『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)
『ゆきのひ』E・ジャック・キーツ
一九六二年のコールデコット賞を受賞した『ゆきのひ』は、二つの点で画期的な新鮮さをもっていた。一つは、絵本の世界で黒人の少年を主人公に仕立てたことであり、今一つは、コラージュ(貼絵)と油彩の合成によって雪の日に遊ぶ少年の内面世界を鮮やかに表現したことである。この特色は、今日に至ってもいささかも色褪せていない。
ピーターというこの三、四歳ぐらいの黒人の男の子は、『ピーターのくちぶえ』(一九六四)『ピーターのいす』(一九六七)『ピーターのてがみ』(一九六八)『ピーターのめがね』(一九六九)という作品につれて成長していくが、純朴で茶目気があり思いやり深いピーターに一度出会えば、すっかり仲のいい友だちのように思えてくるのは不思議である。これは絵具さえなかなか買ってもらえなかった少年時代に培われた庶民性と無関係ではない。またキーツは『ライフ』誌でみかけたある黒人の子どもに魅せられ、写真を仕事場の壁にはりつけて二十年以上もあたためてきたと言われているが、(注1)彼が最初の絵本を考えるとき、この彼の幼年時代の分身とも思えるピーター少年が、生き生きと脳裏に映し出されたのも無理はないだろう。穿鑿(せんさく)ずきな読者は黒人問題と結びつけたがるが、ピーターは人種を越えた純朴な永遠の少年性の象徴以上の何ものでもない。(キーツは黒人ではない。念のため)
コラージュというのは取り立てて新奇な手法ではないが、キーツ自ら「コラージュは即座の感覚的反応を呼び起こします。この特質のために、この世のもろもろのことを即座に経験する子どもたちに特別の訴えをもつ」(注2)と言っているように、建物や木やものの単純さ、色の明快さ、雪の丘を滑るピーターのマントの赤と雪の白さの対比の冴え、とりわけ初めての雪に驚くピーターの息づかいまでも感じさせる雪空の処理方法……とコラージュの魅力をいかんなく発揮している。
「ゆきのひ」は、子どもの発想と感覚をゆきという不思議なものにぶっつけた作品だが、なんといっても心打つシーンは、雪の山に自分のからだを大きなハンコにして、天使の形を作っているところだ。ここには子どもの生き生きとした自由な遊びの世界があるからだ。
(注1、2)「コラージュのE・J・キーツ」光吉夏弥『月刊絵本』一九七六年二月号、すばる書房。
※Keats,Ezrajack(1916〜)
My Dog is Lost(1960)The Snowy Days('62. ゆきのひ,コールデコット賞)Whistle for Willie('64. ピーターのくちぶえ)Peter's Chair('67. ピーターのいす)Goggles('69. ピーターのめがね)以上いずれも木島始訳で偕成社から出ている。
『かいじゅうたちのいるところ』モーリス・センダック
小さい子どもの世界というのは不思議なものだ。それは現実という日常と地つづきでありながら、現実をはるかに越えたすばらしい遊びの世界、想念が限りなく飛翔するマジックの世界である。この二つの空間に、絵本というメディアを使って誠に愛らしい小さな扉をつけたのが、モーリス・センダックである。一九六四年にコールデコット賞を受賞したこの作品は、扉をくぐることの楽しさを、子どもと子どもであったものたちにプレゼントし、今日ますますセンダック・ファンを増やしつづけている。
ある晩マックスはいたずらの限りをしてお母さんに叱られ、夕食ぬきで寝室にほうりこまれてしまう。「すると、しんしつに、にょきりと、きが はえだして どんどん はえて もっと もっとはえて、てんじょうが きの えだと はっぱに かくれると、かべがきえて、あたりはすっかり もりや のはら」この三場面はマックスの想念を形にしたものであるが、日常から遊び空間(ファンタジー)への扉が、どれだけ見事に形象化されているかを立証した好例であろう。
