横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

新人作家の方法とその可能性
−−リアリズムの実体をめぐって−ー

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 最近の児童文学の舞台は、ほとんど新人作家の活動によってしめられている。ここ一年あまりのあいだにもかなりの数の新しい作家が登場してきた。
 例えば香山美子、たかしよいち、鈴木喜代春、最上二郎、吉田タキノ、小暮正夫、那須田稔、佐川茂、米沢幸男、山元譲久、小沢正等々。
 これらの新しい作家は、それぞれの資質、生活体験、思考法等によって、その個性を表示しながら「現代」と「日本」という条件のなかで、既成の児童文学に巣喰う空白を埋め、日本の児童文学が持とうとして、持ちえなかった可能性を実現しようと企図しているようだ。そのもっとも端的なあらわれは、彼等の作品にみられる、児童文学についての方法的な関心であろう。そこではさまざまな意図や思考や手法が試みられている。しかも、こうした新人作家に共通して指摘できる特色は、多かれ少なかれ、子どもの存在についてのより鋭き観察者であり、生活についてのよき思考者であり、現実社会に対しても論理的なかまえで働きかけようとする実践者でもあるということである。
 ではいったい、新しい作家たちが、現在の悪条件のなかできり開こうとしているところの実体はなになのだろうか。またそのためにとられているところの思考や方法はどのような実質をもち、どのような可能性があるのだろうか。
 おそらく、この問題をときあかすことは、かなり厄介で困難な仕事である。それには、個々の作品に即しながら、作風、思想、方法の可能性、作家の生活意識などを具体的かつ厳密に追求することなしには不可能である。
 わたしはここで、その困難な仕事を充分にやれる自信はないが、新人作家が内包している問題の、ごく限られた側面について、それもリアリズム系統の二、三の作品を中心に、力の許す範囲でアプローチを試みてみたいと思う。

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 まず、新人作家の作品に接して思うことはそこにはたいしかにいろいろな実験や模索や時には絶望がくり返され、児童文学について新しい方法的な姿勢を確立しようとする意気込みは感じとれるが、そうした試みが必ずしも成功せず、意図や実験的手法が未成熟のまま混沌とし雑居していて鮮明な像に結実しないでいるといった様相を呈していることである。
 これから作品をかこうとする人やかきはじめた人にとって、もっともむずかしいことは現実のなかから、どのようにして自己の質にあった基本的なドラマの構造を発見し、抽出してくるかということである。その際、ドラマの構造をささえるものは、作家の思想とか認識とか判断とかいわれるところのものであろう。したがって、文学作品の本質を形成しているものはその作家のもっている思想や認識のはたらきによって決定されていくのである。
 この観点から新人作家の作品を考えるときその根底にある発想や思想・方法は、意外に似通っていることを発見する。わたしは先に、新人作家がそれぞれの個性を表示しながらと述べたが、ほとんど同質ではないかと考えられるふしがある。
 もし、新人作家の作品にみられる思考や判断の方法を抽出し、分類するとすれば、二つか多くて三つのパターンにわけられるのではないかというのがわたしの感じである。
 つまり、その一つは、独立した個人の立場を前提として、いわゆる社会的良識、ないし善意によって、古い秩序や非論理的な社会・政治のゆがみを批判しようとする思考法である。このものの考え方は、現在の知識人のあいだに一般通念として存在しているところのもので、大正時代から昭和の初期にかけてほぼ形成され、成熟した思考のタイプである。この思考法は、ふつう良識とか、ヒューマニズムとかいわれているが、その特色は個人の立場を不動のものとしてとらえ、そこからひきだされる考えをまちがいのないものとしてものごとを判断していくところにある。
 いま一つは、感覚的な実感による思考方法で、目や皮膚や感覚を通し、現実はこのようなものであるとしてとらえ、その印象を表現しようとするものである。この方法は、日本の児童文学に伝統的にある思考法と深いところでつながっている。
