横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

 成人文学の作家と児童文学作品

 (1)
 最近の児童文学をめぐる状況のなかで、もっとも目立った動向の一つとして指摘しなければならないことは、いわゆる成人文学の作家がかきおろした児童文学作品の出版という現象であろう。
 現在までに、新潮社から八点、筑摩書房から三点、岩波書房からニ点のあわせて十三点が刊行されており、具体的な作品名をあげるとつぎのとおりである。
 『だれもしらない国で』(星新一)、『ユタとふしぎな仲間たち』(三浦哲郎)、『めっちゃ医者伝』(吉村昭)、『遠い岬の物語』(伊藤桂一)、『花は来年も咲くけれども』(阿部光子)、『つぶやき岩の秘密』(新田二郎)、『古城の歌』(田中澄江)、『蛙よ、木からおりてこい』(水上勉)――新潮社、『ユリアと魔法の都』(辻邦生)、『青い宇宙の冒険』(小松左京)、『ダンダン』(長谷川四郎)――筑摩書房、『明夫と良二』(庄野潤三)、『あそびあいてはおばあさん』(木島始)――岩波書店。
 この出版は今後も続いていく予定で、およそ六十人にのぼる成人文学の作家が、児童文学を手がけるという。その意味では、いまはようやくはじまったばかりで、このような動きがなにをもたらすのかその見きわめは、今後の成果にまたなければならないことが多い。
 しかし、これほど数多くの作家が、大挙して児童文学の世界に進出するという現象は、日本の児童文学のあゆみのなかでは明治中期の『少年文学叢書』が出版された頃と、大正期におこった「赤い鳥運動」をのぞいてはなかったことであり、そこに多くの関心や議論があつまるのも当然であろう。
 そこでまず考えなければならないことは、一九七〇年代にはいった今日において、なぜこうした動きがおこってきたのかということである。その背景にあるものについては、いくつかのことが思いうかぶが、見のがすことのできない要因の一つは、子どもの本にたいする社会的な関心の高まりと、それにともなって生じてきた、かなり幅広い読者層の形成および、定着という事実である。情報化時代とか情報社会といわれている状況のなかで、子どもをとりまく情報伝達も多様化しかつ過剰気味になってきているが、そこであらためて子どもの本のもつ意味が新しく認識しなおされ、その役割が重要視されるようになったのである。そのことを端的に物語るものとして、たとえば母親、教師を中心とした子どもの本の読書運動の浸透をあげることができる。そして、それらの運動をささえにして、いわゆる創作児童文学作品が、一定の売れ行きをしめすようになったことを、第二の要因として指摘しなければならない。
 このような基礎のうえに、成人文学の作家を動員しての、書きおろし作品の刊行という企画がなりたっていることは、否定することのできない事実である。もし、社会的な広がりをもつ児童文学の盛りあがりという条件がなかったならば、このような企画が果たして実現しえていたかどうかは、おそらく疑問であろう。そうした社会の底流を、いわゆる児童図書専門の出版社ではないが、児童図書の出版についてもいくつかの実績をすでにもっている出版社が眼をつけ、その流れにのろうとしてもけっしてふしぎなことではない。その点では、この企画はあらわれるべくして、あらわれたものだということができる。ここから今後の動きが、出版社の商業企画がうみだしたものにすぎないという見解がでてくるのも当然のことだろう。
 だが、もちろんそれだけではない。出版社の商業企画がすべてであれば、ことは単純であり、格別にとりあげて論じることもないはずだ。ごく素朴に考えても、どのように出版社が金もうけのための企画をうちだしても、作家の側にそれにこたえるなんらかの意欲がなければその企画がなりたつことは不可能である。その意欲が、たとえ金ほしさからであったり、あるいは出版社の要請に義理でひきうけるといった低次元のものであるとしても、書き手の側のあるかまえなしに、企画が実現することはないのである。
 そして、わたしは、今度の企画についてみる場合、成人文学の作家の児童文学への取りくみの姿勢は、必ずしも安易で、消極的なものだとは思っていない。もっとも、なかには作品のできあがりから推しはかって、首をかしげたくなる面もないわけではないが、その多くはそれなりに努力がはらわれているとみている。いってしまえば、子どもむきの作品だからという理由で手ぬきや調子を落としたといった感じはなく、むしろ、一度は児童文学なるものをかいてみたいという、作家であれば当然の願望なり意欲が、まじめなかたちででているのである。
 たとえば、それはつぎのような作家の言葉からもうかがうことができる。
「しかし雨の日や、夏休みの午後など、私が読みふけった童話や小説やマンガなどがなかったら、やはりこうした子ども時代のたのしみはずいぶんものたりないものになったと思います――もちろん私が子どものころはテレビはありませんでした。私はその後、いろいろと本を読みましたが、この子どものころの読書ほどたのしかったことはほとんどないといってもいいくらいです。子どもがもしそんなに夢中で本を読むのものなら、そういう子どもたちのための本を一冊は書いてみたいものだ――私は前からそう考えていました」(辻邦生『ユリアと魔法の都』あとがき)
