おくればせの愛

P.ヘルトリンク=作

上田真而子訳岩波書店


           
         
         
         
         
         
         
         
         
    
Sさん、おひさしぶりです。ずっと、雨まじりの天気だったのが、ここ二、三日は青空が見えていたのだけど、今朝はまたちょっと薄暗い空です。少しずつ朝が薄寒くなってきて、だんだん冬が近づいてくるなあと感じさせます。Sさんからいただいた手紙をきっかけに、ぼくはいま、前に読んだことのある本を読み返しています。

<父は、眼鏡と、金の懐中時計と、灰色の紙を折ってつくったメモ帳とを私に残して、逝った。アイヒャンドルフの詩がひとつ、ネストロイの辛辣なことばがいくつか、そしてわたしの知らない二人の人のアドレス以外、なにも書いてないメモ帳を。父は、わたしを残して、わたしと、それから、一つの物語を残して、逝った。その後三十年、わたしがどうしても書きあげられずにいる物語を。わたしは父について書きはしたが、父を語ることはまだ一度もできていない。>

それは、一九三八年から一九四五年に、ドイツ南部からチェコスロバキアの街へと移り住みながら生きた家族の、とりわけ、そのころ五歳から十二歳の子どもだった著者が、ときには今の(そのころの父よりはすでに年上になってしまった)「わたし」として、ときにはその当時の「ぼく」の心に入り込むようにして、父に語りかけた「物語」です。

<お父さん、ぼくはあなたの無言の厳しさをどう解釈すればいいのかわかりません。なぜ、ぼくを叱ってはくれなかったのですか? なぜ、あなたの怒りを見せてくれなかったのですか? それとも、ぼくを見つけた喜びを。母さんもおれもとても心配したんだぞ、となぜ言ってくれなかったのですか? そして、三輪車でどこへいくつもりだったんだ、と尋ねてくれなかったのですか? なぜ、あのとき、あなたはあなたの沈黙を開始し、その後ぜったいと言っていいほどそれを守り通したのですか?>

この物語は著者が五歳のころの情景から始まるのですが、そのときの「ぼく」はこのように「お父さん」に訴えます。そして、ここで述べているような「お父さん」の沈黙に、「ぼく」は、あるときは、嘆き悲しみ、また、恐れこわがり、あるときは、怒り恨み、侮蔑することになり、それによって「わたし」は戸惑い、筆を止めずにはいられなくなります。
たとえば、街でみた道化が吹いていたハーモニカが欲しくって、台所の机の引き出しからお金を一マルク盗み、それが母にばれ、父の知るところとなったとき。

<彼はわたしを罰した。思いがけない方法で罰した。ぼくを無視するのだ。目の前からぼくを閉め出すのだ。食事のときも、夜、居間にいるときも、祖父母のところにいるときも、彼にとってはぼくはまるで無に等しかった。むかいあってもぼくを見ない。そばを通っても目もくれない。彼はそれをほかの人に、妹にまで伝染させた。>
<お父さん、表現はことばどおりの意味をとりもどすことがあります。この沈黙療法をされてから、わたしは「黙殺する」という表現を身ぶるいなしで読むことができないのです。ましてや身ぶるいなしで書くことなどできません。……あなたは沈黙で人を罰しただけではありません。自らもひきこもってしまいました。こういう沈黙は、それをされた人にいつまでもついてまわるということが、あなたにはわかっていたでしょうか?>

たとえば、なぜ、祖父の死後、ケムニッツからブルノやオロモウツへ引っ越すのか? 帝国ドイツ人として通っていた彼が、ドイツ帝国を出て保護領へ移り住むという、不法とも言える道を、なぜ父は選ぶのかということ。

<お父さん、あなたはなぜあっさりと引っ越しの計画を話してくれなかったのですか? お祖父ちゃんがいなくなったからという理由も、弁護依頼人を得るのが困難になったということも、仕事がうまくいく見通しがないという理由も、きっとわたしにも理解できたでしょうに。>