 そして、もう一つの思考方法は、第一にあげた思考法の延長線上にありながら、そうした良識的社会通念を否定的媒介として、唯物論的分析思考、あるいは論理的な思考法でもって、社会や組織を追求し、そのなかに生きる人間(子ども)がいかにゆがめられ、疎外されているかをとらえようとするものである。
 もちろん、こうした分類はあくまでも便宜的なもので、以上のような二つないし三つの思考方法が、互いにないあわされて現代の日本の児童文学作品の骨格が形づくられているのが実状である。
 もし、一般的な傾向をあげるとすれば、今日の児童文学作品の大部分のものは、社会的良識ないし善意を基調として、そのなかに実感からえたものをとりこむことによって、その本質を形成しているといえるだろう。ただこれらのなかにあって、リアリズムの立場にある新しい作家たちが、めざしているものはいわゆる第三の思考方法によるくみたてで、できるかぎり、良識や善意を基調とした思考のパターンを打ちくずし、唯物的、論理的な思考によって、社会を把握、理解し、それを作品構造のかなめとして、創造していこうというねらいが強いのである。
 だが、問題はそうしたねらいをもった作品の多くが意図はよくわかっても、文学作品としては、その完成度が高くないという矛盾を露呈しているという事実であり、逆に、素朴な感覚的リアリズムによってまとめあげた作品の方が、印象も強く成功しているというケースが多いということである。
 その理由はどこにあるのか。

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 『はまべの歌』は、感覚的な実感思考によって、かかれた作品の一つの良い例である。
 この作品は、現在東京で看護婦をしているフタバと、仙台の駅前でクツミガキをしているユミコという姉妹が、手紙と回想によってその生れ故郷である東北の海辺の町ですごした幼年時代の思い出を語り合うという構成をとっている。
 そこには一貫したストーリーはない。家族や親類や友だち、近所の人びとなどの生活や労働にまとわる、幼時のきれぎれな記憶や思い出、エピソードが、集合されて幼年時代という一つのまとまった内容がうきぼりにされている。そこには、たしかな実在感があり、鮮明なイメージがある。おそらく、この成果は、作者のゆたかな感覚と目と皮膚によって実感的、即物的にとらえられた幼時の生活体験が、ただありのままに投げ出されず、その実感を一度つきはなし、対象化することによって、より一層実感に密着しようとしたところにある。ここに、この作品のもつ方法的な意味がある。ある実感を、そのままに、ありのままに言葉に定着させるためには、方法を内在した技術がなければならない。そうした方法のないところでは、どのような実感をも表現することは不可能である。
 では、この作品のもっている方法の実体はなになのか。
 わたしは、例えば、島崎藤村が考えた次のような方法と、それはほぼ同質的につながるのではないかと思う。
 つまり「写生が自分を益したことは、第一には能く物を観ることで、第二には能く物を記憶することだ。私が信州に居る頃は、よく雲の日記なぞをつけて見たが、斯うして写生を勉めたお陰で、多少『自然』といふ大きなものに近づくことが出来るやうになったかと思ふ」(写生)
 という主張と、その根底において相通じているのである。いいかえれば、自然の秩序をほぼそのまま実在と信じ、それを感覚的な実感思考をもとに、観察と記憶と写生によってとらえようとするのが、その実質であった。
 もっとも、この作品は表面的には自然主義文学などとは縁遠い存在として眼に映る。表現も、潮の香と魚の匂いにみちた密度の濃い文章によってささえられている。だが、この作品のもっている基本的なはたらきは、自然主義をも含めた素朴な写実主義と本質的に共通したものではないかというのが、わたしの考えである。
 こうした『はまべの歌』のもつ感覚的リアリズムは、人間の存在が、社会的、政治的、組織的なものによって否応なく規制されている現在にあっては、時には強烈な印象を読者に与え、わたしたちを即物的に実在につないでくれるという効果をもたらすが、同時に、このリアリズムでは眼の前のものや、耳のそばにある存在を追求することはできでも、動いている人間をとらえたり、ものの存在をといつめたり、事象の背後にある本質をとらえたりすることは不可能であるという限界もある。そのためには、このリアリズムはあまりにもって実感的、即物的でありすぎるのだ。

