サリイ・アンの手紙


『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    

 厠の中、風呂場の中、所かまわず妖怪変化の出没する物語といえば、舟崎克彦の『ゴニラバニラ』(角川書店)である。ゴニラバニラが何を意味するか、こうした作品の場合「種あかし」をしないのがエチケットだからそれには触れないとしても、この物語を読み終ったあと、落語の、例の『まんじゅうこわい』という一席を連想したのは、ぼくだけだろうか。出来れば、主人公ともども「ゴニラバニラを捜せ」というので飛びまわるのも悪くないと思ったのだが、それはそれ、個人的連想を横に置いていえば、この作品には「妖怪願望」ないしは「怨念・恐怖」の回復を願う激しい渇仰がある……ということである。もちろん、この指摘は、事あらたまった発見でも何でもない。すでに、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとして、たとえば最近、平野威馬雄の「お化を守る会」の発想にいたるまで、ぼくらは、人間らしい生棲空間の喪失、それに伴う空想力や感情世界の貧困化のため、「妖怪変化」の跳梁跋扈に、ぼくらの内なる世界の豊かさを回復する願望を仮託してきている。人間は(というより、ぼくらは)それほどまでも、じぶんでじぶんの世界を食い潰してきた。「妖怪」を動員しなければならないほど、じぶんたちの構想力を、生活空間の破壊にふりむけてきた。と、こんな感想を冒頭に記すのは、実は、「妖怪」よりもおそろしい人間、「妖怪」を渇望しなければならないほどじぶんたちの生活空間を破壊している人間、そうしたものを描いている一冊の本から、この一文をはじめたかったからである。
 その一冊というのは、絵本というよりも漫画……あの『クレージイ・カウボーイ』のギレルモ・モルディロの『クレージイ・クレージイ』(CRAZYCRAZY.Gillermo Mordillo 1974)のことである。
 主人公は、映画『ターザン』のように腰布一枚のジャングルに住む男。彼はかつてのターザン役者ワイズ・ミュラーのように颯爽と樹間を渡ろうとする。木のつるとおぼしき一端を握り、紫を基調にした画面左から空間に踊りだす。カッコイイこの密林の王者は、本来ならば画面右はしの樹上に移動することになっている。しかし、途中にキリンが出現し、その長い首に、つるはからまってしまう。腰布の男は、不様にもキリンの首から宙吊りになる。これがまず第一のエピソードである。つぎの出来事は明るい色調の三役に区切った画面で描かれる。カバが小便にやってきて、草のしげみで用を足す。排泄後、満足気に立ち去るカバを、そのトイレがわりの草の間から、くだんの男が見送っているところで終る。第三の話はグリーンの色調の中で展開する。水玉模様の赤い腰布を木の枝にかけた男が、巧みに岩の上をジャンプして沼か湖のようなところまで駆けより、またもや颯爽とダィヴィングを試みる。水しぶきと共に、この男は泳ぎだす予定である。しかし、つぎの頁で、不意にあらわれたワニが、その尻尾で、男を今きた方向にはねとばしてしまう。ワニは、大きな口を開いて、人間を嘲笑う。こんなふうな「密林の王者」の失態は、さらに続く。蛇に馬鹿にされたり、象におびやかされたりして、おしまいには、動物全員が集合して、この男の行為を笑うことになる。そこで彼は決心する。赤を主調としたつぎの場面で、この男は木の根っこに挿しこんであった栓のようなものを引き抜くのだ。ぽん、と音がして、つぎにはぷぷぷふふふふと鳥全体の空気が抜けはじめる。たちまちジャングルの草木はしおれはじめ、動物たちの姿は露出してくる。頁をくると、この島の有様はさらに変化し、今や、一木一草すべて枯れ果てた中に、まったく無防備な動物だけが体を寄せあって空の一点を眺めている。ひろびろとした青空の、動物たちの視点の集まるところに、円盤型の飛行船を操縦し、悠々と立ち去っていくかの男。最後の場面は、動物の取り残された裸の
孤島をのぞいて画面は黒一色となる。「密林の王者」を気どったあの男も、その飛行船も、もうどこにも見当らない。
 この結末の描き方は、あの『クレージイ・カウボーイ』と同じである。果てしなく、いずこかへ「行く」だけのカウボーイは、その本の最終場面で、黒一色の中に消え去っていった。この『クレージイ・クレージイ』の場合も、主人公は「行方知れず」のまま終りを迎える。言うまでもなく、この一冊は、「密林の王者ターザン」のパロディではない。そうした「遊び」があるとしても、それ以上に、この奇妙な男は、ぼくたち人間を集約したものとして描かれている。それぞれ種は違うとしても、ここに登場する動物と人間は共に共同体である。それぞれの生活様式を持っている。それなのに、この男は(というより人間、あるいは人類は)は、おのれのカッコイイ生活が満たされないとなると、カバ、キリン、その他動物全体の生存を無視して、その生活の場となっている島全体を荒廃させてしまうのである。悠々と空飛ぶ機会におのれ一人をゆだねて、おのれだけが満足できる世界を求めて飛び去っていくのである。ものは漫画だから、それほど理屈っぽくいう必要はないと考えることもできる。しかしまた反対に、これは、漫画家した現代人の姿だから、これほどはっきりとその「愚かさ」「悲しさ」が描きだされたともいえるのだ。