やがて海がひろがり、マックスはふねにのって、1ねんと1にち航海して『かいじゅうたちのいるところ』へ着くのである。そこでどんなに自由奔放に、どんなに痛快に遊んだかは、絵本の世界で見ていただくとして、センダックの絵やお話の魅力の秘密が何であるかを考えてみたい。一見地味な彩色の絵であり、素朴な文章であるが、ページのすみずみまで手を抜いていないことが分かる。そして、何よりも子どもをとりまいている現実の《不安》に目をそらさず、「子どもたちはファンタジーを通じてカタルシスを達成」(注)し、そうすることによってたくましく成長するという信念を貫いていることが分かる。これは子どもと大人は対等な存在であるというセンダック流の考えの現われではなかろうか。
子どもを必要以上に甘えさせたり、大人を揶揄することで人気を博そうという気持ちが微塵もないからであろう。「私は幼い子どもたちの本の仕事がいちばん好きです」と明言するセンダックは、自分で楽しみながら描いているといえるのではなかろうか。
(注)セルマ・G・レインズ、渡辺茂男訳、「論争をよんだ勝利」『センダックの世界』岩波書店。
※Sendak,Maurice(1928〜)
Kenny's Window ('56. ケニーのまど,神宮輝夫訳,冨山房)The Sign on Rosie's Door('58)Where the Wild Things are('63. かいじゅうたちのいるところ,神宮輝夫訳,冨山房)In the Night Kitchen('70. まよなかのだいどころ,神宮輝夫訳,冨山房)Out Side Over There('81. まどのそとのそのまたむこう,わきあきこ訳,福音館書店)
『ふたりはともだち』アーノルド・ローベル
一九七一年度のコールデコット賞を受賞したこの作品は、がまくんとかえるくんというなかよしが繰り広げるとんちんかんでおかしな世界を絵本化したものである。
全体で五つの小話からなるが、『おはなし』は、病気で寝ているかえるくんががまくんに「ひとつおはなしして」と頼む。がまくんは一生けん命考える。がまくんは家の前をぶらぶら歩き、家の中に入ってさかだちをし、コップの水を頭にかけ、とうとう頭をかべにドシンドシンとぶっつけるが、それでもおはなしが思いつかない。調子の悪くなったがまくんをかえるくんが入れかわってベッドに寝かせ、今までがまくんのしていたことをおはなしにして話してやる。「どうだい、がまくん?」とかえるくんが聞いたときには、がまくんはもう眠っている。
『なくしたボタン』は、二人で散歩にいってがまくんが上衣のボタンを一つなくす。二人でもう一度散歩してさがすが、みつけたボタンはみんながまくんのとはちがう。役に立たないボタンをいっぱいポケットにつめこんだがまくんとかえるくんがしょげて帰ってくると、ドアのところにがまくんのボタンが落ちている。がまくんは、ひろったボタンを上衣にみんなつけて、かえるくんにプレゼントする。
ローベルの底に流れているものは、愛の豊かさである。一見べとつくような二人だけのなかよしの世界に、理性が考え出す打算的な行為ではなく、そうすることが好きで楽しくてしかたがない(=感性)という、自分を大切にするが故の愛する者への慈しみを具体的な行動として描いている。頭をかべにぶっつけてまで友のために尽くそうとする姿をみて、そこまでするなんて! と考える人たちは、本当の愛の歓喜(よろこび)を感じたことのない人かもしれない。なかよしという温かい世界を閉鎖的と考える人たちは、傷つきながら愛をつかむプロセスを切り捨てたがる人たちかもしれない。
