『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

人は虫になり得るか――部分的今村昌平論
 
 劇作家というよりは大映映画『忍びの者』の原作者として知られる村山知義の亡妻村山籌子は児童文学者としてかなりの量の童話作品をのこしている。比較的有名なのは野菜や果実が主人公という幼年童話なのだが、一九二九年九月『少年戦旗』に発表した『こおろぎの死』は題名からもうかがい知れるように、虫が擬人化されて登場する作品である。イソップ物語として知られるアイソポスの寓話のなかにも虫が擬人化されたはなしはいくつかあるが、この村山籌子の作品は、こおろぎが印刷工場の労働者、まだらばちが救世軍病院の院長、すず虫が金持の娘として登場してくるというまったく階級的な童話なのだ。そのおおよその内容はつぎの会話部分を引用することで理解されるとおもう。
 「おじょうさん、おもしろい話をしましょうか。きょう、水にぬれたこおろぎがきましてね、ただで病院に入れてくれっていうんですよ。なんでも、労働者のような人相の悪い男でしたが、あんまり、ずうずうしいので、しゃくとり虫が、外へ追いだしたんですがね、あなたがたには、ちょっと想像できないことが、下層社会の人間には平気でできるんですよ。」
 「あら、こおろぎ? じゃ、わたしがどろ水をまどからすてた時に下を通ってた男よ!」
 今村昌平の新作『にっぽん昆虫記』について語るために、冒頭いきなり童話をもち出してきた理由はまさに右の引用文中の「あなたがたには、ちょっと想像できないことが、下層社会の人間には平気でできる」という部分に集約される人間の生き方にある。そして今村昌平の今度の作品は、水をまどからすてるというような人間の生き方にははなはだしく無縁だという気がする。つまり村山籌子は階級的な童話を書くために、労働者も、キリスト教徒も、ブルジョアもすべて虫にしてしまう必要があったわけだが、今村昌平にあっては、大地を這いまわる虫は農民に代表される大衆でなければならなかったのである。
 子どもが主人公である『にあんちゃん』を撮ったからというような単純な理由ではなしに、ぼくは今村昌平の作品世界と児童文学の世界との類似を感じてきたのだが、今度の『にっぽん昆虫記』はその延長線上にありながらも、かなりの異質要素が出て来たという評価をしたいと思っている。すくなくとも『豚と軍艦』あたりまでの今村は村山籌子的にすべての人間を虫なら虫に擬人化してしまうという方法をとっていた。ために今村がどんな作品にも設定する脱出の可能性が浮きあがり、さながらメルヘンのように現実離れしてしまうのであった。『にあんちゃん』における大阪という都会、『豚と軍艦』における労働者の街川崎というぐあいにそれらは安易な可能性にかろうじて支えられる脱出の場でしかなかったのだ。それらに比較した場合、こんどの作品において設定された脱出の場は開拓農場という文字どおりみずからの身体でかちとった場なのである。古今東西の名作童話を例にすれば判然とするように、童話世界の主人公たちの多くは、さすらいをつづけたあげくに幸福をつかむ。ある時は生別していた母にめぐり逢うことによって幸福となり、またあるときには、善人ばかりが住んでいる町あるいは家にたどり着いて幸福になる。それらはおしなべて既存の場でしかない。そこに到達できれば幸福となり、到達し得なければ不幸というかなり公式的な論理しかそこには展開のしようがないのである。『豚と軍艦』あるいはシナリオ『キューポラのある街』までの今村はそうした既存の場によりかかった公式を展開することによって映画としてはかなり独自の、しかし児童文学的には全く伝統的な論理の展開によってその創造活動をすすめてきたのだということができる。もちろんぼくはここで、映画よりも児童文学のほうが進歩しているなどという虚言を吐くつもりは毛頭ないが、今村作品にかなりの共感を寄せつつも、ある部分では完全に反発せざるを得ないという感慨をいだきつづけてきただけに、以上の事柄を明らかにしたかったわけだ。
