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 ネスリンガ−からおちてきた王子』 (佐々木田鶴子訳、ほるぷ出版、二ハ○○円)を読んで、ちようど『アリーテ姫』を読んだときに似たわだかまりを覚えたのでした。メルへンという体裁をとりながら、『アリーテ姫』ではフェミニズムがテーマになり、『空から…』では不仲な両親の間で悩み苦しむ王子とか、好きな娘を自分の世界に囲い込むことが愛だと勘違いしている鷲とか、いったんその鷲から逃げながら、結局欲望を満たしてくれる鷲が一番と鷲の元に帰ってしまう娘とか、なにかしら現代人が抱える問題を代弁するキャラク夕ーたちが登場します。
この『空から…』を、児童文学作家のひこ・田中は産経新聞の書評欄で「近代秩序の枠組みに捕らえられ、安全なものとして、今、私たちの前にその身をさら 土している」メルへンに、「内部から揺さぶりをかける試みだ」と評価しています。それはそうなんだけど、『お引越し』で、親の別居という変化の中で、自分も積極的に変わっていこうとする元気な主人公漣子を描いたひ・田中がこんなこというのかなあ、というのがぼくの感想。
だってテーマが今日的なものに変わっても、表現形式自体は変わってないですからね。女性問題、離婚問題などについてはある程度、今の社会にコンセンサスができてるから受け入れられるけど、戦争賛成というテーマが今の社会で退けられているように将来コンセンサスが変われば『空から…:』のテーマも見捨てられる運命にあるかもしれません。
それに同じテーマといっても、その読まれ方に問題がある気がします。従来のメルへンでは、そこからどんな教訓を読みとるかはもっばら受容する側の課題でした(つまり時と所によって答えは多様)。でも『空から…・・』では、ぼくらが読みとるべき答えが作者によってあらかじめ用意されているのです。現代人の思考がマニュアル化しているとよくいわれますが、文学まで答えの用意されたマニュアルにならなくてもいいと思うのですが……。
もちろんネストリンガーはバランス感覚がいいから、テ−マの内容に異論はありません。問題は作品がテーマに、登場人物が概念や社会通念に還一元されてしまう表現形式だと思います。その方がわかりやすいし、わかった気になれます。でもアラン・アーキンのレミング物語』みたいな例もあるのです。これは、あるレミングの子が「集団自殺」という「掟」に盲従する大人たちに疑問を抱き、自分らしさに目覚める物語で、テーマは現代的で、決して悪くありません。ただしそれも、レミングの集団自殺が本当に本能としてインプットされた行動パ夕ーンであればの話です。ところがこれがどうも人間の勝手な思い込みらしいんですね。最近では、大量発生によって起こる極度のストレスが原因だという説があるのです。もしそうだとしたら、生きるものとして本当に痛みを感じているのはむしろ「集団自殺」する側ということになります。なのに作者は「レミングの集団自殺は本能」という社会通念の中にとどまったまま。結局書きたかったのは人問のことで、レミングはそのためのダシ。現実のレミン グの痛みは関係ないのでしょう。そんな気がします。
ぼくは「離婚家庭の子はかわいそう」といった社会通念にはまらない『お引越し』の漣子が好きだし、単一の概念や社会通念に還一元できない矛盾を抱えた生き物としてレミングや鷲に出会いたいと思います。そういう作品としてぼくの射程に入っているのは、たとえば漫画の『動物のお医者さん』『ぼのぼの』『かってにシロクマ』だし、最近出版されたウ−ヴェ・ティムのわたしのぺッ卜は輿づらル−ディ』 (平野卿子訳、講談社、二一○○円)です。 『鼻づらルーディ』はアパートでぶたを飼うことになった一家がすったもんだする物語で、ぶた=ぺットという、社会通念に反する状況を積極的に受け入れていく一家の日常を通して、状況が変わればぼくらの生き方も変わる(変えられる)ものだということ、生きるというのは必ずしも固定した概念や社会通念に還元できるものではないということを実感できる作品です。 (酒寄進一
読書人 1991/07/15
テキストファイル化 ひこ・田中