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 今回から翻訳時評を担当することになった。いささかビビッている。単独の作品を取り上げての書評なら何度かやったことがあるし、複数を取りまとめての論評も、何らかの共通項でくくることのできる作品群についてなら多少の経験がある。けれども、相互に何の関連もないいくつもの作品をいちどきに取り上げて何かを言わなければならないというのは、なにしろこれが初めてなのだ。
 しかも、ここではあらゆる国の作品を扱わなければならない。これが「イギリスの」とか「アメリカの」とか、せめても「英語圏の」というくらいの限定つきであるなら、私もずいぶん気が楽なのだが・・。本当に考えれば考えるほど、どこの国のいつの時代の作品を他のどういう作品と組み合わせて語る羽目になるやら見当もつかないという、この「翻訳時評」なるものは始末が悪い。「時評」と言うが、本来時評を面白くしてくれるはずの<社会><状況><時代>といったコンテクストを、はなから評者に与えようとはしないのだから。
 というわけで、重々承知の上で引き受けたはずの困難に早くもつまずいている我が身の不甲斐なさを呪いつつ、今回リストにあがった一〇冊あまりの翻訳書にひととおり目を通す作業に移ることになった。たまたまこの時期に同時に刊行された、さまざまな国のさまざまな内容の一〇冊−−と思って読み始めてみたのだが、結果的には全体として、ここに紹介する作品もそうならなかった作品も、なぜか日本でもおなじみの作家のもの、あるいは、すでに邦訳された作品の続編に当たるものがほとんどだった。つまりは、ある程度の販売部数が確実に見込める、版元にとって安全な作品ばかりが集まってしまったわけだが、このことはまあ、ひとまず措くとしよう。ともあれ、良くも悪くも粒がそろっていて読みやすかったし、それに、諦めていた「共通項」も全くないわけではなかった。今回のところはとりあえず、「たまたま」に感謝。
 今回最も印象に残ったのはマイケル・フォアマンのウォー・ボーイ』(奥田継夫訳、ほるぷ出版)。第二次世界大戦中に幼年時代をおくった作者が、戦時の風景を文と絵で綴った回想記である。同書はそのイラストレーションによってケイト・グリーナウェイ賞を受賞した。けれども、そのいつもながらに美しいフォアマン挿絵にもまして、素晴らしいのはむしろ文章の方ではないかと私は思うのだ。
 舞台はイギリスの東海岸。対岸にあるナチ空軍の飛行場からわずかに九〇マイル、開戦から終戦までに合わせて二千四十七回もの警報が鳴ったという、まさに最前線の小さな町だ。フォアマンは、疎開をすすめる政府の勧告にもかかわらずその危険な町に踏みとどまった人々のこと、母親の経営する「なんでも屋」のこと、町に駐屯していた大勢のイギリス軍兵士たちのこと、悪童連と興じた戦争ごっこのことなど、数々のエピソードを幼い少年の目の高さから再現していく。けれども、絶え間ない空襲にさらされ、彼自身何度も危険な目に遭っているにもかかわらず、怖い、悲しい、ひもじいなど、この種の話につきものの暗いイメージはここには全くない。子どもたちには毎日何かしら面白いことが待っているし、大人たちでさえそれなりに人生を楽しんでいるようだ。一ペニーで買うキャンデーのさまざまな味わい方、空襲の間に逃げ出したヤギをみんなで追いかけたこと、爆風に飛ばされた草花の種が思いがけないところに芽を出す春の季節のこと・・。