 それにもう一つ、今村の作品が児童文学的な世界に類似してみえるのはその画面構成がグロッタの画家たちの絵のようだということにも深くかかわりがあるのだと思う。グロッタ絵画と児童文学とはどんな関係があるのだといまさらのようにひらきなおることはあるまい。人間がけものになりけものが人間に変るという過程および結果はまさしくグロッタであり、その場合、けものが虫であっても一向にかまわないわけで、こうした情景をいかにも怪奇に見せるのがグロッタ絵画であるならば、それらをいかにもさりげなく描いてみせるのが児童文学のなかのメルヘンとよばれる作品群であったというだけのはなしだ。「子だぬきは人間の子どもにばけました」と書けば童話だが、この変化の様相をリアルに描き込んでいくならば、そこにグロッタの絵画は存在し得るのである。もしも『にっぽん昆虫記』が映像ではなしに一枚のタブローから成り立つ絵画ならば、そこには虫のように大地を這いまわって生きねばならないひとちの女ではなくて、下半身がすでに虫と化した女というようなものが描かれていると思うである。かくてぼくはここにあらためて、人は虫になり得るかと問うわけだが、これにたいして『変身』の作者カフカはともかくとして今村昌平は、虫もまた人になり得ると答えているのである。だがそうした答え方は、アイロニーとしてしか受け取られかねない危険性をもっている。しかしそれは今村という作家の責任ではない。今村は精一杯に虫もまた人になり得ると答えているのだ。
 誤解は許されない。ぼくはあの映画のなかのある部分、たとえばベット・シーンがグロッタ絵画的だといっているのでは絶対にない。トップの這いまわる虫からラストの山道を行く女主人公までの連続をグロッタ絵画のようだといっているのである。そしてそこに今村の答えを得たというわけだ。しかしさらに考えおよぼしてみると、この今村の答えもまた児童文学的論理以外の何物でもないことがわかる。いうまでもなく今村の答えである「虫もまた人になり得る」の具体的展開は、左幸子ふんするとめよりも、吉村実子の信子においてより積極的にあらわれるわけだが、この親子三代にわたる失敗から成功への過程は、一八八六年のレフ・トルストイ作品『イワンの馬鹿』における長男と次男の失敗と三男イワンの成功という展開に酷似しているのである。もちろんトルストイはイワンが長男および次男の失敗に学んだとはいっていない。これにたいして農村出身の女とめは、貪欲に学び、踏襲してゆく。この相違が実に前述した「延長線上にありながらも、かなり異質の」といった異質の要素だと思うのである。これをもしも結論的にいうならば、『にっぽん昆虫記』は、従来のさすらいを積極的な生き方に変えたことによって、既存の場への脱出ではなしに、新たなる創造の場へと歩み行く人間を描き得たといえるだろう。しかもそれをかたくなまでになしとげて行くとめの心情が、幼児の瞳にやきついた原体験によって支えられていることにおいても、この作品はまったく児童文学的であるといいたかったのだが、すでに紙数枚がつきてしまった。  (一九六四年一月「映画芸術」)



巷に雨降る如く、わが心にも涙ふる――東映児童劇映画について