 そういえば「世界の絵本展」の本棚には、ジャン・ジャック・ループの『PATATRAC』(Jean Jacques Loup.1975)などいう一冊もあって、これまた。ギレルモ・モルディロの本同様、現代人の愚行の限りを描きだしていた。地上、海底、宇宙空間、いたるところで機械を駆使する人間の悲喜劇の誇張的表現……。今、この一冊の内容に触れるつもりはないが、要するに、現代に「妖怪変化」や「オカルト映画」の登場する理由は、この二冊の本によく示されているということである。
 それにしても、ぼくは、『クレージイ・クレージイ』の内容紹介をするつもりだったのではない。実は、最近手にした一冊の絵本として、マーサー・メイアーの『怪獣また怪獣』(と仮りに訳しておく。"One Monster After Another"Mercer Mayer,Gorden Press 1974)のことに触れたかったのである。そのためにすこし「まわり道」をしたわけだが、それにはほんのわずかだが理由がある。というのは、すでに世評の高いモーリス・センダクの”Where the Wild thingsare"が、『いるいるおばけがすんでいる』という邦題で出版されていたことである。「おばけ」とは、この冒頭から触れてきたとおり「妖怪変化」の類いである。変幻自在、やはり言葉でいえば「変身」などさえやってのける存在である。しかし、センダクの描いた Wild thing は明らかに Monster の類であって、マックス少年にその「変化」ぶりを見せてさえいない。それを「おばけ」ということには、「妖怪」に対する軽視なのか、「怪物」に対する侮蔑なのか。いずれにしても、両者から文句の一つも起ろうというものだ。そこで Wild thing をその本来の種属に、もう戻してやってもよかろう。「怪獣」もまた、すでに確固たる存在権を入手している時代だから……と、マーサー・メイアーの先の本を手にしたとき、考えたのである。それが頭の片隅にあって、「まわり道」となったのだが……と書けば、うまくつながりすぎるし、できすぎてしまうが、要は『怪獣また怪獣』の方に話を移せばいいわけで、『クレージイ・クレージイ』のあの男のようにカッコウヲツケル必要はない。
 そこでこの一冊の絵本だが、ある日、サリイ・アンという少女が、郵便箱に1通の手紙を入れるところからはじまる。宛名はルーシイ・ジェイン。サリイは、手紙というものは何の面倒もなく相手方に届くものだと思いこんでいる。ところが、そうは問屋がおろさない。ここに登場するのが怪獣第一号。その名は Stamp-Collecting Trollusk, といってみれば「切手蒐集マニアの小人」である。この怪獣が手紙を失敬して、切手をはがそうとする。と、突然「手紙を食う怪鳥」こと Letter-Eating Bombanat が横取りする。東宝特撮怪獣映画ラドンのようなこの怪鳥は、泡立ち粘ばる海に逃がれる。そこに待ちかまえているのが、この鳥をむしゃむしゃ食うのが好みの Bambanat-Munching Grumley, 蛸と海坊主のミックスしたような怪獣である。ロジェ・カイヨワが『蛸』という本の中で、人間の空想力が蛸を怪物に仕立てあげたことを長々と述べていたが、この怪獣像もまた、そうした海洋冒険小説の後遺症かもしれない。こいつが怪鳥をとらまえる。そこへ大型漁船があらわれる。たちまちのうちに、この海の怪獣もネットの中に捕えられる。だが、それで「おしまい」ということにはならない。この漁船は氷山に激突し、船長以下全員救命ボートにのり移る。その時、船長は、あきびんの中に紙切れをつめ(SOSのメモか航海日誌のそれか不明だが)、事のついでに、怪獣の手を順ぐりに渡ってきたあのサリイの手紙をさしこむのである。またもや出現する「台風怪獣」、その名は Wild'n Windy Typoonigator, こいつが何も彼も吐きすてる、たまたま、ナイフとフォークを持って坐りこんでいた「紙食べ怪獣」Paper-Munching Yalapappus の頭の上に、それは落下する。もちろん、この怪獣はサリイの手紙を、食ってしまおうとする。