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 ところで、先にも一寸ふれたように、新しい作家の作品には、表面的には非常に素朴な意味での自然主義リアリズムは、ほとんど姿を消している。むしろ、いわゆる外界をそのまま一応実在と信じて写しとっていくという自然主義的な写実主義から、できるかぎり脱出しようとする時点で、新しい方法が模索され、実験が試みられているのである。
 こうした傾向は、一般の文学にみられる現象と軌を一にした動きで、自然主義以来の概念が、現代という不安な状況のなかで不信におちいっていることのあらわれである。つまり、外界や自己が内部世界にある個物を、感覚的にその特質をとらえていくという方法が失われ、事物のうちにひそんでいる本質の意味を象徴的にとらえようとする動きが強くなり、外界や内部世界の実在よりも、作家の主体性を重くみる方向がはっきりしてきたわけである。
 いままでの日本の児童文学が、伝統的に継承してきた方法は、作者が考えたことを表現するということではなく、目や耳や皮膚で感じたことを表現するという感覚リアリズムであった。したがって、日本の児童文学作家は多少とも感覚的な実感思考者で、現実を感覚によって抽象し、それを詩的なことばで純粋表現しようとするところに、その方法的な特徴があったといえる。
 現実を自然主義のように新鮮素朴に写生するのでなく、感覚によって抽象し、それを純粋表現するという近代的な方法を、はじめて児童文学のうえにつくりだしたのは、いうまでもなく小川未明であった。未明はその近代的な感覚と、本質抽出を好む気質によって、あの独特な文体を創造し、ごくわずかな作品ではあるが、事象のうらに本質を抽象的にとらえることに成功したのである。例えば『赤いろうそくと人魚』のように……。もし、未明の方法が今日継承発展せられる可能性があるとしたらこの地点をおいてほかにない。
 それ以来、日本の児童文学には、詩的な純粋表現が児童文学の近代性を保証するというきわめて単純な通念ができあがり、未明がもっていたところの、事象の影にひそむ本質を抽象的にとらえようとする積極面は、詩的な感覚による表現のなかに拡散されたまま、必然的にナマの現実から遊離し、造型することが困難になっていったのである。
 このことが、日本の児童文学の概念を不当に狭く限定し、その実質をやせ細らす結果になったことはいまさら指摘するまでもないだろう。こうした事情は、ちょうど日本の近代文学が、「真実を写す」という写実の概念を素朴に「事実を写しとる」という形で自然主義文学によって追求され、わが国特異の私小説をうみだしたケースと相似している。
 現代の日本の児童文学が、かかえているもっとも切実な課題が、この児童文学をせまく規制しているところの感覚的リアリズムをうちくずし、児童文学の方法をより論理的、構造的にとらえ、作家の思想を作品にどうもり込んでいくかという探究にあることはいうまでもない。今日の新しい作家たちが、きりひらこうとしているところものも、これとは別のものではないはすである。そして、いまは、伝統的な感覚的手法では間にあわず、素朴な写実主義でも現実に切り込むことはむずかしく、といって思想的な児童文学を創造する方法も発見できず、それをもとめて、作者の観念的な要求と、感覚的な手法のちぐはぐに苦悩し、思い惑っているという状況のただなかにあるのだ。その端的なあらわれが、新しい作家にみられるさまざまな技法に対する暗中模索であるが、それも、児童文学についての発想の似通っているところでは、たいした効果をあげえないのではないかという疑問がある。

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 このような状況のなかにあって、今日の児童文学が当面している問題に、ま正面からぶつかりオーソドックスなかまえでとりくんで悪戦苦闘をしている作品に、例えば『北風の子』や『ドブネズミ色の街』がある。これら二つの作品は、日本の児童文学に正統的なリアリズムを切り開き、うちたてようという意欲のもとにかかれたものとしてうけとっていいだろう。その結果は必ずしも成功はしていないが、こうした試みは今後も大いに推進される必要がある。
 『北風の子』は、昭和二十五年ごろの、東北津軽地方の貧しい農村部落に生きる子どもたちの姿を、農村の次三男問題、日本の社会のなかでしめる農村の位置あるいはその矛盾という、アクチュアルな問題との関連のなかで追求しとらえようとした作品である。