 松本俊夫作品『春を呼ぶ子ら』を見て感動した。高校合格者発表の場面、集団就職のために子どもたちが集合させられている場面などで、カメラの前を遠慮なく人が通る。ためにときどきは群衆が見えなくなる。職業俳優を使うロケでは完全にじゃま者払いされているから、あんなふうにカメラの前を背中や手がよぎるなどということは絶対にあり得ない。そしてそれゆえに白々しい。ところがあの映画では、ほかの映画ではあり得ないことがつぎつぎに起きる。つまり予断を許さない。その荒々しさが実に現実感を高めている。そればかりではない。カメラの前をよぎるじゃま者は、映画を過去の記録にとどめず、現在進行の記録する役割をはたしていた。まるでテレビの中継放送のようだと思った。あそこでは映画がテレビの機能まであわせ持つことになった。松本俊夫は雨をふらせた。あの雨降りの長さも、ほかの映画にくらべて異常なものだ。あの雨のあいだ、ぼくは山田今次の詩『あめ』を思い出していた。
 あめはぼくらはを ざんざか たたく。ぼくらの くらしを びしびし たたく。さびが ざりざり はげてる やねを やすむことなく しきりに たたく。みみにも むねにもしみこむ ほどに。
 雨がやんだら、うるさくつきまとっていた指導要領的コメンタリィを完全に振切ってしまっていた。新鋭松本俊夫の映像の勝利だ。そしてさらに列車を現実へ、力強く出発させたのである。
 さて、ぼくは東映教育映画部製作の児童劇映画について書くのだが、現在までに見たのは『わたしのおかあさん』『消えた牛乳びん』『若き日の豊田佐吉』『すみ子先生』の四本である。軍港佐世保を舞台にした『なかよし港』をぜひ見たいと思ったがはたせなかった。それを見ることが出来たら、東映児童劇映画における記録の実態がある程度までわかるのではないかと考えたからだ。そしてその作家が、あの大甘の愚作『わたしのおかあさん』と同じ岩佐氏寿であるということも興味をそそる部分であった。
 岩波の『飛鳥美術』を見てもわかるように岩佐氏寿は非常に計算高い画面を作る作家である。そのタッチは松本俊夫が『春を呼ぶ子ら』で見せた荒々しさとは反対に、きちんと、じゃま者払いのされたこまやかさだ。その岩佐氏寿が軍港佐世保の子どもの友情を如何に描き出したか、風景がどのような息づかいを感じさせるのか、ぼくには興味があったというわけだ。
 単純に作家を交代させてみる。松本俊夫が佐世保で仕事をしたとする。子どもたちが演技している、その手前、つまりカメラのすぐ前を自衛隊員の首や米兵の背中が通り過ぎる。そういう映画が出来上る。これを東映がそのままにして売りに出すだろうか。出すまい。軍港佐世保に雨がふる。それを松本俊夫が「みみにも むねにも しみこむ ほどに」長く撮る。そういうことを東映が許すだろうか。許すまい。
 『わたしのおかあさん』でも雨がふった。その雨に濡れて母親が死んだ。と思ったら間違いだ。母親が死んだ原因は日本農業の貧しさだとその夫が娘に説明した。となると、雨がはたした役割はかなり曖昧なものだ。計算された画面のなかに曖昧な雨がふる。曖昧な雨はぼくらを叩かない。そういう雨なら東映は許しているのだ。岩佐氏寿の甘さの部分で東映は商売をする。その甘さを「メロドラマのメロを追求してそこに一つの突破口を」という言葉で岩佐氏寿は説明するのだが、あの雨は追求されたメロの部分とは思えない。
 雨についてさらに考えてみる。『若き日の豊田佐吉』でも雨がふった。激しい雨だった。雨は佐吉の研究室であるボロ小屋を叩き、しみこみ、夜具を濡らす。それを見て父親が屋根にあがり雨もりを直すのだが、ぼくはてっきり父親が、足すべらして落ちるのだと思っていた。だがその期待は裏切られた。雨は父親と息子の仲たがいを直す動機となったにすぎない。したがってその雨は甘い。岩佐氏寿の雨よりさらに甘いのだ。
 その雨が『消えた牛乳びん』となると、少年新聞配達よ御苦労さま、という雨になる。これまた甘いのだが、この雨にはさわやかさがあった。チャチな動機に使っていないところが気に入った。というふうにくらべてみると、東映児童劇映画と雨は切っても切れぬ関係にあるといえそうだ。しかも共通して甘味剤的な役割を雨に負わせている。ここでワイダの『灰とダイヤモンド』の雨を考え、くらべてみるのもおもしろいと思うが、いまは先へ急ぐ。
