『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

七○年代の動き

<幼年文学の現在>

一、幼年、小学校低・中学年向きの空想的な物語の現在

(1)それは読者に何を語っているのか

 一九七一年の作品に、後藤竜二の『とべここがぼくらの町だ』(講談社)がある。ナオの住む町にはコンビナートがあるため、一年中空気がくさく、ぜんそくが多い。子どもたちは、マスクをしてかけ足で登校する。だが、東風が吹いてくさい空気を吹き流した日、転校していたゴンタが帰って来て、みんなにすばらしいシャボン玉つくりをおしえる。子どもたちは、石けんとストローを持って、コウノトリの噴水のある町の広場にあつまり、噴水の水でシャボン玉をつくってとばす。そのため町中シャボン玉だらけとなり、警察が出動するが子どもはシャボン玉に入って空にのがれる。やがて、シャボン玉はこわれ、町に洪水をおこす。
 子どもの大群が、石けんを持って広場に集まるシーンや大量のシャボン玉に対する取締り要求という大人の反応など、管理された今の社会とそれを打破する力を暗示させて新鮮だが、それでもなお、その魅力は、この作品が所詮、皮相な公害告発に終わってしまうことを防いではくれない。
 こうした作品を読むと、私は改めて、戦後児童文学とは結局何だったかを考えざるをえない。戦後の成果の一つは、大人の独善を排し、子どもの内なる要望に根ざした児童文学の創造にあったはずである。そして、それは、当然、子どもの奔放な想像力が許容された自由闊達な遊びのある作品を予想させたはずであった。ところが、じっさいは、幼年文学の世界にまで、現状の生まな伝達の侵入が大量にあらわれている。これは、どう考えたらよいのであろう。
 その結論は後にまわし、さらに、一、二の例をあげよう。『とべ……』と同じ講談社のシリーズに、同じ年に出た松谷みよ子の『オバケちゃん』がある。森の奥のけやきのうしろに、パパおばけ、ママおばけ、オバケちゃんが住んでいる。この森が欲張り地主のために整地されそうになる。親子のオバケは、化けて出ておどかそうとするが、人間は、それすら利用しておばけ大会で金をもうけてしまう。やがて宇宙おばけセンターからの助言でパパおばけが思いをこらし、地主は悪夢にとりつかれ、ついに森を整地することを断念するという話である。この話がもしおもしろいとしたら、それは、おばけが私たちそっくりの暮らしをしながら、超自然力を持っている点にあるのだろう。これは、子どもの素朴なあこがれを満足させるパターンでテレビの『ひみつのアッコちゃん』や『魔法使いサリーちゃん』等にストレートに結びついている。それだけでは、おもしろがらせることのみをねらったきわものに墜すと考えたのか(ほんとうは、その方がよいのだが)、あるいは、これがモチーフなのか、自然擁護キャンペーンがあらわれる。人間に対する深い理解が生まれるユーモアとはちがったくすぐり、平凡なアイディア、常識的なアピール――ここには、子どもと彼らをとりまく大人たちへのおもねりに似たサービス以外何も見ることはできない。
 『ふしぎなゆうえんち』(あまんきみこ、実業之日本社、一九六九)なども、この傾向にもっともぴったりした一例だろう。遊園地がつぶされそうになったとき、真夜中に、子どもたちの影があらわれ、地主、工業者たちの夢枕に立って、工事中止をうったえるという話である。
 実現不可能な願望を夢に託すことは、芸術はじまって以来の一方法である。自然破壊、公害、政治悪等、私たちがその防止を願うことはひじょうに多く、また焦眉の急でもある。だが、願望達成への距離は大きい。そこに想像のはたらく部分がある。だが、民話の背後のテーマが今日に通じ、話そのものが消えない魅力を保っているのは、願望から夢の飛躍が、生か死かといった緊迫した精神に支えられているからである。そこに、はじめて、きらめく独創性を持った空想の所産が生まれる。残念ながら、以上三つの例に、それを見出すことはできない。小学校低・中学年向きにかかれた空想的な作品には、現在太い流れとして、今日的問題を皮相に伝達する一群がある。
 つぎの一群は、教訓としつけの物語とでもよべばよいだろう。典型的な例が山下夕美子の『ごめんねぼっこ』(あかね書房、一九六九)である。昔話をするおばあさんに〈ぼっこ〉の話をきいた夏平のところに、心からごめんをいうまで立ち去らない〈ごめんねぼっこ〉があらわれ、最後に夏平に心からごめんねをいわせて去っていくこの話は、イギリスの〈マチルダばあや〉のいい伝えによく似ている。マチルダばあやは醜い顔のナースで、手におえない子どものいる家にやってきて、その子がよくなるにつれて美しくなり、役が終わると、去っていく。『ごめんね……』には、マチルダほどの神秘性とアイディアの非凡さがなく、教訓だけは同様に強い。
 村山桂子は、絵本『たろうのおでかけ』『たろうのともだち』(共に福音館)で、幼児のしつけ(といっても、成長のための基本的な必要性にかなった健康さを持っている)を底においたお話で有名だが、最近『ビーだまが芽をだした』(講談社)を出版した。中に、『ゴンぎつねとテレビ』、『おさらのこぶた』がある。ゴンというきつねがいる。意地が悪いので友だちがなく、さびしさをまぎらすためにテレビを買う。ところが、意地悪なのでだれにも見せてやらず、ひとりで楽しんでいる。すると、意地悪ぎつねの物語が放映され、おこってテレビをこわしてしまい、また、さびしい退屈な暮しにもどる。これが『ゴンぎつね』である。『おさらのこぶた』は偏食をいましめるお話である。主人公たっちゃんはニンジンと肉がきらいで、こまっている。すると、皿の絵のこぶたがたべてくれる。だが、こぶたはやがてたっちゃんの好きなものまで食べて大きくなってしまい、たっちゃんは困りはててします。
 教訓・しつけは、以上の二人ほど直接的ではないが、多くの女流作家の作品に底流として存在する。幼児の内面をはじめて動的に把握し、子どもの共感をよぶ物語に表現した中川李枝子の『いやいやえん』(福音館、一九六〇)は、全体がしつけにもとづいていたし、その後の『ももりろのきりん』(福音館、一九六五)にも、それは明瞭に見てとれた。
 神沢利子は『くまの子ウーフ』(ポプラ社、一九六九)、『こぶたのブウタ』(理論社、一九七一)などを出している。こぶたはこぶたとして、くまはくまとしてえがきながら、彼らは幼児の思考と行動そのままであり、そこに読者は共感する。しかし、『三びきのこぶた』を読んで大いに勇気づけられたブウタが省治の末っ子ブタと自分が似ていると、うさぎに自慢し、うさぎにそっぽを向かれる箇所など、子どもの真実の描写よりも、むしろ母親的配慮がのぞいている。


