3、『二十回の瞳』、『ノンちやん雲にのる』−生きた子ども像
北畠八穂は、たしか昭和21年の『十二才の半年』という短編から子どもの文学をはじめている。その間について、石川光男が少年少女学研文庫『ジロウ・ブーチン日記』で、つぎのように語っている。
「『ジロウ・ブーチン日記』は、昭和22年1月から1年間、新潮社発行の少年少女雑誌『銀河』に発表されました。北畠さんが、その雑誌の創刊号(前年の十月)に書かれた『十二才の半年』という短編を、編集長の吉田甲子太郎氏(明治大学文学部長で、児童文学作家でもあったかた)が、たいへん感心されて、『さっそく銀河の柱となる唯一の長編』として連載をおねがいしたわけです。すると、予期どおり、大好評で、編集部に読者の手紙がどんどん送られてきました。」この作品は23年に単行本となり、作者は、つぎに『あくたれ童子ポコ』1953)、『お山の童子と八人の赤ん坊』(1957)などを発表した。北畠の作品には、そもそものはじめから、「フロシキ包みから青いリンゴを二つ出して、『二つ千両、安い安い、カチャカチャ国からきたたべられる宝右』 水道でクリクリすすいでぽくに一つくれた。」(『十二才の半年』より)とか、「『テングッ子、ポコベイは、六年生を卒業するとともに、この炭焼学校も卒業していきます。』
あらたまったモジャ先生が、モジャ髪を、シシにふると……」(『お山の童子と八人の赤ん坊』より)といった誇張した表現がひじょうに多い。ベイビイ・トークの変種だと私は考えているが、これはおそらく、作者の子ども時代の反映なのであろう。独特のリズムと描写力をもつこの表現は、現実に色どりと一種の雰囲気を与えて、子どもの世界をつくるが、作者がえがく世界は、つねにかなり苛酷であった。『ジロウ・ブーチン』は、父母とはなれて日本にひきあげてきた兄と幼い妹が、おじいさんと、父母を待ちながらくらしている。そして、父母は多分死んだらしいと、読者にはわかる。『あくたれ童子』と『お山の童子』は正続の物語で、正編では、ポコの父親はシベリヤから帰らず、母は、なだれにうたれた黒人を助けて村人に誤解されて村から出ていき、ポコは、祖母といとことともに、まずしい漁場でくらす。続編は、帰ってきた父とポコが、山へはいって開拓村ですごす生活をえがく。ブーチンは天真らんまん、物おじしないあかるい少女で、無邪気な点とませた点が奇妙に混合している。ポコはブーチンの男性版で、不正をゆるさぬ勇気と、やさしい心と強い意志をもっている。この子どもたちは、その魅力を充分に発揮して難関をこえていく。結局作者は、庶民の知恵と生活力を、もっとも子どもらしい特性をもつ主人公にプラスすることによって、生き方を具体的に提示したのである。
北畠の提示した生き方は、『母のない子と子のない母と』(1951)、『二十四の瞳』(1952)の壺井栄と共通している。父が戦地から帰還しないうちに母が死に、孤児となった二人の子どもがおばと共にくらし、やがて、復員した父とおばの結婚で、家庭が生まれるまでをえがいた『母のない子』や、12人の教え子の戦中・戦後にわたる人生をたどった『二十四の瞳』は、庶民が戦中・戦後をどう生きたかをえがいたというにつきている。壺井は、苦難の時期の庶民をえがくことにより、庶民の不屈な生活力、連帯性、知恵などを表現し、同様な時期をすごしつつある読者に激励を与えたのである。
北畠も壷井も、ほとんどおなじテーマを読者に提出した。そして、この二人の共通点はそれだけにとどまらない。子どもがえがけていた点でも共通している。『ジロウ・ブーチン』の成功はなんといっても、ブーチンの人物像が生きてえがけていたからである。ブーチンがいささかチリメンずれしているところにいや味を感じるほどに、この幼女はみごとに生きている。壷井は、初期の短編から、一貫して、子どもの心の動きをていねいに追ってえがいていた。だから、ストーリーの中にあっても、登場人物が必然的な動きを見せ、物語に迫真性を与えて、テーマを感動的に盛りあげている。