 「固有の文学意識と方法を離れて、子どもと一緒に遊んでみたいという気持ちを持ったことのない文学者はいないだろう。われわれの造話衝動は、読み手の知性が柔軟な形成期にあって、どんな奇抜なファンタジィも受けつけると期待できるとき一層自由に働くような気がする。私としては、自分の想像力の開放となり、現代日本の創作童話に幾分の刺激を与えることを望んでいる。そして、むろん、読んでくれる子供がよろこんでくれることを」(大岡昇平『なぜ児童文学を書くか』)
 こうした願望や意欲が、そのまま児童文学作品のできばえに反映することはありえないにしても、成人文学の作家の児童文学への姿勢が、商業企画のベースにのっかったものとしてとらえることは、あまり妥当でないことはたしかである。


 (2)
 ところで、今度の企画をひきだしたいま一つの大きな要因として、今日の児童文学作家の責任を指摘する見解もある。つまり、いまの児童文学作家の力量不足や勉強の足りなさから、作品内容の稀薄さをもたらし、安易な作品を量産してきたことが、結果において児童文学の世界への、成人文学の作家の進出をうながすきっかけになったというわけである。この見解は、いわば児童文学の社会的な広がりにその要因をもとめる見方とは対極をなすもので、児童文学にたずさわるものにとっては、考えてみなければならない問題をふくんでいる。
 一九六〇年代の日本の児童文学は、読者である子どもによろこんで読まれるおもしろい作品を、また、作品構成のしっかりとした、スケールの大きな少年少女小説や空想的な物語の創造を目標としてあゆんできた。そしてこの十年間における児童文学作家の努力は、いくつかのすぐれた作品をうみだしたほか、ジャンルは多様な発展をしめし、創作方法や子ども存在の把握においても、それぞれの深化と実験的な追及をつみかさねてきたと思う。その意味で、この六〇年代は日本の近代児童文学のあゆみのなかでも、みのり多い時代であったといっていいのである。
 だが、その反面で、この六〇年代はマスコミがいちじるしい発展をみせた時期であり、児童文学の創造も否応なく、マスコミ状況によってさまざまな影響をうけてきた。さきにふれた児童文学の社会化・大衆化も、このマスコミによってうながされてきた面は大きい。ところが、マスコミによる児童文学の社会化・大衆化は、必然的に作品の量的な生産を作家に要請した。その要請に応えようとした作家は、内発的なものにもとづいた創造よりも、不特定多数の読者をひきつける技術と興味性を先行させるという結果をもたらしたのである。
 こうした作品の量産が、質的なものの低下や通俗化をもたらすことは、どうしてもさけることができない。もちろん、量の増大が必ず質の低下をひきおこすとは断定できないだろう。それにはジャーナリズムのあり方とともに、作家主体の姿勢が大きくかかわってくるが、人間の能力に限界がある以上、量的な増大が質的な停滞をひきおこすことは、道理だといわなければならないのである。
 これらの弱点は、他の条件――いまここでそのことをくわしくふれている余裕はないが、たとえば事実という名のフィクションが氾濫し、事実とフィクションの関係がきわめてアイマイになってきているという今日的な事態――とあいまって、七〇年代にはいるとますますあらわになり、表面的な児童文学の花ざかり現象とは裏腹に、その停滞と貧困化の進行がだれの眼にもはっきりとみえてきているのである。
 さらに、児童文学を専門とする作家の層の案外な薄さや、力量のある作家が数少ないという条件がいっそう拍車をかけ、今度の企画に、成人文学の作家を動員する動機になったことは疑うことはできない。この観点からいっても、今度の企画をうみだすうえに児童文学作家は、なんのかかわりもないし、責任もないということはできないだろう。こうした事態を冷静にうけとめ、自己をふくめて今日の児童文学のありかたを、あらためてきびしく点検してみることは、児童文学にたずさわるものにとってかかすことのできないことがらである。
 しかし、今度の企画をうみだした要因のすべてを、今日の児童文学作家の力量不足に押しつける見解には、わたしは賛成することができない。なぜなら、この問題は、児童文学作家の自己反省によって、かたづくとは思えないからである。果たして、児童文学作家がすぐれた作品をたくさんうみだしていたら、今度の企画が出現しなかったかどうかは、かんたんには予想しえないにしても、わたしには疑問である。それにそのことを、あれこれと議論することが、生産的なことなのかどうかもうたがわしい。
 むしろそのことよりも、いままで成人文学の作家と児童文学の作家が、ほとんどかけはなれていて交流がなかったことこそ問題にすべきだと思う。おとなと子どもという読者の対象の差異こそあれ、両者がともに文学を志向している限り、そこに共通の基底があることはいうまでもないことである。にもかかわらず交流がなかったということは、善意に解釈すれば、児童文学の進展によってそこに専門的な分化がおこなわれてきたためだといえるが、実情はもっとじめじめしたところにもとづいており、日本の児童文学がともすれば”女・子ども”のものとしてとらえられ、社会の片隅的存在でしかなかったということの反映である。その意味で、一般の作家と児童文学の作家の断絶は、日本の文化そのもののまずしさやゆがみの投影だといっていいのである。