 「土方殺すにゃ刃物はいらぬよ。雨の十日もね降ればよい」と歌うとき、雨は刃物以上武器である。その武器を駆使して松本俊夫は指導要領を断ち切ってしまった。天然自然さえも闘争の武器に変革させ得る作家主体のたくましさに、ぼくは感動しないわけにはいかなかった。
 さらにぼくは宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』という行分け文を思い出す。ぼくのもっとも嫌いな文章一つだが、残念なことに、岩佐氏寿の『わたしのおかあさん』と『雨ニモ負ケズ』は同質のものである。あの母親にはかなりヒステリックなところがあったから、デクノボウ的存在には我慢出来なかったろうが、あの父親は完全にデクノボウである。トマトが高く売れるということで、娘の友だちがふざけて出した手さえ振り払ったくせに、それま一人の女にをんまと盗ませる。そして幼児にくわえさせて、お涙ちょうだいと来るところなどは、賢治よりさらに甘いといえるだろう。
 トマト盗人を追って露路の奥へ入りこむなめらかなタッチを、大島辰雄などは美しいというのだろうが、露地裏で美しさを見つけ出そうとする精神そのものが、すでに記録とはほど遠いものなのではないだろうか。あれは心象スケッチでしかない。
 となると問題は、岩佐氏寿が東映児童劇映画ではたしている役割だが、これまた宮沢賢治が羅須地人協会をつくって農民のためになろうとしたことと、あまり相違なく思えるのだ。すくなくとも『わたしのおかあさん』における農民観は宮沢賢治のそれを抜きん出てはいない。あの映画は東映のワクを打破る映画、つまり東映らしからぬ映画ではなかった。それでいて沢島忠の時代劇のように東映機構そのままというところもない。まずは妥当な立場、あるいは多少の改良をくわえたというところだろう。だが岩佐氏寿は児童劇映画作家であると同時に記録映画作家であるはずだ。だからつねに関心は、如何にして記録性をつらぬくかということであるに違いない。しかし実際には村山新治の警視庁シリーズの疑似ドキュメントにさえ及んでいないのは何故だろうか。その原因は岩佐氏寿におけるアクチュアリティの欠如にほかならないとぼくは思う。
 『わたしのおかあさん』のどこに、現在進行の記録があっただろうか。最新作の社会教育映画『うわさ』においても、それはなかった。ぼくらがそっと周囲をうかがわずにはおれぬような危機感への高まりが、当然あるべきなのに、それがない。だから試写帰りのエレベーターの中で若い女たちがいっていた。「あれからどうなるのか心配ね」と。アクチュアリティとは他人の運命を気づかう精神とはいささかの関係もないものだ。「彼と彼女の運命や如何に?」という精神こそが、多くのメロドラマを支えてきたのではなかったか。
 村山新治の『顔のない女』の最後にはコメンタリーが入る。殺人犯には楽しい土曜日は二度とめぐって来ないという。ここでは運命への気づかいは拒絶されている。メロドラマ否定の精神がある。そういう映画が東映で作られている。その同じ東映からメロドラマチックな児童劇映画が出てくる。この相違は一方が娯楽で一方が教育ということから起きるのだろうか。ほんとうにそうだろうか。メロドラマを否定することは、教育的でないと思いこんでいる製作者が教育映画部には多いのだろうか。だからメロを追求するなどという改良主義的な考え方で仕事を進めて行かなければならぬというわけだろうか。ほんとうにそうだろうか。
 『なかよし港』は見なかったけれど、東映児童劇映画における記録の実態はほぼ明らかとなった。それらは共通してメロドラマのための舞台装置、または背景でしかないということだ。しかもそれが児童劇映画の製作条件、つまり金をかけないこととおおいに関係ありとなると、その記録の必然性は実に希薄だ。しかも作家がメロの改良などということを考えているとなると、スリラー物の疑似ドキュメントにさえおよばぬことは当然となる。