(2) しつけ・教訓は必要なのか

 幼稚園児から小学三・四年生までの、それも空想の部分が多い作品に、直接的なしつけや教訓は不必要と私は考える。それは幼児・低学年向きの空想物語の機能と相いれないからである。この分野は、本来、常識、あるいは科学的思考の支配下にくりこまれる前の子どもの心の動きに基礎をおいている。すなわち、不思議がまかりとおり、秩序を要求されず、勝手きままにふるまえる精神の自由領域なのである。幼児はその自由領域を生活し、小学生は、そこに入るフリーパスを保有し、大人はにげこみたがる。小学三・四年までの空想物語の世界とは、(一)欲望充足の可能性が大きい。子どものためのフィクションの中でも、願望の成就がもっとも可能な世界であり、それは、読者が心のバランスを保持する上に大きな力をもつ。(二)空想の展開によって、読者に驚異の念をいだかせる。(三)空想の奔放さは、ものの見方に多様性があることを悟らせる。(四)美を享受する感覚を育てる、といったさまざまな機能を果す。空想には、むろん、有害な空想、たとえば病的な幻想、白昼夢などと名づけられるものがある。しかし、幼年期の空想は、成長への要求から来る自己中心の、欲望充足のためのものであり、それはもともと健康なものと見なくてはならない。だから、教訓とかしつけといった大人による直接的な規制を空想の物語中で行なうことは、けっして健康なことではない。私は、今、空想の物語についてのみ話を進めているが、これにリアルな作品を加えるなら、教訓の物語はさらに数をますにちがいない。現在もなお、こうして十八、九世紀的な教訓がちらほらするのは、子どもの実態把握の努力をおこたったり、洞察力を持たなかったりで、既製の大道具、小道具や大人の常識的なモラルによりかかる安易な製作態度があるからである。子どもの肉体と精神の健康を守り、子どもたちが社会生活においてとまどわないように配慮する親にとって、生活上必要と思える教えは貴重なものにうつるかもしれない。しかし、それを空想の物語に求めることは、読者にとって、さらに貴重かもしれないものを犠牲にすることであり、早くいえば筋ちがいである。
テキストファイル化大塚菜生