 だが、だからといって、日本の近代児童文学作家が、つねにみずからのせまいカラに閉じこもっていたというわけではない。たとえば、小川未明や坪田譲治という作家をあげるまでもなく、彼等は一般の小説も児童文学も共に手がけていた。また、明治から大正・昭和の初期にかけて、多くの成人文学の作家が児童文学作品を書いてきている。こうした現象は、一面では一般の文学と児童文学との未分化をあらわしているが、反面、その当時にあっては、両者の交流がまがりなりにもあったことをしめしている。
 この両者がしだいに縁遠くなっていったのは戦後のことで、その過程は児童文学の独自性の追求のあゆみと軌を一にしている。言葉をかえていえば、日本の児童文学の近代化が、しだいに児童文学そのものを専門的な性格や、児童文学の創造過程での特殊な条件を、明確にしていった結果だともいえるのである。
 たしかに、児童文学は子どもという存在に規定されるところから生じる、独自な本質をもっている。文学としては、一般のそれと共通しているが、児童文学のもつ独自性を無視してはその存立もありえない。しかし同時に、その独自性に安易にのっかっていたり、あるいは児童文学の専門的な性格だけに眼をむけていては、児童文学の衰弱をよびよせることにもなりかねない。せまいワクのなかでは、ともすれば形式や発想や認識が類型化し、マナリズムにおちいりがちである。そのために、現実そのものから多くのものを吸収したり、あるいは、異質なものとのふれあいによる刺激はかかすことができない。そうした意味からいっても、今回の企画が、どのような動機から発しているにしろ、児童文学にとっては歓迎すべきことだといっていい。この動きは、戦後の成人文学の作家と児童文学の作家のあいだに生じた空白をうずめる、必然的な現象としてとらえることも可能である。
 執筆を予定されている大江健三郎が、あるテレビで、成人文学の作家が児童文学をかくことは、児童文学自体の発展のためにも重要なことであると発言していたが、それは正当な考えであり、児童文学は、一般の文学と、もっと深いところでかかあわりあうことが必要なのである。要は、そこからゆたかなものをどう生みだすかであろう。


 (3)
 具体的な作品にふれるまえに、いま一つ考えておきたいことは、今度の成人文学の作家の、児童文学の世界への大量進出をとらえて、第二の「赤い鳥」時代の到来という見方がおきていることである。
 その現象面だけを見れば、たしかに大正期にあらわれた「赤い鳥運動」のそれと類似しているといえる。しかし、それは表面的なかたちのうえだけのことで、両者のあいだには本質的な差異があるとわたしは思う。
 その基本的なちがいの一つは、「赤い鳥運動」が、はっきりとした目的意識のもとに展開された文学運動であったということである。
 それは、大正七年六月に創刊された「赤い鳥」の巻頭にかかげた、つぎのような「標榜語《モットー》」によくしめされている。
「○現在世間に流行している子供の読物の多くは、その俗悪な表紙が多面的に象徴している如く、種々の意味に於て、いかにも下劣極まるものである。こんなものが子供の神経を侵害しつつあるということは、単に思考するだけでも怖ろしい。
 ○西洋人と違って、われわれ日本人は、哀れにもまだ嘗て、子供のために純麗な読物を投げる、真の芸術化の存在を誇り得た例がない。
 ○『赤い鳥』は世俗的な下卑たる子供の読物を排除して、子供の純性を保全開発するために、現代第一流の芸術家の真摯なる努力を集め、兼て、若き子供のための創作家の出現を迎うる一大区画的運動の先駆である。
 ○『赤い鳥』は、只単に、話材の純清を誇らんとするのみならず、全誌面の表現そのものに於て、子供の文章の手本を授けんとする。
 ○今の子供の作文を見よ。少なくとも子供の作文の選択さる、標準を見よ。子供も大人も、甚だしく、現今の下等なる新聞雑誌記事の表現に毒されている。『赤い鳥』誌上鈴木三重吉選出の『募集作文』は、すべての子供の教養を引き受けている人々と、その他のすべての国民とに向かって真個の作文の活動を教える機関である。
 ○『赤い鳥』の運動に賛同せる作家は、泉鏡花、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、野上豊一郎、野上弥生子、小宮豊隆、有島生馬、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、森林太郎、森田草平、鈴木三重吉他数十名、現代の名作家の全部を網羅している」
 「赤い鳥」を主宰した鈴木三重吉は、その創刊にあたって、「童話と童謡を創作する最初の文学的運動」というアッピールをだして全国の親や教師に訴えたが、その運動意識をささえていたものは、お伽噺に代表される半封建的な教訓性をもった”世俗的”な読物、あるいは明治の国家主義的な倫理と商業主義によって生まれてきた”下卑た”通俗的な読物を排除し、”子供の純性”を開発するための、芸術的で近代的な童話を創造しようとする意欲と情熱であった。
 このはっきりとした文学的運動意識こそ、「赤い鳥運動」を盛り上げた原動力にほかならない。現在の企画には、もちろん個人的な動機や意欲・情熱はそれぞれにあるにちがいないが、それがある目標に結びついた運動意識によってささえられているということは考えることができない。