 風景もまた物質である。しかし風景を物質としてとらえる精神は、メロドラマとはかかわりがない。そこから予想されるタッチはやはり荒々しい物質感触だ。その荒々しいタッチが東映児童劇映画には欠けている。さらに日本の児童劇映画全体に欠けているのだ。
 松本俊夫は『春を呼ぶ子ら』で荒々しいタッチを見せた。あの映画の製作条件は非常に苦しいものであったと聞く。その製作条件の苦しさまでが伝わってくるタッチはやはりすばらしい。それは出発当時の沢島忠が東映機構を如実に示したことにも通じるだろう。しかし残念ながら、東映教育映画部の機構を明らさまに示す作品はでてこない。何故だろう。若い作家がいないのだろうか。とにかくそのために、東映児童劇映画の特徴さえ知ることが出来ないのが現状ということになる。取り上げる機会を逸した。『すみ子先生』でもそれは同じことである。そしてそれが他社の作品、例えば若杉光夫の『チビデカ物語』でも、進藤兼人の『らくがき黒板』などでも同じことだと思うと、腹さえ立ってくるのだ。児童劇映画は、もっともひ弱な部分で作られているとつくづく思わざるを得ない。まるで東映児童劇映画の甘さの主たる責任が岩佐氏寿にあるような書き方になってしまったが、それは現在、ぼくと岩佐氏寿が共同で担当する脚本があるということに関係があるわけで、お互いにいうべきことをいう必要ありと認めたからである。もちろんその脚本は東映児童劇映画のためのものなのである。
(一九五九年九月 「記録映画」)



子どもは何故必要なのか――『キューポラのある街』から『わんぱく戦争』まで

 戦後まもない頃のことだが、おれは少年工として亀戸近くの町工場で働いていた。工場の周辺はそのほとんどが焼跡であって、おれのいた伊藤製作所にしても、戦争中には二〇〇人からの工員がいたというのに当時はおれをふくめてたったの六人、しかもそのうちはの二人は、工場の持主とその息子という有様だったのである。
 朝鮮戦争が始まるかなり前のことだから工場にはろくな仕事がなかった。炭坑で使うトロッコの連結器を作るのがおもな仕事で、おれは製品を二キロほど離れたところにある親会社までリヤカーで運搬した。なにしろ重い荷物だからリヤカーはすぐに故障する。おれたちはつぎのリヤカーを焼跡から探し出してきては使い、また捨てた。途中の五百米ほどは小名木川という運河のほとりの道だった。おれと仲間の宗五郎はリヤカーをおっぽり出しては小名木川に飛びこんだ。しばらく泳いでは身体を浮かして空を見た。青い空だった。眼を転じると対岸の大工場のクレーンがそそり立っていたが、それは焼けただれた赤錆色で、いかに巨大ではあっても何の役にも立たないしろものなのだ。
 おれたちの顔をかすめて小さな蝶が運河を渡った。その蝶の名がルリシジミというのだと教えてくれたのは宗五郎だ。本名は忘れてしまった。千葉の佐倉から来たやつだからおれたちは宗五郎と呼んでいたのだ。
 
 何故に子どもを
 一月も末のことだがぼくはテレビのロケにつき合って小名木川のほとりの小学校へ行った。小名木川の水面に黝ずみ、まるでコールタールを流し込んだかのようであって泳ぐことなどは考えることさえ不可能である。帰り道、警官が船を出して長い竿で河底をさらっているのを見た。そのようすから察して誰か河に落ちたのではないかと話し合ったのである。あくる日、新聞を見ると小学生が小名木川に落ちて死んだと書いてあった。その小学生は学校を休んで橋の下に巣食っている鳩をとりに行き河に落ちてしまったのだという。頭の弱い子だともつけくわえてあった。
 冒頭に記したぼくのささやかな思い出は、いまさらいうまでもなく「小学生、鳩をとりに行って死ぬ」という小さな事件によってよび起こされたものである。