 このようにおおらかな戦時を描き出すために、おそらく作者は話題を厳しく取捨選択したに違いない。そしてそれ以上に、自らの語り口を厳しくコントロールしようと努めたに違いない。すなわち、当時子どもだった自分を語るときには、実際に起こったこと、自分の目が見たこと、自身が行ったことだけをそのままに語り、現在大人になった彼の思いをそこに一切介入させないこと。そのかわりに、彼の大人としての思いは母親の「なんでも屋」に集う兵士たちの上にあふれる。「みんな、子ども持ちだったと思う。それなのに、よその家にいる。きっと、たった今のおやすみのキスをした男の子(ぼくのこと)が自分の子どもだったらいいのにと思っていたにちがいない」のだと。 いかに戦火が迫っていようと、作者にとっては何ものにもかえがたい懐かしい子ども時代−−それを作者は自分のノスタルジーとしてではなく、戦場に行った兵士たちのノスタルジーとして描いた。これはなかなかすごいことではないだろうか。
 今回は自伝的な作品がもうひとつある。ペーター・ヘルトリング『おくればせの愛』(上田真而子訳、岩波書店)がそれだ。そしてここでも同じように戦時が描かれ、子ども時代の作者と大人になった作者が同じように交錯する。もっとも、こちらの方はズシリと重い。重苦しいと言ってもよいかもしれない。内容は、ひとことで言えば、父と子の葛藤。作者は一二歳で父を亡くした。生前の父とはついに理解し合うことができなかった。もし生きていたなら、そうして大人同士として向かい合えたなら、わかり合えたかもしれないのに−−その機会を奪われた喪失感が、作者を自身の子ども時代を再検討する作業に駆り立てる。その作業を通じて、作者は幼い日の彼を苦しめた父の言動の背後にあるものを、大人の目で、探り出そうとするのだ。
 その頃、幼い少年をさいなんでいたのは父親の「沈黙」と「罰」−−。それらから受けた心の傷を、前半部で、作者は父に向かって繰り返し訴えかける。「わたしはあの罰のことであなたに怨みを持ちつづけてきました、いまにいたるまでずっと。ずっと思いつづけ、怨みつづけてきたのです、お父さん」。その言葉の激しさに、『ベンはアンナが好き』『ヨーンじいちゃん』の愛読者は戸惑いを覚えるかもしれない。そして、そこに描かれた少年の絶望の深さ、その裏返しとしての家族への残酷な仕打ち、その結果としてのすさんだ生活に、大きな衝撃を受けるかもしれない。だがそれにもかかわらず、読者の中で作家ヘルトリングのイメージが大きく変わるということはないだろう。なぜなら、この作品の全編を貫いているのは大人としての作者の、父を愛し直したい、という強い願望であり、その願望は、この作品と彼の子どもの本の世界をつなぐものとなるだろうから。
 少年と父をいっそう遠ざけたもののひとつに、戦争の存在がある。ドイツ少年団に憧れる愛国少年の目には、帝国への消極的抵抗者であった父の言動はただでさえ不可解なものと映ったのだ。けれども、『ウォー・ボーイ』が作者フォアマンを離れた一人の少年の戦時の物語として読めるのに対し、『おくればせの愛』はあくまでもヘルトリング個人の物語である。その意味で、そもそもこれは児童文学ではないし、児童文学として読むということさえもむずかしいかもしれない。けれども、児童文学というものに興味を抱く読者にとっては、特に児童文学を書くという行為に興味を抱いている読者にとっては、この作品はまたとなく貴重な示唆を与えてくれるものになるだろう。もちろん、とりわけヘリトリング・ファンの読者にとって。
 さて、そのヘルトリング同様日本で高い評価を得ているフィリパ・ピアスのこわがってるのはだれ?』(高杉一郎訳、岩波書店)もまた興味深い一冊である。内容は、スーパーナチュラルの要素を含んだ短い話が一一編。八年前に翻訳刊行された同じ作者の『幽霊を見た10の話』と同傾向の短編集だ。はるか昔、大きな屋敷の使用人の息子として育った少年が、主人一家への憎しみをすり込んで作った「クリスマス・プディング」の話。実の弟の過失により、夫と子どもをいちどきに失った女が、幽霊となって弟につきまとう「弟思いのやさしい姉」。昔主人と遊んだボールが忘れられず、もはやこの世のものではない我が身には決してくわえられないその「黄いろいボール」を追い求める犬の幽霊の話−−と、いかにもピアスらしい作品が並ぶ。中では宗教寓話風の「よその国の王子」あたりが、作者にとっては新しいチャレンジなのだろうが、あまり成功しているようには見えない。やはりピアスは、人間の(あるいは動物の)思いの強さを描いてこそピアスだ。