一九三三年ロサンゼルスに生まれたローベルは、かなり不幸な少年時代を経て、絵本の世界にたどりついたらしい。かえるくんとがまくんの愛の絆は、幼い心が傷つき、貧しさをなめ、戦争を憎み、やがてポーランド生まれのアニタ(妻)に出会うまでの彼の実人生が下敷きにされているといえるだろう。
※Lobel,Arnord(1933〜)
Small Pig('62. どろんここぶた)Lucille('64. ルシールはうま)Frog and Toad Friends('70. ふたりはともだち)Frog and Toad Together('72. ふたりはいっしょ)Mouse Tales('72. とうさんおはなしして)Owl at Home('75. ふくろうくん)Frog and Toad All Year('76. ふたりはいつも)Mouse soup('77. おはなしばんざい)以上、日本版は三木卓訳,文化出版局。
『さむがりやのサンタ』レイモンド・ブリッグズ
子どもたちにとって待ち遠しい日とは、一年に何日あることだろうか。誕生日、正月、クリスマス――贈り物を抱えた父母祖父母の笑顔は魅力的であるが、一度も会ったことがないのに朝起きると欲しかったものをちゃんと枕もとに置いていってくれるサンタさんほど不思議な謎の人物はいない。
ブリッグズは、この伝説的神がかり的人物を宗教の枠組からはずし、子どもの日常に包含する視点からスポットを当てている。つまり、「ねえ、サンタさんってなに?」とくり返し投げつけられる子どもの質問に答えてきた大人たちのトータルなサンタ観を塑像にして、それに作者流のいのち(性格)を吹き込んだといえるだろう。
この絵本のおもしろさは、二つの要素によっている。一つはサンタの人間くささであり、一つは劇画的手法により絵本を視覚メディアとして捉えていることである。
お寝坊で怠け者で食いしん坊で飲んべえで、壁に暖かい南の海のポスターをはりつけ、一年に一度のお勤めも寒くて気が進まないという造型は、トナカイに引かせたソリに乗って雪空を疾駆するかっこいいサンタ像とあまりにもかけはなれている。だが、ぶつぶつ言いながらもネコや犬やトナカイに寄せる眼差しは愛情深く、訪れた子どもたちがお礼においてくれたお酒のグラスをもつ手は幸せに満ちている。
さて、絵本というものが〈表現形態〉として捉えなおされつつある昨今、劇画と絵本の接点も興味深い課題であるが、この作品はコマ割りと吹き出しの特徴を絵本メディアの中に見事に生かしたといえる。つまり、「見て読む」絵本でなく、「見て分かる」絵本として成功している。サンタが起きて顔を洗って朝食を食べてトナカイのソリにのりこんで出発……という物語展開がスムーズに無理なく運ばれている。また会話が吹き出し(かつ書き文字)のため親しみ深く、サンタの人間くささを盛り上げている。そしてなんといっても子どもたちにとって喜ばしいのは、歯ブラシ立てやポスターや雨のしずくといった細々したものがきちんと描かれていることである。
一九七三年のケイト・グリナウェイ賞を受賞したこの作品は、従来の絵本になかった生きることの楽しさを余裕たっぷりに提示したといえるだろう。
※Briggs, Raymond(1934〜)
The Elephant and the Bad Baby(1969)Jim and the Beanstalk('70)Father Christmas('73. さむがりやのサンタ,菅原啓州訳,福音館)Father Christmas Goes on Holiday('75. サンタのたのしいなつやすみ,小林忠夫訳,篠崎書林)The Snowman('79)Gentleman Jim('80)When the Wind Blows('82. 風が吹くとき,小林忠夫訳,篠崎書林)
