『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)


三、楽天主義の終末


 話をふり出しにもどし、もう一度六〇年代の作品を例にとろう。理論社は一九五九年の『荒野の魂』(斉藤了一)から創作児童文学をはじめて、今日の隆盛の一因をつくったが、その時期同社が出版した作品の一つ、たとえば『かっぱ小僧』(比江島重孝)をとってみる。
 これは、宮崎県の山間部を舞台にした作品である。主人公はトネ少年。トネは、生まれ在所の伝説に出てくるカッパのように元気で、魚とり、水泳など、大自然の中でのびのびと育つ。そして、みんなで椎茸栽培をして有線放送をつくったり、夫婦別れして町に帰ったお寺の奥さんを連れもどしにいったり、民話収集に来る大学生と仲良くなったりしている。
 とりたてて筋というものもないほどだが、「なあに、ひょすぼ(河童のこと)なんか――今に見ておれ。生捕りにしてくれるが。」とばかりに、淵で泳ぎ、大ウナギをとり、大人の社会へも童心そのままに入りこむ少年の姿や、有線放送、児童文化会などの話が、山村に徐々に打ち寄せる進歩と、快い明るい未来を強く感じさせる。
 だが、これも無作為にえらんだ昭和二七年の作品『よみがえれ大地』(角田光男)には、もう、快い明るい未来はない。この作は、関英雄の解説によれば、「今から十年ほどまえ始まった。新潟県東頚城郡松之山町の地すべりをモデルとした物語」だという。つくりは、最近ではめずらしく豊という少年の日記形式をとっている。それによって、徐々に進行する地すべりの中での農民たちの必死のあがきが浮きぼりにされる。家をやられて親戚の馬小屋に住む豊一家と本家とのいさかい、集団移住運動、補償をめぐってのみにくい大人の行動、子どもの仲たがいなどがえがかれる。そして、最後は、一応落着いた地すべりの村で、農耕にもどる豊一家がえがかれる。地すべりどめのパイプは打ったが、またいつ、それは再発するかもしれない。また、豊の父は出かせぎに行かねば一家の家計は支えられない。物語は胸なでおろす思いで終るが、かつてたくさんあった、地平線のかなたをのぞむような、明るい、心のひらける未来への展望はない。
 昭和三○年代前半の作品群に見られた楽天性は比較的容易に理解できると思う。古田足日が、『月刊絵本』五月創刊号で「文学作品の場合、ある時期のは発想が実を結ぶには最低二、三年の月日を要する」と述べているとおり、三〇年代に入ってから徐々に出版されだした作品は、短くて昭和二五年以降に、長くて敗戦勅語に発想されたものにちがいない。というのは、三〇年以降でなければ単行本で長編を出すことはむずかしかったからである。
 敗戦後ほんの短い間であったが、日本にはまったき民主主義が実現できると思われる時期があった。暗黒の戦中を経験した戦前・戦中派は、その解放に酔い、その時期に精神形成期を迎えた戦後派はいち早く民主主義を自己のものとした。だから、二・一スト禁止や朝鮮戦争などで急速に反動化がおし寄せた時期にあっても、一度はともかく獲得した理想的なものが、ゆらぐはずもなかった。児童文学者たちも、奪われたものを奪いかえし、さらに権利をひろげる自信を持ちえたと思う。それに、たとえば、三〇年ごろを転換点として、経済が上昇期に入ったことなども、自信につながることだったと思う。
 三〇年代の楽天性は、徐々にだがたしかにくずれつつある。そして、これは、政治社会情勢と作家という次元からばかりではなく、公害、資源枯渇、人口増加等による人類破滅の危機というグローバルな問題も加わってひきおこした現象であることは、巨視的に見てまちがいではないと思う。
 自然破壊、環境汚染は、日本の場合、大企業優先という、まったくの行政不在と人命軽視からその恐ろしさを大幅に増大させているが、それは、また科学の発達をドリルとして進歩してきた文明そのものへの赤信号である。一方、戦後、子どものために社会悪を摘出し、差別を批判し、暴力を悪として訴えてきた児童文学の大部分は、科学がもたらした文明を否定することはしていない。なぜなら、諸科学が切りひらくたえまない進歩発達と、子どもの成長とは、つい最近まで矛盾なく同伴者でありえたからである。
 だが、諸科学が切りひらいた可能性は、一途に向上する幸福を約束しなくなった。だから、今に至るまで続いている文明観では、子どもに明るい未来を語ることがむずかしくなっている。アメリカがフロンティアを失ったとき自由と規律のジレンマにおちいったように、産業革命で主役にのしあがった中産階級が生んだ子どもの文学は、いわば地球上にフロンティアを失って、ジレンマにぶつかっているといえる。
 日本の児童文学にあらわれる楽天性の崩壊あるいはかげりが、すべてそうしたジレンマで説明できると思わない。しかし、すくなくとも、色濃くなる暗さに対する心情的な反撥や、子どものエネルギーに対するセンチメンタルな信仰や、現象に対する対処療法的な批判などでぬぐいさることができると思えない。