 そして多くの場合、その思いの強さを受けとめるのは子どもである。傍観者としてまた語り手として、その他人の思いを確認するだけの子どももいれば、いつの間にかその中に巻き込まれてしまう子どももいる。もちろん、児童文学として読みごたえがあるのは後者の方だ。例えば「あれがつたわってゆく道」に登場する少年は、ある日、庭師をしている年老いたおじが雑草にひどく執着していることに気がつく。自分にとって大事なのは雑草そのものではない、その根にからみついている「もうひとつ別なもの」なのだ、とおじは言い、その得体のしれない何かを盗み出すために他人の家にしのび込むことを、幼い甥に強要する。こうして少年は真夜中の見知らぬ庭園で雑草の山にいやいや手をつっこみ、はからずも、おじの秘蔵する「あれ」が自分の体に流れこんでくる感覚に「うっとりと」することになる・・。この一冊の中で、恐らく最も印象的で、最も怖いシーンだ。
 この一編もそうだが、百歳の誕生日を迎える老婆が登場する表題作「こわがってるのは、だれ?」をはじめ、この短編集で強烈な「思い」を発散するのは老人であることが多い。それもこの一冊の大きな特徴のひとつとして紹介しておきたい。
 そして、B・ジェレーズニコフの『転校生レンカ』(松谷さやか・中込光子共訳、福音館書店)でも老人が重要な役割を果たす。退役将校であるその老人は、生まれ故郷の古い家に一人で暮らし、画家であった祖先の作品の蒐集に余生のすべてを捧げていた。だが、にわかに孫娘レンカを預かることになって、彼はもうひとつ別の夢を抱くようになる。すなわち、レンカがずっとその故郷の家で暮らし、先祖の絵を守り続けてくれること。ところが、転校先の学校でひどいいじめに遭ったレンカが、今すぐ町を出て行くと言い出した。驚いた老人は一部始終を説明するようレンカに求める。そうして一人称で語り始めるレンカの話が、この物語の大半を構成することになる。
 レンカがいじめられるのは、彼女が級友の罪をかぶっているからだ。彼女は一目見たときからその少年が好きで、その後もいつかは彼が自分から罪を告白してくれるものと信じつづけて、何度も何度も裏切られる。その間いじめは次第にエスカレートし、クラス全員が彼女を「ボイコット」(日本流に言えば「シカト」)。最後は、彼女に模したかかしを彼女の目の前で火刑に処する、ということまでやってのける。けれども私はどうしてもこの物語をいじめの話として、あるいは学校の話として、読むことができなかった。多分それは私が旧ソ連の社会や文化についてほとんど何も知らないからだろう、いじめる側の心理にも、いじめられる側の心理にも、また初恋の心情にも、最後までなにがしかの違和感が残った。逆に言えば残念ながら、私は日本人として、ここに描かれたよりはるかに切実な、痛いほどによくわかるいじめの話を、フィクション・ノンフィクションの別を問わず、すでにいくつも知ってしまっているのだ。 そこで話を老人の方に戻すと、レンカの話に真剣に耳を傾ける過程で彼はひとつの重要な発見をする。レンカが高潔な精神をもった素晴らしい少女であること、そして、その精 神こそ祖先の画家がその絵を通じて追求しつづけたものであること・・。こうして彼はひたすら過去に執着していたそれまでの暮らしを捨てて、レンカとともに、もう一度現実の人生を生きる決心をする。ここで老人を変えた少女の力は『ハイジ』におけるそれをも彷彿とさせ、類型的でありながら、なおそれを越えて読者の心に迫ることだろう。 というわけで、月並みだが、今後も独断と偏見に満ちた時評をお届けすることになると思う。なにとぞご了承のほど。(横川寿美子)

日本児童文学V38,N10・翻訳時評 1992/10