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このところ児童文学をめぐる日本と英語圏の研究状況のちがいがいろいろ気になっている。隣の芝生だから青く見えているのかもしれないが、たとえば英語圏には知っているだけでも年刊・季刊の研究評論誌が五つある。そのほかに書評専門誌が数種類。「批評研究」というのは、児童文学本体からみればあまり本質的ではないいわば飾りだが、これだけ種類があることは(内情は知らず)傍目にはうらやましい限りだ。 と、うらやましがってばかりいないで国内の状況に目を向けてみよう。最近の出来事といえば「季刊パロル」第一号(パロル舎)の登場だろう。一八〇ページの半分以上を評論と書評が占め、残りは創作・エッセイなど。このスタイルを見る限り月刊の「日本児童文学」とあまり差がない。強いてあげれば、各論文が短い「日本児童文学」に比べて「季刊パロル」の論がどれも長いことと、日本児童文学者協会の機関紙である前者とちがって後者は特定の支持団体を持たないことだろうか。(と書くと、異論がでそうだが。)先に触れた海外の研究誌がどれも一切創作を載せていないことを思えば、創作・評論両方とい うのは日本的歯切れの悪さなのかもしれない。わたしのように研究に携わる者にとっては「新しい場」を与えてくれる歓迎すべき雑誌なのだが、ほかの読者に広く受け入れられるのだろうか? ちょっと心配である。 九五年は一言でいえば、児童文学本体よりむしろ飾りに収穫のあった年なのかもしれない。ロイス・ローリー『ザ・ギバー』(掛川恭子訳、講談社)、絵本で『のはらひめ』(なかやまちひろ作、徳間書店)を除くと、今年はこれで決まりといえるものが見えてこない。それに引き換え研究書ではジェリー・グリスウォルド『家なき子の物語』(阿吽社)を筆頭に、<現在>を感じさせるものが目立った。グリスウォルドはなぜアメリカ児童文学に孤児を主人公にしたものが多いのか、という疑問を出発点として一二の古典について考察している。随所に見られる明快さといい、論の展開ぶりといい、アメリカ児童文学研究の見本のような感じがした。ベッツィ・ハーン『美女と野獣』(田中京子訳、新曜社)の場合、再話の変遷について挿絵にいたるまでの実証的な考察が一個人の手による、という力わざに驚かされた。また補遺のひとつ、ラリー・ドヴリーズ「文学における美女と民話における野獣」は、民 話研究の動向を研究者ごとに簡潔にまとめたものであり、本文に負けず劣らず興味をそそる論文だった。力わざといえば、シーラ・イーゴフ『物語る力』(酒井邦秀ほか訳、偕成社)もカナダの児童文学者がひとりで三〇〇年にわたるるファンタジー作品と社会の変化をたどった意欲的な研究書である。わたしも訳者の一人に名を連ねているので説明するのはおこがましいが、八〇年代までの動きが日本語でよめる価値ある一冊だと自負している。日本の研究者の著書では、師岡愛子編『ルイザ・メイ・オルコット』(表現社)が、スリラー小説の「発見」以降いろいろ再評価の動きのあるオルコットを取り上げ、『若草物語』を中心にフェミニズム批評の視点を加えた本として興味をひいた。五人の執筆者がいずれも児童文学研究者ではない、ということもつけ加えておきたい。 気がかりなのは、こうした研究書の出版が、国内の児童文学研究の隆盛を意味しているわけではないということだろう。児童文学や児童文化の学科がない限り、児童文学の講座を特定の教授が支えているだけ、という大学・短大が多いのではあるまいか。いや、短大のリストラで真っ先に削られるのが児童文学関係の講座なのだ。春は遠しである。最後に印象に残ったこととして、一〇月に『二〇世紀児童文学作家事典』の第四版(一九九五)が届いたときにわかった第三版(八九)との違いをあげておきたい。今回の版では有名な作家がかなり抜け落ちていたのだ。たとえば、ジョーン・エイキン、ニナ・ボーデン、K・M・ペイトンの名前がない。ジョン・ロウ・タウンゼンド、ジル・ペイトン・ウォルシュの名前すら見当たらないのだ。知らないうちに海外では大規模なカノン(基準)の見直しが進んでいるのかと思ったが、それはわたしの早とちりとわかった。編集者覚え書きには断ってあったのだが、九四年に姉妹編『二〇世紀ヤング・アダルト作家事典』が出たので、ヤング・アダルト向けの作品の作家はそちらの巻に入れ 、「児童文学事典」からは抜かしたということだったのだ。なるほどどちらもセント・ジェームズ・プレス刊「二〇世紀作家事典シリーズ」の一冊である。作家の数が増え、二巻になっただけのこと。でも、最近の英米の文学賞で受賞作家に新顔がずらっと並んでいることを思いだし、妙に納得した変化ではあった。
読書人 1995/12/27
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