――わたしの出会った絵本(2)日本編
『ふきまんぷく』田島 征三
田島征三の絵は揺れている。躍動感があるとか、荒々しいタッチだとかいうことではない。絵が語りかけてくるのである。媒体となるものはコトバや響きや象形ではない。ずばりいって絵がもっている《感性》である。それだけ、絵に力というか情念がこもっているわけだが、彼が絵本メディアを通して展開する舞台は、一見民話風のあったかい土のにおいを発散させながら、どっこい最も普遍的かつ今日的な世界である。
彼をバイタリティの作家と呼ぶ声を聞くが、なるほど『しばてん』『ちからたろう』などの絵、『土の絵本』『草の絵本』などのコトバはすさまじいまでに奔放である。だが私は彼の絵本世界に、むしろさまざまな煩悩を払拭した浄土の清澄さをみる。この透明度は、決して悟道に立つ仏の安らかさではなく、なお煩悩を楽しむ生命力を秘めた人間くさい明るさである。
つまり、彼の今日性こそはこの『払拭のしかた』に潜んでいると思う。
『ふきまんぷく』のふきちゃんは、山へ星をひろいに出かけて、ふきの葉の上でゆれているつゆをみつける。つゆと一緒にふきちゃんも、くきをすべって土の中へ入ってゆく。土の中はあったかい。お父さんに迎えられて家に帰るが、長い冬が終わるころもう一度山へのぼっていくと、そこにふきちゃんのなかまたちのふきまんぷくがいっぱい土の中から顔を出している――この最後の場面、一つのフキノトウの中からふきちゃんみたいな小さい子がいっぱい顔をのぞかせているシーンは読者に確かな手ごたえを伝えてくる。
有機物、無機物を問わず、ものにはみな生命があるというシャマニズムは、古くは生活と密着していた。宇宙の均衡の中に在ること、その生命への畏敬と歓びを肌で受けとめていたのであろうが、田島征三の描く世界は人間を神に近づけることではなく、神(生命の所有者)を人間に近づけることではなかろうか。彼の関心はあくまでも総体としての人間(ふきまんぷく)であり、同時に分散したおのれという個(ふきちゃん)である。
今日は理性が最も優位を占めた科学万能時代といわれているが、彼はさらに逞しい理性によって新世紀へかすかな望みを托す現代人にかわって、人間が本来もっている感性(生命力の圧倒的な美しさと喜び)を大切に素直に謳い上げることのできる数少ない作家である。
※主な絵本――『ちからたろう』(一九六九、ポプラ社、第2回世界絵本原画展、金のりんご賞受賞)『しばてん』(七一)『ふきまんぷく』(七三、以上偕成社、第5回講談社出版文化賞受賞)『猫は生きている』(七三、理論社)『ほらいしころがおっこちたよねわすれようよ』(八〇、偕成社)画集『畑の神々――日の出村画帖』(八〇、集英社)他に短編やエッセイも多い、『土の絵本』(七四)、『草の絵本』(七七、以上すばる書房)『もりえもん』(七六、理論社)など。
『ごろごろにゃーん』長 新太
ひところわが家の三歳になる息子の口をついて出る言葉は「ごろごろにゃーん」ばかりであった。「がくちゃん、おてて洗った?」「ごろごろにゃーん!」「もうごちそうさまなの?」「ごろごろにゃーん!」「さ、お父さんにおやすみなさいって言いましょうね?」「ごろごろにゃーん!」といったぐあいである。
ねこたちが魚の形をした(というか魚そのものみたいな)飛行機に乗りこんで空の旅を楽しむこの絵本は、数多い長さんの作品の中で私の一番好きなものである。飛行機の上から釣りをし、化物くじらや空飛ぶ円盤を尻目に嵐の山々、ビルの林の上を颯爽と飛び、くやしがる犬たちを静かに見下ろして月夜の森に消えていく。「ごろごろにゃーん」というのは、世俗のしがらみをはすに見下ろした長さんののどの奥から思わず漏れ出た歌声ではないかと、飛行機のまねをして部屋中を疾駆する息子の姿を見て思ってしまう。