 根本的なちがいのいま一つは、「赤い鳥」には鈴木三重吉というすぐれた組織者兼編集者がいたということであろう。
 鈴木三重吉は、新しい市民社会のモラルや生活感情を表現した童話をつくりだすためには、まず当時文壇で活躍している作家を動員しなければならないと考えた。もっともそこには、有名な作家たちの作品を掲載することによって、「赤い鳥」の宣伝に役立てようとする気持ちがあったことも事実であろうが、それ以上にそうした作家の力量に期待するところが大きかったはずである。そして、さきにあげたような作家に童話をかかせる仕事は、おそらく鈴木三重吉だからこそ可能であったと思われる。その下にあって、編集に協力した小島政二郎らの功績も評価しなければならないにしても……。
 鈴木三重吉のこうした企画は、すべて実現したとはいえないにしても、芥川龍之介、有島武郎、島崎藤村、宇野浩ニらの童話や、北原白秋を中心とした童謡をうみだすことによって、それなりの収穫がもたらされたのである。ところで、この「赤い鳥」の一応の成功のかげには、すぐれた編集者としての鈴木三重吉の努力があったことを見のがすわけにはいかない。鈴木三重吉によって、はじめて童話創作の依頼をうけた文壇の作家たちは、おそらくある当惑をおぼえたことが想像される。なぜなら、多くの作家は、その当時、童話というものにたいして特別の関心なり情熱をもっていたとは思えないからである。義理にからまれて、および腰でかいたにちがいないと思われるふしがある。
 その傍証として、たとえば「赤い鳥」創刊号にのった徳田秋声、小山内薫の作品が、小島政二郎の代作であったという事実や、芥川龍之介は『蜘蛛の糸』について、まずいところは加筆してくれと三重吉に頼み、三重吉が添削していたということなどをあげることができる。昭和八年にかいた鈴木三重吉の手紙に、
「童話をかく修業は、絵をかいて一人前と許されるまでの修業と同じくたいへんです。文章をかくには十年も苦しまねばダメです。ちょっとやそっとでは成業しません。(中略)赤い鳥に出る作でも、一行一行みんな私が直すからあんなに読めるので、原作は坪田君でもだれでも、まるでナッテおりません」
 とあるのも、そのへんの事情をうかがうことができるだろう。
 ともかく「鏤骨彫心という言葉は、三重吉の為にわざわざ作って置かれた言葉ではなかったか」(小宮豊隆)というほどの、三重吉の凝り性と、「一緒にやって見て、いかに三重吉がこまかな神経を持ってい、こっちが窒息する程仕事にねついかと言ふことを知った。一行を幾字にするか、一ページを何行にするか、題の活字の大きさと作者の名前との比例、さし絵のとり方、隅から隅までやかましいのなんのって」(小島政二郎)というほどの、三重吉の熱意が、「赤い鳥」をささえていたのである。だからといって、今度の企画に出版社や編集者の熱意がないというのではないが、両者を比較するとき、前者が積極的な内発力によっているのにたいして、後者がより多く外側からの力に動かされていることは、いなめないように思う。
 このことと関連して思いだすのは、一九三五年から三七年にかけて出版された『日本少国民文庫』の編集にあたった、山本有三、吉野源三郎らの情熱と問題意識の切実さである。それについて吉野源三郎は、堀尾輝久との対話のなかでつぎのように語っている。
「山本さんは、新潮社と交渉して、少年向けの双書の出版を計画し、その編集の仕事を私に与えてくださったのです。それが『日本少国民文庫』十六巻でした。この十六巻の本の構成については、私もだいぶその計画に参加したのですが、いよいよ着手することになって、じゃあ、きみ、これやってくれないか、といわれたときには、実をいうと私はたいへん迷ったのでした。失業中で仕事の選り好みなどいっていられない身でしたが、まだ、学問その他、志すところもありましたから、こういう編集出版の仕事、まして少年向けのものにたずさわって何年かすごすことには、ためらいがあったのです。(中略)しかし、それをやってみようと決心したのは、もう一つ理由がありました。そもそも、山本さんが少年向けの双書を計画されたということが、深く、一九三〇年代というその当時の時代とかかわりをもっていたのです。(中略)山本さんは、ちょうど子どもさんが中学生で、その関係で中学生ぐらいの少年に適切な本のないことに気づき、その欠陥を痛感されたのがきっかけで、子どもの双書を思い立たれたのでしたが、実はそればかりでなく、当時の時世を考えて、子どもたちをあのころのファシズムの中にほっておくことの恐ろしさを痛切に心配されるとともに、まだ今なら、子どもたちには本当のことが伝えられるのではないかと考えられたのです。(中略)当時、ご存知のように講談社がいろいろ少年ものを出していたんですが、満州事変以来の軍国主義に全く同調して、ヒトラーやムッソリーニを英雄として歌いあげていました。おとなたちが弾圧されるだけでなく、少年たちまでが知らないで、このように育てられておとなになってゆくということは恐るべきことでした。(中略)そこで今われわれにできるだけのことは、やはり、しておかなければならないと思い、子どもの本も一生懸命書いてみる気になったというわけです」(「科学と思想」第四号、一九七ニ年四月、新日本出版社)