 新聞記事が読者の思い出をよび起こすなどということは日常いくらでもあり得ることであり、とくにそれが子どものことであるとなおさらに、人びとは思い出をかき立てられるのではないだろうか。もちろんそれは新聞記事のみがおこすことではなく、映画、テレビ、書籍等のあらゆるメディアを媒体としても起こり、さらには道すがらの子どもの言動によってもひとびとは自己の幼少年期をフト思い出したりするものなのだ。そしてその多くは微苦笑とともに存在するに違いない。
 これをぼくらは童心と呼び、それが論理化されると童心主義となるわけだが、これが拡大されると、現実の子どもの変革された姿を見よとばかりに提起されたはずの現代っ子ものさえ微苦笑をもってたやすく消化されてしまう。いかに子どもが変ったとはいってもしょせんは人間である。郷愁の幼少年期と共通する部分はいくらでもあるから、変った部分よりも変らない部分を見ることは容易である。その意味では子どもは変革するだの、童心は永遠だと論議し合うことは空しく不毛であることは明らかだ。子どもの変革を問題にするのは、変らざる部分が多いからこそだということが理解されなくては現代っ子も何も無意味なのである。
 一篇の映画作品、たとえば『キューポラのある街』をめぐっても微苦笑の賛辞はかなり多かった。おそらく近く封切られるフランス映画『わんぱく戦争』についても微苦笑の賛辞と拍手はおびただしいに違いない。ついでにいえば芸術祭受賞のテレビドラマ『煙の王様』についても同様のことがいえるはずである。しかしだからといってそれらの作品が共通する童心主義によって貫かれているというつもりは毛頭ない。むしろ『キューポラのある街』と『わんぱく戦争』とではまるで逆の論理が内包されていると評価すべきだろう。ところが子どもが活躍するという表面的な現象によってそれらはすべて同一の次元に組み入れられ、ひどい場合には子どもの出るのは最近の流行などという言葉で扱われたりもするのだ。もちろん数のなかには流行の意匠のもとに企画されたものもすくなくないが、それらを何もあえて作品と呼ぶ必要はないのではないか、やはり作品と呼ぶからにはそれなりの独創性つまり作家が存在しなければならぬ。そしてこの場合には何故に作家が自己の作品の中心に子どもを置く必要があったのか、それが問題にされ分析されなくてはならない。
 浦山桐郎はなぜ、ジュンやタカユキを『キューポラのある街』の中心に据えたのであろうか。『私は二歳』はなぜ映画化されたのか。大島渚が『小さな冒険旅行』を作りつつあるのはたんにPR映画としてだけのことであろうか。さらにさかのぼれば今村昌平の『にあんちゃん』においても何故に子どもをということは絶えず追求されるべきはずであった。

 いつでも夢をの泰平ムード
 『キューポラのある街』に流れ漂う思想はけっして良質のものではなく、それは作中で歌われる『てのひらの歌』、かなしい時にはみつめていようの姿勢であるといってもいい。働いていればいつかはきっと明るい暮しがやってくる。がんばろう、手をつなごうと歌いあげてから一年たった現在、吉永小百合は『いつでも夢を』歌いまくっている。てのひらをみつめるの考える姿勢からいつでも夢をの泰平ムードへの移行、これはまさしく体制である。その体制の移行進展に随伴してしまったのでは浦山桐郎について批判する気力さえ失くなるが、あの作品中に見せた一つのショットが浦山への期待を現在もかたくなに支えているのだ。
 鳩を持ったタカユキが聞えてくる歌声にひかれて近づいたところは少年鑑別所である。タカユキは塀の穴からなかを見る。雪山讃歌を歌っているのはボーイスカウトであり、その歌をまるで聞き流しにしてふざけあっているのが、非行少年たちなのだ。ここで作家はとやかくいわない。かなりひいたサイズで二つの集団を見せただけであるが、これはすばらしい現実の切断面であった。
