっているの、女の性器がどうのこうのということなら絵本でもスライドでも教えることができる。だがそれは、性教育なんかじゃなくて、生理教育にしかすぎない。この点を混乱させたままで、性教育とやらは当節流行なのである。
 繰りかえしていうが、親の全人間性を背負いこむかたちで子どもは育っていく、その子どもに向かって、テレビなんかから流れだしてくる画一化された<性>をおしつけようとするのは、非人間的なこと、いわば人間性の放棄に等しい。
 性教育とやらの洪水のなかで、子どもたちが声ならぬ声で叫んでいるのに耳を傾けなきゃいけないと思うのだ。
「男と女のちがいについてはもうわかったよ。なぜ、子どもができるかということもわかったよ。だけど、わからないのは、なぜ、男と女が結婚したり、子どもをつくったりするのかってことさ。ねぇ、なぜ、男と女はセックスをするの?」
 この問いにこたえられなければ、ほんとうの意味の性教育じゃないのだ。なぜ、あなたは性するのか、それはおそらく、あなたの全体にかかわることであるはず。
テキスト化橋本京子