 この作品の基調になっている思考方法は、あきらかにさきにあげた第三のタイプをめざしたもので、農村社会を分析的、論理的に探求把握し、それを作品構造の中心にして、くみたてようと意図したものである。もし、この作品の方法的な意義を指摘するとすれば、このところにあろう。
 しかし、作者が現実のなかから抽出したものを、表現する手法としてとったものは、この作品の堅実な作風が表象しているように、生活童話風の素朴なリアリズムであった。そして、この方法をささえているものは、作者の教師としての体験と、貧しい農村の実態についての観察なのだ。この体験と観察に素朴によりかかり、それを表出しようとする意識が事実という素材のなかに解体してしまう危険をはらんでいるところに、いうなればこの作品の根本的な弱点がある。おそらく、登場する子どもの類型的な描き方や、事件のとらえ方などに具体的にあらわれているこの作品の弱さや一種の古さは、ここに起因するものである。
 だが、わたしはこうした欠陥を認めながらも、この作品が現在という時点で果たしている役割や意義をそれなりに評価したいと思う。
 その評価のかなめを一口にいうならば、生活童話的リアリズムの今日における正統的な発展継承ということである。
 いうまでもなく、プロレタリア児童文学より転移していった生活童話は、未明以後の伝統的な感覚的リアリズムを克服し、現実を論理的、抽象的なとらえ方へと発展させようとしたところにその存在の価値があったが、時代的な制約が大きなカセとなって充分に成熟せず、したがって感覚的リアリズムのもつ弱さも精算できず、後退となしくずしのなかで、脾弱なリアリズムに変貌していったのである。こうした生活童話のもつリアリズムが、現実を浅いところできりとり、模様としてしかとらえることができなかったのは当然のことであった。しかし、このような弱さをもった生活童話的リアリズムも、その当初において果たそうとした可能性は、今日においても、なお充分に検討されるに耐えるものを内包しているのではないか。それはわずかに戦後児童文学の初期の作品において継承発展させられたのみで、その後の批判検討もなく現在すでに過去のものとして忘れ去られた感じがないでもない。果たしてそうかというのがわたしの感じである。
 たしかに、生活童話のもつひよわいリアリズム、特にその観念過剰的な側面と恣意的な抽象、あるいは論理的にでなく、より多く倫理的に現実をとらえようとした側面は、批判克服されなければならないが、このリアリズムが可能性としてもっていたところの、現実を実践的・批判的・変革的な視点で把握しようとした意図は、現在でも生かすに値するものである。
 率直にいえば、現在の児童文学は、生活童話のもっていたリアリズムの積極面ですら、充分に生かしきっていないのが現状なのだ。
 『北風の子』が、古風な感じを漂わしながら、読者にあるたしかな印象をあたえ、作者の思想的な要求と手法が均整のとれた融合をもちえたのも、あるいは、作者の体験と観察が、その内部で思想にまで醗酵し、それによって作品が構成されるところまでいかなかった限界も、生活童話的リアリズムに由因している。

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 『北風の子』が農村の子どもを描こうとしているのに対して、『ドブネズミ色の街』は都会の下町にすむ子どもの群像をとらえようとした作品である。
 ここには特定の主人公はない。町工場がひしめくうすぎたない下町で、それぞれに生活の重荷を背負いながら、貧乏、友情、進学、就職などの問題を、自分なりの力で考え解決しようとして行動する子どもたちに焦点をあわせ、現代の社会現実のゆがみや矛盾を、そのなかにおかれた子どもの感覚と欲望、あるいは子どもの存在とものとの関係をあきらかにすることによって、追求しようとする。
 そこにあらわれた方法的な姿勢は、『北風の子』よりもいっそう意識的で、現実を論理的・構造的にとらえようと意図しているようだ。
 作者は、まず一人一人の子どもの上にのしかかっている生活の条件を設定し、そのなかで、子どもたちができるかぎり自己の思考と行動にたよって、そのまわりをとりまいている生活条件にぶちあたらせ、それを変革させようとする。そこから生じる苦悩や行為をさらに前進させることにより、日常性の背後にひそんでいる現代の矛盾を、子ども自身の手によってさぐらせ、感じとらせようとする。
 こうした意図は、作者の素直でひたむきな情熱、子どもに対するあたたかい声援に裏づけされて、ある程度の説得性をもつことに成功している。
