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ドイツ児童文学の翻訳者として児童文学に関わりだしたぼくが時評を書きだして二年たつ。なんとなく自分の訳書はとりあげられないよなあ、なんて気持ちも手伝って、翻訳業の方は多少ぺースダウンさせてきた。今回をもって時評はお休みにして、翻訳の方にまた力を注ごうと思っている。時評を通してぼこなりに感じてきた児童文学の問題を、これからは翻訳を通して問いかけたい、なんてこれ、新しい年へ向けてのぼくの抱負デスはい。 ところで去年の年末回顧で、児童文学に対するフェミニズム批評の必要性を話題にしたけど、侍ってましたとばかりに出ましたね、そういうス夕ンスの作品が。フェミニズムにめさめるおばあちゃんが出てくるひこ・田中の『カレンダー』 (福武書店)、女の子が男の子になりすましてしまうウルフ・ス夕ルクの『おばかさんに乾杯』 (石井登志子訳、福武書店)、男の子が女の子になりすまして女子高校に入学してしまう西田俊也の『少女A』(福武書店)。 今江祥智の『どろんこ祭り』教科書掲載の問題も、フェミニズム批評の延長線上で、どういう落ちつき方をするか気になっていた。『どろんこ祭り』は男女平等教育の点で問題があると日弁連から指摘されて、新しい書き下ろし作品に差し替えられると聞いていた。まあいずれ来年になれば、教科書の改訂版が手にはいるだろう、そのときに…なんて思っていたのだけど、日本文学畑でフェミニズム批評を展開している関礼子に先を越されてしまった。 今年十一月発行の雑誌「日本文学」(第四十一巻第十一号、日本文学協会)が「性という制度」という特集を組んでいて、そこに関礼子の「物語のなかのセクシュアリティ-男性像と女性像の相互性をめぐって」という論文がのっている。それが『どろんこ祭り』とその代案である名木田恵子の『赤い実はじけた』を問題にしている。そのなかで著者は「困ったなあ」という論文には似合わないつぶやきをもらしていて、それがすべてを物語っている。ぼくもさっそく『赤い実はじけた』を入手して読んでみた。 「ウーム」とうなって、あとはいう言葉がなかった。作者と挿絵のイラストレーターを女性にしたら、問題が解決するってもんじゃないんだけど……。いいたいことはいろいろある。でも紙面が足りないし、精徴な分析をして、重要な展望を示唆している関礼子の論文を読むほうがためになりそうだ。興味のある人はぜひそちらに目を通してほしい。 さてもうひとつ、今年の事件として避けて通れないのが福武書店のべスト・チョイス・シリーズのこと。もう巷ではあることないこと噂になっているようだけど、六年つづいたこのシリーズが今年の十月、クルト・へル卜の『赤毛のゾラ』(渡辺芳子訳)の出版をもって終わりになった。シリーズ全体の評価はこれからされていこだろうと思うけど、少なこともこの六年間、パワーだけは人一倍あったんじゃないだろうか。他の児童出版社に与えた刺激も少なくなかったと思う。それにフェミニズムの視点から新しい試みをしためぼしい作品が、先ほど列記したようにそろいもそろって全部べスト・チョイス・シリーズだったことも考えあわせると、あと数年このパワーが持続されていたら、児童文学のオピニオンリーダーになれていたかもしれない。翻訳者としてこのシリーズに関わってきたぼくとしても、あまりに唐突な終わり方で、面喰らっている。でもすでに編集の中心メンバーは退社して充電期間に入っている。来年あたり再起を期して、新たな動きがでるかもしれない。児童文学の活性化のためにも大いに期待したいところだ。そして本紙 の児童文学時評も若手の批評家にバトン夕ッチする。こちらも大幅に活性化するはずなので、乞うご期待!(酒寄進一)
読書人1992/12/28
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