 長い引用になったが、このような切実さがあって、『君たちはどう生きるか』といった作品がうみだされてきたことは、いまのわたしたちに多くのことを示唆している。もっとも吉野源三郎が、さきの言葉につづけて、「今のような時世で、子どものことを考え、子どもの本を書くというのとは、ちょっと事情もちがうし、書く気持ちがちがっているように思います、なにかギリギリな、思いつめたものがあったのです」といってもいるように、その切実さを今日に求めることは困難だとしても、時代とのかかわりを真剣に思いつめたその姿勢が、『日本少国民文庫』をより普遍的な内容のものにしたことは事実である。
 いずれにしても、「赤い鳥運動」はプラス面と同時に、後でふれるようなマイナス面をもっていたが、その運動における文壇作家の動員は、芸術的な児童文学の追及と、児童文学にたいする社会的な見方を変革するというメリットをうみ、質的な向上をもたらしたことは否定できない。それに待避して、一九七〇年代における成人文学の作家の、児童文学への動員は、日本の子どもや児童文学になにをもたらし、なにをつけくわえることができるのであろうか。

 (4)
 冒頭にものべたように、今度の企画はようやく十三点ばかりの作品がそろった段階であり、全体的にみてもやっと歩みをはじめたところである。そうした時点で、断定的な評価をおこなうことはさけなければならないが、これまで発表された作品を手がかりにして、その傾向なり、特徴なり、成果の予想をすることは可能だ。
 その見方やとらえかたについては、立場や視点をどこにおくかによって、さまざまにわかれると考えられるが、現在までの作品を読んでえたわたしの総体的な印象は、刮目しなければならないような成果はまだみられないということである。一九六〇年代に日本の児童文学作家が、多面的な努力のすえに自分たちのものにしてきた創造上の所産のうえに、大きくつけくわえるものはまだそこにはうみだされていないといっていい。それはある意味では当然なことだろう。日本の児童文学が、ほとんどこれという蓄積をもちえなかった、大正期の「赤い鳥」時代と今日では、児童文学の事情はかなりちがってきている。成人文学の作家が、「一度は児童文学をかいてみたい」という思いにかられてとりかかったからといって、そうかんたんに児童文学の論理を進展させるようなものをつくりだすことはできまい。あたりまえのことである。今日の児童文学がもちえている積み重ねには相当な重みがかかっているのである。
 したがって、そのような期待や観点からのみ、今度の企画の成果をとらえることは、この場合必ずしも適切でないのかも知れないと思う。それは児童文学にたずさわるものの特殊な見方であって、むしろ必要なことは色眼鏡をはずしてそれを児童むきにかかれた一個の作品として見、うけとめて、判断することであろう。
 そうした観点から、一つ一つの作品を読むとき、それらはそれなりのできばえをしめしているということができる。物語の展開のおもしろさ、作品構成のたしかさ、文章表現のたくみさなどにおいて、さすがだと感じさせる作品もすくなくない。たとえば、その具体的な作品として、子どもだけでつくった魔法の都会での、ユリアたちの冒険を想像ゆたかに描いた『ユリアと魔法の都』、明夫、良二、和子の三人の子どもと夫婦の五人家族の、ごく日常的な生活を、淡々とした筆致で語った『明夫と良二』、超宇宙空間を舞台にして、国境をこえた人間が力をあわせ、宇宙の破壊を守る物語をSFとしてまとめた『青い宇宙の冒険』、父をなくした少年が、叔父の指導のもとに、漁師として腕をみがいて成長していく姿を柔軟な文章で描きだしている『遠い岬の物語』などをあげることができる。
 そして、そこでの特徴的なことは、あまり児童文学とか、子ども読者というものを意識せず、自分の作風や持味をのびのびとうちだした作品ほど、質的内容もたかく読みごたえあるものになっているということである。
 それを端的にしめしている作品として、『明夫と良二』や『青い宇宙の冒険』がある。
 『明夫と良二』の場合、作者が、”あとがき”で、
「『ロビンソン・クルーソー』のような話が書ければ、どんなにいいだろうと、思わないわけではありません。(中略)しかし、もしそういう話を書くとしても、船があらしに会って難破するところをどうやって書くかとなると、それだけで途方に暮れます。その代わり、というのもおかしいのですが、私は自分にできる範囲で、これまでに書いて来たのとそんなに違わない書きかたで、ひよっとするとこんなものが好きだといって下さるかもしれない年少の読者の方たちに、是非ともお目にかけたい話を書いてみました」
 といっているように、成人文学とはほとんどちがわない方法でかかれた作品である。
   日曜日の朝、みんなで御飯を食べていると、和子の隣りにいる良二が笑い出した。
   「どうしたの」
   と細君がいった。
   「ひとりで笑い出したりして」
   「こいつ」
   と明夫がいった。
   「思いだし笑いなんか、しやがって。変なやつだな」
   良二は慌てた。
   「思いだし笑いなんかじゃない」
   「それならどうして笑うんだ。気持ちのわるいやつだな、お前は」
   「どうしたの、良二」
   和子がいった。
   「いってごらん、何なの」
   「あれ」
   良二は、向かいにいる井村の箸の先を指した。