さらに、この二人には、一見ルーズに見えながら、実は骨組のしっかりした物語性がある。それは、二人が、人間の暮しというもっとも劇的なものを継続して追究したからであろう。子どもを本格的にえがいた点では、石井桃子の『ノンちやん雲にのる』(1947)も、やはり見のがすことはできないだろう。おかあさんとおにいちやんが、こっそり東京へ行ってしまったことに腹をたてたノンちやんが木のぼりして、水たまりにうつった空におっこちて気を失っている間に見た夢物語がこの作品である。だが、内容は、戦前の郊外にすむ親子四人の中流家庭をえがいたリアリスティックなものであることは、だれもがみとめている。ノンちやんは、ブーチンのような行動で描写されているのではなく、「もちろん、お医者さんたちも一生けんめい、助だちをしてくれました。ノンちやんの足がだんだん細くなるにつれ、お医者さんがそこへさす注射の針はいよいよ太くなっていきました。毎日、おひるすぎになると先生が『カンゴクさん』をつれて、『ノンちやん、こんちは。』と病室へはいってきます。」といった客観的な叙述でえがかれている。しかし、この「カンゴクさん」という言いまちがいにしても、「たとえば、ノンちやんが、紙がほしいとき、『おかあさん、この紙、あたしにあげる?』といってはいけないのです。』とか、いう部分にしても、子どもの言語発達過程をみごとにうつしている。だが、こうした個所は、まだ表画的だといえるだろう。おどろかされるのは、つぎのような部分である。すこし長いが引用しよう。
「ある晩、ノンちやんは寝ながら、おかあさんからお話を聞いていました。
『昔、昔、あるところにね。』と、おかあさんははじめました。
けれど、ずっとまえも昔なら、少しまえも昔です。ずっとまえならチョンマゲをゆっているけれど、少しまえならゆっていません。だから、ノンちやんはききました。
『おかあさん、どのくらい昔?』おかあさんはすぐ答えてくれました。
「おじいちゃんのおとうさんが子供のころ。』
そのとき、なんのかげんか、まっ暗い部屋に寝ていたノンちやんの目の前に、一筋の白い光がさっと流れたのです。それは、ほかの人にわかりやすくいうならば、ノンちやんを中心にして、前後にのびている、長いはてしない道でした。そして、道の一方はまっ暗いところへつづき、もう一方は、あかるい光の中に消えていました。あかるい先は、まぶしくて何も見えません。暗い方は、暗いのだから、なお見えません。ただ、まっ暗くなる少し手まえのほのぐらいところに、なにか−生き物です、人間もまじっていました−が、よごよたくさん動いていました。その中にチョンマゲにゆった小さな子供がただひとり、地面にしゃがむようなかっこうで、余念なくあそんでいる姿が、これだけははっきりノンちやんの目にうつりました。それがノンちゃんの知らない、おじいちやんのおとうさんの『子供の時』です。」
子どもが〈時〉に目ざめた一瞬をこれほどたくみにとらえている作品は、めったにないのではなかろうか。それは、確固とした小さな世界の壁がとりはらわれて、無限に身をさらした幼児の、たよりない恐怖なのであろう。この部分は、子どもにも大人にも、一度たどった過去のおどろくべき時間を再体験させてくれる。
ノンちやんを中心に、おにいちやんのタケシ、おとうさん、おかあさんを、石井桃子は全体としてくっきりと浮きぽりしながら、北畠、壺井同様、明瞭に生き方を読者に提出していた。それは、大方の人たちが指摘する近代市民社会の精神−‐自由、博愛、平等、あるいは、基本的人権の主張と、社会的秩序と反しない自由の擁護などであった。
そして、その提出の方法をみると、『ノンちゃん』は、やはり、敗戦直後の文学であることがわかる。ノンちやんは成績がひじょうによい。それを雲のおじいさんにとくとくと語る。すると、雲のおじいさんは、「人にはひれふす心がなければ、えらくはなれんのじゃよ。勉強のできることなど、ハナにかけるのは、大ばかだ」
と頭からけなしつける。