四、子どもの回復

 一九七一年の『小さい心の旅』(関英雄)、七二年の『でんでんむしの競馬』(安藤美紀夫)が、共に日本児童文学者協会賞とサンケイ児童出版文化賞を受賞し、七二年の『天の園』(打木村治)が文部大臣奨励賞とサンケイ賞を受賞した。
 三作家のキャリアと力量の豊かさによることはもちろんだが、共通して自己の体験あるいはそれに類似したものを素材として物語をつくっている点は、やはり注目すべきことだと思う。
『小さい心の旅』は、すでに多くの人たちの論及があるが、やはり強調しておくべきだと思うのは、この作品には子どもの世界があることである。主人公と社会とのつながりは小学生時代には隣家のおめかけさんに対する周囲の蔑視、小僧さんや下宿人との交際程度であるが、小学校卒業後は給仕、小僧として役人や主人や同僚の範囲がひろがっていく。だが、主人公はめかけとは何かを知らず、小僧がこき使われることを、屈辱という自分だけの反撥の段階でしか受けとめない。社会主義の本を読む同僚が上司から注意されても、勉強はよいことだという態度にとどまる。私は、だから、この作品には真実味があるのだと思う。
 これを読んだ子どもは、大杉栄を読んではなぜいけなかったのか、おめかけさんの子どもは、なぜからかわれたのかが、わからないかもしれない。なぜなら、説明がないからだ。だが、なぜと考えるきっかけはつかめる。文学は、何かを教えるより、読者の心中に考えるきっかけをつくる方が大切なことだと私は考える。そのためには、子どもの情緒と知力の発達の段階から、必然的に生まれてくる興味、感心、問題をえがかなければならない。そして、もしそれらが的確に把握できた場合には、大人の知識や論理で結論を急いではならない。
 子どもの発達段階とか子どもの論理ということは、もはやあたりまえの古色蒼然たる言葉に成りさがった感がある。にもかかわらず今なお、大正のそして昭和戦前の子ども時代がえがかれ、多くの人びとの共感を呼ぶのは、結局、たいていの場合に、子どもがつかめていないからである。
 『でんでんむしの競馬』には、全体を通じて強烈な一つの主張がある。だが、それは、せいぜい「長屋の子どもの幸福は長くつづかない。」といった程度の言葉でしか説明されない。えがかれているのは昭和前期の貧しい子どもたちの日常のいわば哀歓である。子どもの目で見、手でふれ、知能の発達に応じて認識した周囲である。
 大人は、かつての子どもの実態を知り、感じ、子どもとは何かを考える。子どもは、過去の子どもと自分をくらべ、共感したり、疑問を感じたりして、自己の真の欲求を確認したり、周囲に新しい目を向けたりしていく。
 『小さい心の旅』や『でんでんむしの競馬』は、大人であるわれわれにとって子どもとは何であったか、そして、今子どもである人たちにとって、子どもであることは何なのか――それを考える必要を教えてくれる。
 私たちは、今まで、パンチに対するカウンターパンチのごとくに、得意の即物的対応能力を駆使して、子どもに向かっておしよせるさまざまな悪を指摘し、ののしり、わめき、必死になって子どもに教え、そして、もっともだいじな子どもをけろりと忘れていたように思う。
 子どもの涙が軽くないのが真実だとしたら、子どもの背負っている荷物もけっして軽くはない。大人が背負うべき荷は、大人が背負わねばならない。そして、けっして軽くない子どもの荷物の実態を知り、それをすこしでも軽くしてやることが大人の思いやりというものであろう。
 児童像を暗くしつつある影をとりのぞく一つは、だから、児童文学で子どもの世界をかえしてやることだと、私は考える。
 戦後の児童文学が、明治以来ほとんどはじめて、社会に生きる子どもをとらえたことは大きな成果であった。そして、大人と子どもの、より豊かなくらしを考えつづけたことも大きな前進であり、多くの作家たちの誠実な子どもへの愛をうたがうことはできない。
 と同時に、子どもをとりまく出来事の分析とそれへの対応などが、子どもを早く大人にしてしまう努力になってしまったことも否めないのではなかろうか。
 公害、交通戦争、学歴社会、戦争などの現世界にあって、子ども時代を長くするなど、子どもを無防備におくようだと考える人がいるかもしれない。また、大人も子どももなく地球を守らねばならないときに、子ども時代などないと考える人もいるだろう。
 児童文学が、子どもの生活に占める部分はごく小さい。その小さい部分だけでも、大人がつくり出してしまったいやなことを忘れてのんびりと心のあそびにひたらせてやることが、じつはたいせつこの上ないのではないだろうか。
 また、やがて大人になる人たちに、これだけはと考える姿勢、現象の背後にかくれた真実をほりさげて見る批判力をつけさせる姿勢等々が、じつは、めまぐるしい現在を生んでしまったともいえる。子どもの内から発する問題を、子どもの段階にふさわしく展開する子どもの世界――それを回復したり、ひろげたりすることは、いわば大人のくらし方への批判である。
 あしたに公害を語り、夕べに受験地獄の悪を追求する児童文学の氾濫は、極端にいえば、そうした悪をなくしはしない。下手をするとたえず現象の皮相な批判をする人間をつくり、生きることの根本を考える態度を失わせてしまうからである。
テキストファイル化大塚菜生