   「納豆の糸が、お箸にくっついて、ふらふら、ふらふら、ゆれているの」
   なるほど、良二のいう通り、まるでくもの糸みたいなものが、空中にたなびいている。納豆と葱と海苔をかけたのを、箸でよくかきまぜる。それで納豆の糸がついた。
   「なあんだ」
   と明夫がいった。
 こうした作品の世界は、庄野潤三がおとなむきにかいた『夕べの雲』とそのまま共通している。「文芸雑誌でも通用する作品だ」という見解がでてくるゆえんであるが、同時に「これが児童文学か」という疑問がおこってくるのもやむをえないだろう。その疑問のつきつめは後にゆずるとして、この作品があるたしかな手ごたえをもっていることは認めなければならない。多くの子ども読者をひきつけることはむりだとしても、ゆたかな読書経験をもった子どもには、それなりの興味を与え、うけとめられるのではないかと思う。家庭内でのごくありふれた身辺のできごとを、きめこまかな観察力によってとらえ、作意のない文章で表現したこの作品は、いわゆる物語としてのおもしろさはないが、そこに子ども読者が自分の姿を見出して共感することは可能だ。
 おなじようなことが、「私はいつも、少年むけの作品の主人公を、小さいながらも一人前の『おとな』として行動させることにしています。ですから、読者も、――小学生でも、中学生でも――『おとな』と考えたいのです」という立場から書かれた『青い宇宙の冒険』についてもいえる。格別に子どものためを意識して、作者が背をかがめてサービスしようとしなかったことが、この作品をいっそう興味あるものにしているのである。また、海におちた少年の話を、民謡、歌謡のリズムや民話的な味わいをふんだんにもりこみ、自由奔放に語ろうとした『ダンダン』も、似た事情をもった作品だといえるだろう。
 これらの作品がもっている一種ののびのびとした感触は、おそらく一つは成人文学の作家がいだいている児童文学の反映であり、いま一つは、「固有の文学意識と方法を離れて、子供と一緒に遊んでみたいという気持」からくる開放感と、そこから触発された自由な創造意欲によってもたらされてきたものにちがいない。
 これらの点は、児童文学にたずさわるものが、いま一度とらえなおし、追求してみるべきことがらだとわたしは考えている。成人文学の作家が書いた児童文学作品が、大岡昇平のいう「現代日本の創作童話に幾分の刺激をあたえ」たとすれば、ここにその一つがあるといっていい。
 そして、それは成人文学の作家の児童文学作品にみられる、第二の特徴をもたらす要因にもなっている。つまり、のびのびとした開放感が、作家の想像力の開放をよび、子どもと共有しうる空想の世界をかたちづくることに、あるていどの成果をあげているのである。
 作者の一人である三浦哲郎が、「いままで体験的な小説が中心で、空想をかきたてて書くような仕事には慣れていないのでとても楽しかった」(「朝日新聞」一九七一年九月二十日)といっているのも、その間の事情を物語るものであろう。
 作品としては、さきにあげた『ユリアと魔法の都』や『青い宇宙の冒険』もそうであるし、東北の座敷わらしの世界と少年との交流を描いた『ユタとふしぎな仲間たち』、人間の夢の世界を遍歴する物語をとりあげた『だれも知らない国で』などがある。
 もっとも、これらの空想物語が、質的にとくにすぐれたものだというわけではない。このていどの作品は、戦後の児童文学のなかでもいくつかかかれてきている。ただ、その空想の世界をささえる文学的想像力については、児童文学の側もともに考えてみる必要があるとわたしは思っているのである。
 『ユリアと魔法の都』のなかで、どうしておとながいなくなり、子どもだけの都会がうまれたかを、小説家がユリアに語ってきかせる場面がある。そこで小説家は想像力についてつぎのようにいう。
「なぜきみがリンゴを心に思いうかべることができるか、わかるかい? それはね、きみもわたしも、だれでも、物を思いうかべる力をあたえられているからなんだ。この物を思いうかべる力をもっともっとふやしていく、強めていく――そんな特別な曲をつくることに成功したんだ。つまりその音楽をきくと、その思いうかべる力がとても強くなるものだから、リンゴを心に思いうかべただけで、ほんとうのリンゴがそこにあるのと、まったく同じことになってしまうのだ」
「ところが。こんどはなんともやっかいな問題がおこってしまった。それはね、この音楽を聞きながら、心に思いうかべると、その力がだんだん強くなって、ほんとうの物はしだいにうすれ、消えてしまうんだ。たとえばリンゴを思いうかべる。と、ただちにリンゴは机の上に出てくる。しかしほんもののリンゴのほうが、まるでけむりか霧のように、うすれて、しまいに消えてしまうんだ。(中略)しかし考えてごらん。そうして心に思いうかべる当人は、やはりほんものの人間だ。こいつはほんとうに地面の上に立っている人間なんだ。だから、心に思いうかべる力が強くなるにつれて、こんどは、だんだんと、ほんものの自分のほうが消えていかなければならなくなった」