長さんの世界は絵だけで語れるものでもないし、『ビー玉人体内蔵説』(注1)『ブリキのおまるにまたがりて』(話の特集)というようなエッセイだけで語れるものでもない。その世界はあったかくって冷たくって、空っとぼけていておかしくって、哀しくってどうしようもなく馬鹿ばかしい。私たちがてっとりばやく何かにすがって作り笑いをしているとき、長さんは腹の皮をもじゃもじゃふるわせてごろごろと笑っているのだ。「はみ出しているという意識が自分の内にある」(注2)と架空インタヴューで明かしているが、《笑い》という本質的楽しさをまじめな顔で考え、ふまじめだとして照れ笑いのうちに握りつぶしてしまう私たちの方が余程はみだし人間なのである。
長さんの絵は本当にすばらしい。子どもへのお追従だとか、私にだって描けそうとかいう声を聞くが、それは決して自分は子どもなんかではないと思っている人たちである。絵がすごいのは、それによって私たちがまったく別の新しいイメージを創ることができるからである。これで分かりにくいなら、「子どもの絵にみられるデフォルメが、テクニックの問題なんかではなく、明らかに精神の解放を示していることを知ったとき、ぼくは初めて子どものユーモアが何かということを理解できた」(注3)という灰谷健次郎氏の言葉を贈るしかない。
ともあれ、私も編集者として長さんの二つの絵本『ろくべえまってろよ』(灰谷健次郎との共作)『キャベツくん』を出すことができたのは望外の喜びである。ごろごろにゃーん!
注1 「海のビー玉」(理論社刊)所収。
注2 「長新太にきく」月刊『絵本』'73・9月号。すばる書房、所収。
注3 「長新太さんの絵」『児童文学一九七六』聖母女学院短期大学児童教育科所収。
※主な作品――『がんばれさるのさらんくん』(一九五八、福音館)『おしゃべりなたまごやき』(五九、福音館、第5回文芸春秋漫画賞)『もじゃもじゃしたものなーに?』『ろくべえまってろよ』(以上七五)『キャベツくん』(八〇、以上文研出版、第4回絵本にっぽん大賞)『ごろごろにゃーん』(七六、福音館)『はるですよふくろうおばさん』(七七、講談社、第8回講談社出版文化賞)『改訂版=おしやべりなたまごやき』(七二、福音館、国際アンデルセン賞国内賞)『みんなびっくり』(こぐま社)『ぞうのたまごのたまごやき』(以上八四、福音館)(以上二点により八四年小学館絵画賞)
『ねずみくんのチョッキ』上野 紀子
上野紀子の代表作を一つ上げろと言われたら、はたと考えこんでしまう。夫君の中江嘉男との共同創作の世界を彼女は忠実に描いていくわけであるが、その世界が多様であるように手法やタッチや画材も変化していく。大ざっぱに分ければ『ぞうのボタン』『ねずみくんのチョッキ』などナンセンシカルな遊びの世界と『小宇宙』『紐育の国のアリス』『まどべのおきゃくさま』などシュールな世界とがある。コミカルで陽気なものを描いても、上野の絵に不思議な哀感を覚えるのは、どちらかといえば感覚的なシュール世界に気が向いているためと思われるが、今回は『ねずみくんのチョッキ』をとり上げた。
おかあさんがねずみくんに赤いチョッキを編んでくれた。ぴったり似合って得意でならない。そこへアヒルがやってきて、「いいチョッキだね、ちょっときさせてよ」という。人のいいねずみくんが貸してやる。次にサルが、続いてアシカ、ライオン、ウマ、おしまいにはぞうくんまでチョッキを着たからたまらない……。この絵本のおもしろさは、小さなねずみくんのチョッキを大きな大きなぞうくんが着るところにある。入れかわり登場する動物たちの単純なくり返しが、その対比を無理なく運んでいる。四角い画面にはみだしてウーンときばって描かれているぞうくんの大きいこと。そしてねずみくんの悲しさをいっぺんに吹きとばす発想を最終画面に小さく描いているのも心にくい。