 だが、弱点もところどころに顔を出しているのだ。例えば、生活の条件を変革しようとする子どもたちの思考と行動は、必ずしも有効な働きかけをもたず、日常性のなかだけにはいまわり、ただわずかに、子どもたちの衝動的、突発的ともいえるヒステリックな行動によって、現実に対する抵抗をしめすにすぎない。家出、盗み、殺人未遂といったふうに……。たしかに、こうしたことがらは現実にいたるところでひきおこされているものであるが、この日常的な出来事が、作品のなかで文学的真実をもつためには、それがナマのかたちで描出されるのではなく、明確な主題、普遍的認識にまで高めるところの作家の強じんな思想によってとらえ、位置づけられねばならないのである。だが、ここでは、それが日常的、類型的なカラをひきずったまま持ち込まれていて、作品全体のなかで検証され、かつ具体的な人間の諸関係のなかで実証されていないのである。
 いいかえれば、作者は子どもたちにいろいろな問題を背負わせることに急で、それらの問題を、子どもたちの生活のなかから自然に浮かびあがらせ、ひきだす努力が弱かったということになる。しかも、社会のゆがみや現実の矛盾を、子どもたちのイメージを解明にし、造型していく過程でときあかしていくことよりも、作者の知識として説教的にいいきかせる観念的な性急さも、この作品を未成熟なものにしている。
 さらにいうならば、作者はそうした矛盾を子どもたちをめぐるいくつかのエピソードのつながりによって、とらえようとしているがその一つ一つが作者の思想によって貫かれていないため、それはライト・モチーフのくり返しによる効果の重層化とはならず、平板な音響のひびきにおわったことも、この作品の骨格を弱いものにしている。その原因は、全体をまるごとつかむのに必要な、小さな単位であるエピソードが、精密かつ構造的に造型されていないため、その小さな単位の積み重ねによる構成的な効果がおこらず、横に拡散していくのみで、印象をうすめるという結果におわったためである。
 ともかく、この作品のすぐれた試みは、現実を総合的にとらえようとしたところにある。現代の社会から疎外されている個人を通して、疎外する社会の全体にまで視点を見すえようとしたところにこの作品の新しい試みがあり、可能性がある。
 個人主義的な自我にのみ焦点をあて、その個人の意識に反映する現実社会のゆがみを、個人の頭のなかだけで恣意的に抽象したリ、実践による検証をぬきにして、観察したものを拡大してみせても、そこには生きることの苦しさや状況の困難さだけが強調され、そこからどうその状況をうちやぶって脱出し、変革していくかという展望をもつことはできない。この展望のないところでは、文学は必然的にニヒリズムか芸術至上主義のいずれかに傾斜していかざるをえないのである。これは児童文学にとってタイハイ以外のなにものでもない。このタイハイへの道に転落しないためにも、児童文学の発想を変革していくためにも、いま必要なことは、階級的・民族的な連帯意識をねがう観点に立って現実を追求し、変革的・実践的な立場から児童文学をとらえなおしていくことである。ここに児童文学の新しい可能性の一つがあることはたしかなことである。わたしは『ドブネズミ色の街』のもつ実体と可能性をこの地点でとらえたいと考えている。

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 先日、「煙の王様」という芸術祭参加のテレビ映画をみた。これは川崎あたりの工場街にすむポパイという少年が、さまざまな現実の壁にぶつかりながら、たくましい生命力でそれを一つ一つ克服し、最後に立退きをせまられているわが家や友だちの家の状況を、子どもたちの連帯と知恵と行動によって変革していくという、いわゆる「現代っ子」の物語を描いたもので、俳優の好演技もあって生き生きした感動をあたえてくれるすぐれた作品であった。この作品は映画「キューポラのある街」教育映画「津浪っ子」と同じ系列に位置するものだというのが専門家の見解であるがさしずめ児童文学でいえば、先にあげた『北風の子』や『ドブネズミ色の街』などのリアリズム系列の作品に対応するものといってもそう見当はずれではないだろう。そのめざしているところのものは、ほぼ似たような質のものではないかと思う。
 だが現在生み出されている児童文学作品の多くは、子どもの読者をひきつける興味や事件の展開、そのスピード感等について、「煙の王様」に太刀打ちできないのではないだろうか。