この物語では、随所に、雲のおじいさんのあからさまな批評がある。それによって読者は、あるべき人間像を教えられていく。戦争中にこれをかいたとき、石井のこの直接的な教訓は、戦争遂行政府下での理想的人間像へのアンチテーゼであった。そして、発表された当時は、新しい時代に作者が求めた人間像であった。その直接さは、どっと出た民主主義児童文学とおなじ性質をやはり感じさせる。だが、民主主義児童文学が政治にのみこまれて、作家の思想を表現しなかったのにくらベ、石井の作品には、明確な思想があり、子どもの具体的理想像があった。だから、民主主義化の政治的プログラムが、作家たちを超え、日本人一般を超えていたバラ色の昭和22年という時点にあっては『ノンちゃん』はあまりかえり見られず、具体的なものが求められるようになった昭和二六年の新版で、あらためて大評判になったのである。
北畠、壺井、石井の三人は、ほぼ一様に少女時代の思い出から子どもをほりおこし、生きた子ども像を読者に見せてくれた。北畠と壺井には長編物語の骨格があった。そして、三人とも、民主主義化の熱狂が消え、人びとが実のある生き方を模索しはじめたとき、それに答えた。民主主義児童文学が、巨大な長所を幻影のままに終わらせたとするならば、この三人は、実質的な戦後児童文学の基点と考えることができる。私たちは、北畠、壺井流の登場人物や、『ノンちやん』につながる主人公たちを、その後の作品で、事実たどることができる。
この基点に問題がないわけではない。『ノンちやん』の近代市民社会精神は、戦後精神でありえないという批評、またノンちゃんは戦後の子どもの理想像であってはならないという主張は、すでにだいぶ古い。そして、『ノンちゃん』という作品すら、新しがりの書評家たちからは問題にされなくなっている。戦中に、自己の良心のあかしとしてえがかれたこの作品に、戦後を求めることが、どだいむりな話なのだが、昭和26年に大いに読まれたことを考えれば、やはり、戦後を求めざるをえなかったのであろう。石井の精神は、昭和32年の『山のトムさん』で、戦後を経過するのだが、本質的なひ弱さは克服されなかった。『ノンちやん』は末尾でごく短く太平洋戦争についての叙述があり、戦後になっている。これは、『ノンちゃん』の世界が戦争を阻止する力になりえなかった弱さの象徴的表現であり、つぎに危機が来たときにも、やはり小世界を守るだけでそれの通過を待つのではないかとあやぶまれる。意地わるくとれば、中産階級的エゴイズムも、ちらりとのぞける思いがする。その点、北畠、壺井は、明瞭に庶民の力に依拠してかいた。しかし、嵐のときにいかに耐えるかは示してくれても、その嵐がやんだときを展望させてはくれなかった。3人とも、戦後の未来への展望も見せてくれなかったし、あたらしい人物像を提出してもくれなかった。(もっとも、現在に至るまで、あたらしい人物像が作品にあらわれただろうか?)そこに彼らの限界がある。
私は、大ざっばに、児童文学にはニつの種類があると考えている。一つは、日常的なことがらをきめこまかに追っていく風なもの、一つは、人間の生き方の根本や人類の未来などに思いを致す風なものである。前者を実際的とよべば、後者は思索的、前者を女性的とよベば、後者は男性的となろう。
民主主義児童文学が、たとえ幻影としてでももっていた諸要素は、あきらかに男性的文学のそれであった。それらは、はやくに消え去り、政治追従のパターンのみをのこした。そして、その後をひきついだのが、女性的文学であり、私は、以後、今日に至るまで、児童文学の大半が、このニつに、多かれ少なかれ影響されていると考える。ファンタジーの必要が説かれ、さまざまな試みがなされながら、いまだに成功しない理由は、いくつかあろうが、大きな理由の一つは、大きく未来をのぞんだり、人間についての徹底的な追究をしたりする思考の規模の大きさに欠けているからである。また、公害現象の皮相な告発に終始する作品の増加は、風化した政治追従の残影ともいえるだろう。
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