しかし、こうした「ぼく」の思いを掘り起こす一方で、著者は、その父の決心を《ともすれば自分の経験を父のものに投影して考えて》いきます。

<祖父は父を経済的にバックアップしていただけではなく、父の保護者的存在であった。それは疑いもない。この二度目の結婚でできた一人息子は、祖父の秘蔵っ子であったのみならず、祖父には叶えられなかった夢を実現する使命を負わされていた。すなわち、アカデミックな出世である。それはうまくいった。その若者は頭がよく、なんの抵抗もせずに父親の望みどおりに、言いなりになった。そして父親が亡くなると、ひとりで事を決める能力すらもっていなかったのだ。不決断の傾向があり、非常に臆病な人間だったのだ。>
<時代は彼に好都合ではなかった。繊細さは軽蔑され、思案がちな人間は意志薄弱だとあざけられ、規準に従わないものはすべて変質者か下等な人間ではないかと疑われる時代だった。そういった疑いは彼のまわりでどんどん大きくなり、筋肉をふくらませ、こぶしを固めてつめよってきた。彼はひきこもるか、少なくとも目立たないようにふるまわざるをえなかった。彼がどれほど自分を包囲されたものと感じていたか、そのことにわたしはこれまでぜんぜん気づいていなかった。彼の敵がその英雄的な演技とうたい文句でわたしを味方につけるのは、いともたやすいことだった。>

それにしても、それにしてもです。著者が、父親の沈黙はかれ自身の不安や恐怖への抵抗であり、父親の弱さが自分への、いわば愛情の噴出だったと思えるようになるまでに、三十年以上の年月を必要としたのです。
そしてそのために、著者は、弱く静かな沈黙にひそむ近くの気持ちに耳をふさぐかわりに強くわかりやすい遠くの英雄にあこがれ、《ずるがしこく、いままでとはちがう知識をふりまわして、誰のものでもない国を勝手気儘に占領している大人たちの一人になりたい》そんな「ぼく」を、《あの取り替え子である自分を想像してみると、その醜い生き物にぞっとし、記憶の外へ追いやってしまおうと必死になる》としながらも、とまどいもそのまま誠実に語っていきます。
そして、その語りのなかで「ぼく」と父との残された共有の時がだんだん縮まるにつれて、「わたし」はよく彼がしてくれたようにうなじに父の手を感じながら、父を理解し、愛しはじめることができた、と書きます。
もちろん、ぼくは、「親の心、子知らず」などという安易な結論を、言いたいのではないのです。Sさんのいう、「親は絶対、子は未熟」という価値観が世の中に浸透しているのではないか、テレビでの不良娘が結婚式でようやく初めての親孝行を果たしたという演出で涙を誘うシーンを見ると、親に傷つけられたことでその娘は非行に走ったかもしれないのにと反発を感じる、というのにはぼくもまったく同感です。
この本の父親は、むしろ、自分の未熟に苦しみます。息子は、その弱さを見せないでいようとした父に、見捨てられたと感じてしまいます。でも、その弱さから出発することで、父は「いまいろんな形で孤立無援にされて、世の中の勝手がわからなくなっている人たち」の側にたつ仕事を(ここでは紹介しませんでしたが)、はじめて自分から選びます。「あの人は英雄だよ」という「ぼく」にたいして、彼は言うのです。

<ああいうのが英雄なら、----父さんはしずかに言って、立ちあがった。おれは英雄になれないのがうれしい。英雄じゃあなくて、おまえがいつも思っているように、卑怯ものであるのがね。>

ああ、父の台詞だ、と思います。だれかに与えられた、絶対に正しい「親」ではなく、未熟だろうと自分の生きかたを自分自身で選んだ父の言葉です。
この本のタイトルの「おくればせ」というもとのドイツ語〈nachtragen〉には、三つの意味があることを、来日した著者は告げました。「あとから届ける」「いつまでも恨みに思う」、そして「あとから付け加える」の三つ。(訳者あとがきより)

すっかり、長く書きつらねました。ひたすら自分に誠実に書くということが、それはとても厳しいことでもあるのだけれど、人生を生き直すことにつながるということ、そのことで見えてくる未来があるのだということをつよく感じます。よかったら、感想をお聞かせください。それでは、また。(則松直樹)

TEENSPOST No13 1997/10/15