 今日、映画のもつストーリーの発展、事件の展開によって、テーマを説明しようとする方法や、場面を短く区切ってつみかさねていくモンタージュ手法は、文学の方法にも移入され、映画的手法をつかった文学作品も数少なくない。児童文学作品にとって、そのストーリーのもつ役割の重要さを考えるとき、この映画的手法は大いに試みられていい方法である。
 『ぼくらの出航』は、こうした映画的手法のもつ要素を多分に考慮しながら、中国東北地方で敗戦をむかえ、その混乱のなかでさまざまな事件にまきこまれて生きる日本人の少年ヤマザキ・タダシの行動を、冒険小説風にまとめたものである。
 作者は、少年時代の体験をもとにして、敗戦という大きな動乱のなかで体ごと現実にぶつかって生きぬこうとする子どもたちの姿をとらえると共に、民族の問題をあきらかにしようと意図したと思われる。そのための方法として、作者は「いっさいの不必要な説明、たとえばおとなの感傷、よけいなお説教、つぶやきなどきりすてて、もっぱら、少年たちのスピーディーな行動そのものを追跡する」(あとがき)ことを試みている。たしかに、そこではできるかぎり余計な気分的な説明や心理の解説がはぶかれ、主として会話と行動によってストーリーを展開している。そのためほとんど抵抗なしに読むことができ、ある程度のスピード感をもることに成功している。
 こうした映画に暗示された手法は、一つは子どもたちに児童文学をおもしろく読ませるという利点をもち、いま一つは、行為と会話のみの描写というある意味で原始的な方法が、読者にショックを与え、強烈な印象をもたらすというすぐれた効果をもっている。
 ところが、『ぼくらの出航』は前者においてある程度の成果をおさめているが、後者については、むしろ意外に印象が希薄なのだ。このあたりにこの作品の盲点がひそんでいる。
 新人の作家は、まず子どもたちに興味のある作品を創造するために、できるだけ作品を構成しようとする。ストーリーを仕組んだり登場人物の性格を組み立てたり、作品の背景や状況を構成することに精力的な努力を集中する。これらのことは重要なことだ。そして例えばストーリーを組み立てることもたしかに芸術的な意味をもっている。しかしそれが真にリアリティをもつためには、ストーリーの設定が同時に人物の性格をも構成する
ものでなくてはならない。ところがこの作品では、この点の配慮があまりなされていないのである。極端にいえば、異常なストーリーだけがあって、登場人物はそのレールの上を追っかけているという感じなのである。
 その裏には、作者の特異な体験が、否応なくストーリーに重点をかけることを余儀なくされ、また一方でこの体験をつきはなして対象化することなく、人物の性格ともからませて構成し、検討するだけの時間的余裕もなく書きいそぎ、ために散文のもつ量的な緊密感を犠牲にするといった要因があったのかもしれない。
 ともかく、『ぼくらの出航』は、大衆児童文学に新しい試みをもちこんだとか、新しい現代の冒険小説をめざしたものだとかいわれている。わたしはその説に全面的な賛成はできないが、たしかに伝来の感覚的リアリズムや素朴な写実的手法から脱出しようとする模索はある。ただそれが思ったほどの成果があげられていないのは、社会の虚偽や混乱した現実に挑戦しようとする正義感や情熱にうらづけられたリアリズムが、必然的に表裏して生み出すところのロマンチシズムに対して、どれだけ意識し、計算していたかということである。このロマンチシズムが、思うように自由に駆使できるとき、はじめて大衆児童文学でも冒険小説でも新しい可能性がひらけてくるのではないか。このあたりに『ぼくらの出航』のもつ可能性に一種の不安がのこる。

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 以上みてきたように、新しい作家の作品にみられるリアリズムにもさまざまな弱点や克服しなければならない欠点がある。だが同時に、更に執拗な熱情的な実験と探求によってたしかめられ、発展させなければならない可能性もある。
 いまのリアリズムはまだまだ事実のよせあつめによる真実への手さぐり段階なのだ。どうしても真実と事実の相乗による飛躍をめざさなければならない。
 そのためには、わたしたちはいたずらに、手の届かない遠くのところに視線をやらず、もっと手近なところにある可能性を生かしきる努力と工夫が必要なのだ。それを忘れることは一つの怠惰にすぎない。  (「日本児童文学」昭和三十八年五月号掲載)
テキスト化四村記久子