 現在浦山桐郎は『非行少女』なる作品にかかっているというから、鑑別所の塀の穴は大きくひらかれ、非行少年たちがボーイスカウトを撲り殺すというような状況が展開されるに違いない。もしもそれが企業の要請によって不可能だというならせめて鳩を飛ばすこと、それも意味をこめて鳩を飛ばすようなことだけはやめて欲しいものである。
 タカユキが突然口を切り、おれ高校へ行くぞ、父ちゃん面倒みてくれよなという場面も悪くなかった。
だがそれよりよかったのはやはり女の子のスカートをまくるところであろう。とにかくところどころに瞬間ピカリと輝くものを見せながら全体としては微苦笑と平和思想につつまれている印象になってしまっているのが『キューポラのある街』という作品であって、そこからぼくは一つの判断を持った。浦山桐郎は川口という街の状況を断裁するために子どもというメスを選んだ。川口という街とはもちろん現実にほかならず、その状況の断裁とは記録の精神のなせる行為である。
 シナリオを書いた今村昌平は『にあんちゃん』や『豚と軍艦』において明らかなように脱出の思想を絶えず描いてきた作家であったが、この作品に関するかぎり、脱出の思想は見当らず、そのかわりに改良の思想、それも終始なごやかな改良の思想があった。これを今村昌平の後退とは断言できないがやはり杞憂せざるを得なかったのだが、いまあらためて『キューポラのある街』なる作品を思い起こしてみると、けっして改良の結末はついていないのである。
 しいていえば改良の気配のみがあり、真の改良についてははなはだ無責任に投げ出されていたというべきではないか。職人気質の父親が多少は組合に関心を持ったとはいっても、その職場からいつまた追い出されるか知れたものではないし、川口の街、つまり現実そのものが安定している場としては描き出されてはいないのだ。しかも、心が変れば現実が変るといった甘い状況説明はいささかもなく、その意味では子どもと現実が平行に、つまり子どももまた一つの状況として描かれていたと思うのである。いい方を変えれば、状況断裁のメスとなるべき子どもは、子ども自体の断裁のためにもみずからにメスを突き立てたというべきであろう。
 『キューポラのある街』にくらべて――という形で『わんぱく戦争』を批判し、そこに盛りこまれた古臭い童心主義をあばき立てようというのがこの文章の一つの目的であり、それが最終的には「なにゆえに子どもを」というテーマないしモチーフの論理を明らかにするはずである。

 キャベジンと叫ぶ現代っ子
 フランスで続映につぐ続映だという話をそのまま信じるなら、誰もがすばらしいと思うであろう『わんぱく戦争』も、実際にはまったくくだらない作品である。全篇を通じて子どものケンカばかりというのがうたい文句だが、このケンカたるや、いったい何のために行なわれるのかまったく理解できないのだ。子どもには子どもなりの思考があり行動があり、それはしばしばおとなの意表をつくものだが、それはそれなりにまた理解できるはずなのである。
 二つのグループの対立という形でケンカは始められるが、その動機となったのにグニャチンなる言葉だ。このグニャチンがスーパーされたとき、ぼくは向こうのそれも俗語だろうと思ったのだが、なんとグニャチンは翻訳された日本語なのであった。グニャチンとは役立たずの一物という意味なのである。
 子どもなるがゆえにグニャチンの意味がわからず、それでも悪口であることは判った、いざ進めとなるわけだが、この集団構成がはなはだあいまいであり、とくに相手側の集団構成についてはいささかも明らかにされてはいない。大将がいて、はなはだ博学の会計係がいてと童心主義者はすぐに相好を崩しがちだが、かかる集団構成は決して戦闘集団の組織論理の展開図ではない。あの集団構成に感心したりする教師がいたら、それは集団教育のなんたるかについて無智に等しいことを暴露したというべきだろう。もちろん子どもの集団はつねに戦闘集団であるべきではないと主張するのならば、それはもう論外である。だが、あくまでもあの集団を戦闘集団と見なさないかぎり、作中にちりばめられた裏切りにたいする制裁の正当化、共和国思想、名誉についての論理などは文字通り児戯となりはてるのだ。