 いささか説教じみて、教訓的なくさみがないわけではないが、ここには『ユリアと魔法の都』に描かれた”子どもだけでつくられた魔法の都会”がどのような想像力と現実の関係においてなりたっているかが語られている。このような想像力によってつくられている限りその「魔法の都」は、必然的に消滅しなければならない運命にある。作者の意図は、すべての悪がなくなった子どもだけの理想の都会は、じつはウソの世界であって、ほんとうの子どもらしさを回復するためには、その「魔法の都会」をつきくずさなければならないということにある。そこには想像力を一方において信じながら、その一方でつねに、現実をみつめようとする作者の姿勢を感じとることができる。それに、この作品にみられる文学的想像力は、まだ十分に成功しているとはいえないにしても、言葉の単なる概念ではなく、ひとつのものとしての重みを、言語表現にあたえようとする懸命の努力がおこなわれており、その試みは注目されていいのである。
 今日の児童文学の世界にみられる空想物語が、ともすれば符号にすぎない言葉だけがハンランし、ものとしての重みを感じさせることがすくないことを考えるとき、文学的想像力の問題についても、これらの作品を媒介にして、より深く追求がなされなければならないと思う。

  (5)
 ところで、成人文学の児童文学作品が、児童文学の世界に提起したものを細密に拾っていけば、まだこのほかにも、多くの問題があるにちがいない。しかし、すこし巨視的な観点にたってみるとき、そのもっとも大きな成果は、児童文学の世界をより幅広いものにし、あらためて児童文学とはなにかという問いを投げかけたことにあるのではないかとわたしは考えている。
 『明夫と良二』や『ユリアと魔法の都』といった作品は、児童文学をかくということはどういうことなのか、児童文学をなりたたせている要因はなにかといった本質にかかわる問題を、わたしたちに提起しているといっていいのである。冒頭にかかげた十三点の作品について、そのできばえを分析することも必要であるが、より重要なことは、それらの作品が共通してつきつけている”児童文学とはなにか”という問いを、どううけとめるかということである。
 戦後の日本児童文学のあゆみは、ある意味で、”児童文学とはなにか”という問いを、カンテラのようにつりさげ、足もとを照らしたり、自己の内部にその光をあてたりしながら、そこに浮かびでてくるものを、よりスッキリしたかたちでとらえようとした過程であったということができる。近代精神を核とした少年小説の道を手さぐりしたり、欧米児童文学の理念によって、日本の童話伝統のゆがみを訂正しようとする動きがおこったのも、そうしたあらわれの一つであった。
 その志向するところのものを一口にいってしまえば、児童文学を一般の文学との共通性においてとらえるよりも、それが本来もっているはずの、独自な理論や、独自な条件を明確にしようとするところにウエイトがおかれていたのである。もちろん、そのことがまちがっていたわけではなく、当然の志向であったとわたしは思う。日本の児童文学が、子ども読者とかかわったところで自立し、広い社会的な基盤のうえにたって成熟していくためには、どうしてもさけてとおることのできない作業であったといえるのである。
 そして、その過程のなかで、はっきりとしてきたことは、児童文学というものにたいする考え方と、児童文学における「私」のあり方に、新しい変化が生じたことである。 
 つまり、かつての日本の児童文学においては、おとなである作者が、自己の「私」を信じて、その体験なり、情念なり、観念をそのまま童話という文学形式に表現すればよかった。「私」を確信して、童話をかけば、読者である子どもにも共感されるにちがいないという信念が通用していた。
 たとえば、小川未明のつぎのような文章に、その信念がよくでている。
「私は書くものが真実でありたいという願いから、自分の作にかかる小説と童話とに、其のあまり差別のあることを望むものではありません。所謂小説には、大人に分かっても事柄が子供には分からないものがあります。けれど、真に美しいもの、真に正しいこと、また悲しい事実というものは、直観力の鋭い、神経の鋭敏な子供にも、分からない筈はないのです。よく分かるような文字を使って書いたならば、そして、子供に分かることは、もとより大人には分からなければならない筈です。(中略)この意味からして、私は『童話』なるものを独り子供のためのものとは限らない。そして子供の心は失はない、すべての人類に向かっての文学であると主張するものです」(私が童話を書く時の心持)
 ここには、作者である「私」が、真実なるものを根ざしで作品をかけば、子どもに理解されないはずがないという確信に似たものが感じとれる。この確信と情熱が、「童話」を”すべての人類に向かっての文学である”と主張させたに違いない。
 このような立場は、基本的には『明夫と良二』といった作品にも、共通してみることができる。ただ、基本的なところでは共通していても、小川未明がいただいたような確信はここにはない。「かりに少しばかり変てこであるにしても、読者の皆さんの中には、『よく似たことをしている』と思う人がいないとも限りません。いや、きっといるでしょう」といったぐあいに、微妙に作者の「私」は変化しているのである。
 この変化は、事実という名のフィクションがハンランし、事実と虚構の関係がアイマイになって、自己の「私」が、絶対的な価値をもつとは信じられなくなりつつある、今日の状況の反映にほかならない。
