一九五九年の「成長物語」
−個と共同性のはざまで−(5)

芹沢 清実
(UNIT評論98・論集)

           
         
         
         
         
         
         
     
5・少国民世代のふたつの自画像

 信用できない大人への服従を拒否し、自分の良心にだけ服従する、と宣言する『谷間の底から』の千世子。あるいは、大人の虚偽を見抜いて、変幻自在に家族を渡り歩く『とべたら本こ』のカズオ。
 彼らのように、大人とは別の人格主体として「個」を生きる子ども像は、少国民世代が自身の体験から体得した自己イメージでもあった。つまり、この時代に描かれた「近代的子ども像」とは、彼ら自身の自画像でもあったのだ。
 戦争を生きた子どもの物語が、普遍的な「近代的子ども」による「成長物語」のすぐれた典型となっている例は、翻訳児童文学にいくつも見うけられる。ざっと思いつくだけでも、エリック・C・ホガード『小さな魚』(原著六七年、犬飼和雄訳、冨山房)、ミシェル・デル・カスティーヨ『タンギー』(原著五三年、平岡敦訳、徳間書店)。こうした系譜に、『谷間の底から』は入れるとしても、その後ほかにどんな作品をあげることができるのだろうか。そのような軸で位置づけてみると、少国民世代の自画像としての、「個」を生きる子どもの「成長物語」は、戦後の児童文学における大きな成果だったといえる。
 少国民世代の自画像は、また、別のかたちでも描かれる。すでに大人になり、次世代である子どもとかかわる青年の姿として。
 『山が泣いている』では、子どもたちを応援した青年教師、平和運動をする大学生。あるいは、『赤毛のポチ』では、貧しい子どものことを気にかけ、そうした子どもから学ぼうと決意している女性教師。どちらも、平和運動や労働運動といった、当時の社会の核心にふれる問題を扱った作品である。ここには、啓蒙のにない手たるインテリゲンチャとなった彼らの自画像がみられる。
 しかし、そこでこれらの問題を解決する可能性をもつ存在として提示された子ども像は、前述したような「個」として自立性をもつ子どもとして描かれていなかった。子どもは、「草の根」と同義であり、啓蒙の対象なのである。
 しかし、こうも考えられる。
 木島始『考えろ丹太!』は、ロアルド・ダールを連想させるドライで明るいタッチが魅力の、どちらかというとナマな「社会性」を感じさせない作品だ。しかし、こういう作品にも、子どもたちに手をかしてくれた若い女性教師が「『原水爆禁止世界大会』のことをかいたパンフレットをハンドバッグにしまい」こむという描写が、ちらりとはさみこまれる。ことほどさように、時代は<子ども>と<社会進歩>をシンクロさせていたのだ、と。
 人々は未来を信じており、その意味で、まだ社会は人々に共通の基盤を失っていなかった。<支配−服従>という古い共同性とは質を異にするとしても、<与え導く−与えられ導かれる>という知をめぐる共同性、すなわち啓蒙というスタイルが成立した。その後、商品生産が社会全体をおおいつくしていくにつれ、共同性は市場化され、人々はますます「個」として分断されていく。
 少国民世代が、戦争をになった大人である旧世代とは<違う大人に成長>したのと同様に、その後の世代も、少国民世代とは<違う子ども>として成長していった。ほんらい自分とは異なるものである「子どもの側に立つ」ことは、大人にとってじつはさほど簡単なことではない。それは、一九五九年においても、もはや言えることだったのではないか。
 ただし、総力戦とその敗戦というできごとのインパクトは強く、その前では、戦争遂行の責任をおった旧世代との訣別が必要なことが明白だった。そこに太い線を引くことで、それ以前の大人との差異性を打ち出さないことには、明るい未来は望めない。そこでは、「子どもの側に立つ」ことに社会の追い風が働いた。
 今も風は止んではいないが、風向きは明らかに変わっている。

 最後に「学級崩壊」の話にもどる。ほとんど授業がなりたたない小学校五年生のクラス。五十代ベテラン教師の授業はとてもつまらなく、騒ぐ子の気持ちがわかるという女の子の発言を読んだ。
「お母さんでさえオバサンなのに、それよりずっと年上のオバア サンに私たちの気持ちが分かるわけない。私も先生が何を考えているのか分からない。表情がなくて怖い。もっと笑顔で話してほしい」。(九九年二月九日、朝日新聞)
 「オバサン」「オバアサン」という表現によって彼女は<親−子>を引き合いに出しながら、教師をも<先生−生徒>という固定された役割分担から個人のレベルにひきずりおろそうとしている。ここからは、共同性によりかからず「個」として向き合ってほしいという、きわめて健全な願望が感じとれる。これもまた、子どもをめぐる夢なのかもしれないけれど。
 児童文学というジャンルは、大人と子どもの関係についてのイデオロギーを、けっこう無防備に反映する。そのおもしろさを求めて過去を読み返す作業の課題は尽きないが、とりあえず本稿はここまで。
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