『ねずみくんのチョッキ』は『ねずみくんがとんだ』『りんごがたべたいねずみくん』『また!ねずみくんのチョッキ』……と続くが、ちょっぴりおっちょこちょいで負けん気が強くお人よしのねずみくんは、日本の絵本史にとって記念すべきキャラクターとなるだろう。
「ねずみくん」が売れて、類似したものを依頼されるのに疲れておられた御夫婦にお会いした。本当はこういうものをやってみたいと出されたのは、最初に自費出版された『ペラペラの世界』(一九六六)に通じる『まどべのおきゃくさま』というシュールな作品だった。少し前に『ゆうやけのじかんです』(柴田香苗・文)を出させていただいた後だったが、その原画を目の前にして奇妙な興奮を抱いたのを覚えている。上野紀子という作家は《想像力》を視覚で訴える数少ない詩人ではないだろうか。
※主な絵本――『ペラペラの世界』(一九六六、自費出版)Elephant Buttons(73 Harper
& Row)『くろぼうしちゃん』(七四、文化出版局)『ねずみくんのチョッキ』(七四、ポプラ社、講談社出版文化賞)『小宇宙』(七四、河出書房新社)『迷いこんだ動物たち』(七五、偕成社)『紐育の国のアリス』(七五、河出書房新社)『ゆうやけのじかんです』(七六)『まどべのおきゃくさま』(七六、以上文研出版)『メルヘンの国』(七六、ポプラ社)『宇宙遊星間旅行』(八一、偕成社)
『のらいぬ』谷内こうた
谷内こうたの世界は、広がりと空間によって支えられている。茫洋とした地平線とか水平線の極みは白くけぶっていて、そこに少年の日のけだるい憧憬を映している。不安定な精神とあまりにも健康的な肉体。空と地、空と海をわかつ単純で大らかな構図が、そのアンバランスを見事な均衡の世界に包みこんでいる。
代表作『なつのあさ』は、少年が自転車にのって小さな山にのぼり、朝一番の汽車を見に行く話である。汽車に対する幼い感情が、爽やかな息吹となって伝わってくる。
だっだ、しゅしゅ、12345。だっだ、しゅしゅ、678910。汽車のリズムは、少年の内にある秘められた生命の足音でもある。
『のらいぬ』は実にいい。
『なつのあさ』にあった、美しい幼さを一歩越えて、酷しいまでに人と人との愛情、生きる証しを捉えている。登場するのはいぬと少年の二人きりであるが、この二人ぼっちの世界は、互いの内面を無限に象徴的に流出させ、融合させることにより、快い広がりと空間を感受させる。
文章だけをとり上げると、
「あついひ/すなやまに/みつけた/ともだち/いこう/よんでいる、よんでいる/とべ/あ、おちる、おちる/あついひ、すなやまにみつけたともだち/いつか、きっとあえる」
たったこれだけである。
この絵本の衝撃は、ふと出会った少年といぬが白い灯台にのぼり、そこから無限の広がりへ「とぶ」場面である。少年の前方をみつめて気持ちよさそうなとび方、犬のぶかっこうな空間に身をあずけたようなとび方――。手をとりあってとぶのではなく、別々に自分にあったとび方をしているところに、この絵本の深さ、凄さがあるのではなかろうか。
若くしてボローニャ絵本展グラフィック賞を受賞した谷内こうた(一九四七年生)も、三〇歳をこえた。近作『かえりみち』では美しい憧憬からずんずん離れて、己れの酷しい内面へとわけ入っているように思えるが、さてこれからの谷内こうたは何処へいくのだろうか。もっとも気になる作家のうちの一人である。
※主な絵本――『ぼくのでんしゃ』(一九六九)『なつのあさ』(七〇)『あのおとなんだ』(七一)『のらいぬ』(七三)『かぜのふくひは』(七六)『にわかあめ』(七七)『かえりみち』(七八)『つきとあそぼう』(七九)以上すべて至光社刊。
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