 このような状況のなかで、児童文学は、おとなである作者が、自己の「私」だけを確信して、作品を創造することが許されなくなってきている。そこでは、なによりもまず、他者である「子ども」とのかかわりが重視されなければならないのである。「子ども」とかかわることは、とりもなおさず社会とかかわることである。このことを最初に指摘し、主張したのはプロレタリア児童文学運動であったことは、いまさら指摘するまでもないことであるが、戦後の児童文学の過程は、その主張をより明確にし、具体的なものにしていく道のりでもあった。そこから、児童文学をとらえる基本的なワクとして、”おとなが子どものことを意識してあいた文学作品”という共通理解が一つの定義として形成されたのである。
 そこのところをあきらかにしようとする、児童文学の側の努力が、外側からみていて、なにか児童文学の世界に垣根をはりめぐらしていると映ったかもしれない。そして、そこに生じたやや近視的なかまえを、今度の企画からうまれた作品が、逆照明したという面もある。しかしだからといって、戦後の児童文学がおこなってきた、児童文学の本質追求からえた成果を無視していいということにはならないはずである。今日の児童文学を創造するうえで、作者であるおとなの眼と同時に、子どもの視点をもって対象をとらえることは、かかすことのできない条件といっていい。
 わたしはさきに、成人文学の作家の児童文学作品が、とくに子どもを意識しないときに、のびのびとして質的にも高いものになっていると評価した。たしかに、作者が自己の内部の論理にしたがって表現している部分では、作品はある緊張感をただよわせている。また、子どものための小説について、大江健三郎があげている、つぎのような二つの条件をみたしているとき、その作品は手ごたえをもって読者に伝わってくるといえる。
「子供のための小説という言葉から出発して、僕はその成立のために、二つの条件を考えるようになった。第一は、観察力、それも日常的な細部の観察力が、綿密かつ鋭くなければならないこと。第二は、そうした観察力を踏み台にジャンプする想像力の、その飛翔力があくまで強靭でなければならないこと。踏み台がやわであれば、ジャンプはおぼつかないのであるから、そこで第一と第二の条件は、自然にかさなり、それが、子供のための小説の作家の、もっとも基本的な、内部構造をなす、というのが僕の考えである」(「幼年の想像力」、『鯨の死滅する日』所収、文藝春秋社)
 たとえば、『蛙よ、木からおりてこい』などにも、作者の観察力のたしかさを感じさせるところがある。
 ところが、これらの成人文学の作家の児童文学作品が、全く子どもを意識しなかったといえばウソになるだろう。成人文学の作家もそれなりに、子どもの存在を意識し、ときには戸惑い、ときには手さぐりしながら、なんとか子どもとかかわろうとしているのである。ただ、わたしの感じでは、その努力が及び腰で、中途半端なものにとどまっている。このあたりに、成人文学の作家の児童文学作品を読んでおぼえる、なにか一本たりないという不満感がある。あるいは、もどかしさに似た感じがのこる理由がある。
 つまり、おとなである作者と、子どもとのかかわりが、とことんまでつきつめられていないのである。そのためにどこかぎこちなくなったり、ときにはサービス過剰におちいったりしている面がすくなくない。『蛙よ、木からおりてこい』や、『めっちゃ医者伝』『つぶやき岩の秘密』などにも、その弱点が顔をのぞかせている。
 これは根本的には、作者の内部に、確固とした児童観がないことからきているにちがいない。
 その点では、「赤い鳥運動」における、文壇作家と共通しているのである。「赤い鳥」のもたらした功績についてはすでにのべたとおりであるが、その反面で内包していた弱点は、子どもとのかかわりを十分につきつめることができなかったことにある。そこではおとなの考える”童心”という抽象的な子ども像だけが優先され、現実の社会のなかで生きている子どもそのものを、具体的にとらえることができなかったのである。今回の成人文学の作家が手がけた児童文学作品においても、この子どもをどう考え、どうどらえるかについては、アイマイなものでしかなく、いまのところは「赤い鳥」の弱点を克服するまでにはいたっていないと思う。
 ただ、すでにふれてきたように、これらの作品が、児童文学の世界を幅広いものにし、その可能性を柔軟な姿勢で追求する一つの契機をもたらしたことは、歓迎していいことである。世界の児童文学からみても、新しい児童文学の可能性をもとめて、その内容はしだいに多様になり複雑化してきている。そこでは、人間を理想主義的な側面からとらえるのみでなく、人間のもつ矛盾や悪からも眼をそらさないで、現実世界でおこなわれているドラマを端的に描きだそうとしているのである。この傾向は、おそらく日本の児童文学の今後においても、さけることはできないだろう。
 もちろん、現実から眼をはなさず、そこにおこりつつあるものをみつめることは、かかすことのできないことであるが、それはあくまでも子どもとのかかわりのなかでおこなわれるべきであって、そのかかわりを見失ったときは、児童文学が児童文学であることをやめるときだということを確認しておかなければならない。   (「文化評論」昭和四十七年九月号掲載)
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