 結末の子どもの仲直りを不満とするのは容易である。しかしその不満は当然、全篇におよぼされるべき性質のものである。『史上最大の作戦』についての批評のなかでぼくが関心を持ったのは、戦闘はあっても戦争がないというごく平凡な一行だった。このいい方をなぞらえるならば、『わんぱく戦争』にはゴッコはあってもケンカがないのである。もちろんそこには状況と呼ばれえるほどのものは一場面もない。明るく楽しい牧歌調の『わんぱく戦争』は文字どおり永遠に変わらぬ子どもを描いた映画なのだ。子どもがやたらにかけまわり、ある程度いきいきとした表情がとらえられているからといって、それが現代っ子につながると判断するのは愚かである。もし現代っ子をそのような存在として考えているのなら、それは俗流化され流行となりはてた皮相の、毒にも薬にもならない子どもを見ての単純判断なのだ。そしてそれは、さながら新聞記事などから日常たえずよび起こされる微苦笑の思い出と等価値であって、いつまでも子どもの心を失わぬ人だけが童話作家になれるのだというが如き考えとも共通してしまうのである。
 現実は子どもを変革しつつある。テレビの前の子どものつぶやきからさえも、人間形成の過程が活字文化の昔と、映像文化の現在とはまるで異なることに気づくはずだ。畑の脇道を通ったとき、子どもはキャベツといわずに「あっ、キャベジン」と叫んだ。いきなり四十三という文字を覚え、それは量としてスプーンに一杯のコーヒー豆の粒なのだと主張する子どもなど、幼いころからテレビを見ながら育ちつつある人間は、テレビの箱のなかに誰かがかくれているなどとはすこしも考えないのだ。
 ここでぼくがいいたいことは、映画のなかに多くの子どもが登場してくる必然性を、作家の現実を見る眼として考える必要があるということである。現実を静止したものあるいは周期的に繰返されるものとしてとらえている作家はただたんに絵柄としてのみ考える。夫婦がいれば、そこに子どもがいるのが自然だろうという置き方である。これに対しても現実を変革するものまたは変革すべきものとしてとらえる作家は、子どもを見て、最も変革の激しい存在、また、その可能性をはらんだものとして自己の作品に投入するのである。だが製作の過程において、子どものさりげない動きに触発されて思わず自己の童心をさらけ出し、無惨な照応作用を展開している作品も少なくない。各所のベスト・テン投票において好評だった。『私は二歳』は、そうした意味では子どもとの距離を絶えず計算に入れた数少ない成功作というべきだが、死んだ祖母と月との関係などはある種の無気味さが必要だったのではあるまいか。
 浦山桐郎が『キューポラのある街』において展開した子ども自体の論理の発展はおおいに期待されなければならないと同時に、『飼育』においてはまったく自然主義的に子どもを出していた大島渚が近作『小さな冒険旅行』において如何に子どもを描き出すかということに期待せずにはいられないのである。さらに同時発生などという言葉を多少なりとも信じるならば、外国においても、もはや戦争を描くには戦争映画は適さなくなったなどということを行って、『わんぱく戦争』の愚劣さを嘲笑するような作品をものにする作家が誕生するべきなのである。ブニュエルの『忘れられた人々』が子どもを描いた作品の最高峯としていつまでもそびえ立っているのではまことにさびしいかぎりではないか。
 現代っ子ブームの波がひいたあとで、また子どもについて考え直すというのでは、「いつでも夢を」の現実からさらに移行する体制に遅れをとるばかりである。
(一九六三年四月「映画芸術」)
テキスト化竜野眞須美