しかし、ここで、またもや登場するのが、あの怪獣第一号の「切手マニア」である。いきなり手紙を奪いとると逃げだす。待っていたように再度出現する「手紙食べ怪鳥」。サリイの手紙は、話の「ふりだし」にもどった感がある。だが、そこはそれ "One Monster After Another" という原題通り、またまた新型(?)怪獣が登場する。その名は Bombanat-Collecting Grithix,「手紙食い鳥収集狂怪獣」。この怪獣は文字通り「怪鳥収集マニア」であって、手紙などに興味を持っていない。怪鳥の方はいただくが、手紙はポストにもどそうというなかなか思いやりのある怪獣である。それを見て、「切手マニア」の怪獣と「紙食い」怪獣は、ポストごと持ち去ろうとする。しかし、かれらの行動は一足遅い。本物の郵便集配人が、彼らの思惑を無視して、その手紙を持ち去ってしまうのである。いうまでもなく郵便屋は、手紙をルーシィ・ジェインに配達する。未練たっぷりにそれを見送る第一怪獣と第七怪獣。作者マーサー・メイアーは、この場面を、手紙の文面とそれを読むルーシイの姿として描く。ぼくたち読者は、ここにきて、はじめてサリイ・アンの書いた手紙を読み、どきっとする仕掛けになっているのだ。すなわち、その文面は、つぎのようになっている。
「親愛なるルーシイ・ジェイン。このあたりじゃどきどきするようなことが何一つないのよ。お願いだから遊びにきてくれない。」(Nothing exciting ever around here, Please come visit. という文面は、もっとうまく訳するべきかもしれない。これじゃ駄目という人は、どうかそれぞれの名訳に置きかえて読んでほしい)
 ぼくらは……というより、ぼくは、ここにきてハッとする。何一つエキサイトするようなものがないと考えるサリイ。事実、サリイも、その手紙を受けとるルーシイも、この絵本の大半を占める「怪獣」の暗躍(?)に気付いていない。気付いていないように描かれている。少女たちの日常は、きわめて平々凡々で「平和的」でさえある。しかし、マーサー・メイアーは、そうした「一見、平和な日常」の影に、それこそ跳梁跋扈する「怪獣世界」の存在することを示す。この「怪獣」と「日常」の対比は何を語りかけるのか。解釈はさまざまだろうが、ぼくはここに「笑い」を感じるのだ。先に、ハッとするといったが、それは、あれだけの怪獣大競合を、この文面が、まるですっとぼけた呪文のように一言でかき消してしまうからである。もちろん、深刻に、また「ペロー童話風」に考えれば、少女たちよ、人生はおそろしい……という「モラリテ」の提示と受けとれないでもない。しかし、そこまで「教訓的」にならなくても、これはこれで結構おもしろいのである。一通の手紙をめぐってしのぎを削りあう怪獣群を、「あら、あんたたちやってるのね。でも、それがどうしたの。」と笑いとばす発想。あるいは、さまざまな怪獣の、手紙争奪戦を充分楽しませてもらったあと、ふいと手をふってむこうへ追いやることのおもしろさといってもいい。とにかく、ぼくは、この最終場面にきて、そのどんでんがえし(といってもいいかな)のおもしろさに笑ってしまった一人である。
 蛇足だとは思うのだが、怪獣は、ぼくたちの生活圏では、常に怪獣それは自体として描かれてきたことがない。「恐怖」ないし「破壊力」のシンボルとして描きだされるか、(たとえば映画『ゴジラ』や『ラドン』の系譜のように)反対に、人間の正義を代行する「力」として描きだされるか(『怪獣大戦争』のように)、そのどちらかの「流れ」の中に振分けられてきた。このことは『戦後児童文学論』(理論社)の中で比較的詳細に触れたことだから繰りかえさないとしても、それ以後の単純再生産される怪獣が、きわめて没個性怪獣であったことは、テレビの子ども番組で見られるとおりである。自動車のモデル・チェンジのように表面(形態)だけは変化していても、そこにある実体は、常に人間の「正義」と考えるもの(これが実にあいまいなのだが)に対立する「悪」、つまり、「やっつけられるデクの坊」でしかなかった。その「怪獣ブーム」もまた、今日では「根性もの漫画」を経過して影をうすくし、『おれは直角』や『ベルサイユのばら』など、別種の世界に主座をゆずっている。いったい、怪獣が怪獣であることの表現は、「意味の世界」で無理な話なのか。マーサー・メイアーの絵本は、決して「ナンセンスの世界」とは呼べないけれど、すくなくともここには、「怪獣らしい実態」を持ったモンスターがいる。正義とも悪とも無縁に、紙を食うだとか、切手を集めるだとか、特定の鳥だけを集めるだとか、それこそ「おかしな習性」を持った存在として怪獣が描かれる。人間と関わることによって、人間の価値観の肩がわりをするあの本邦特撮映画的怪獣の姿はない。怪獣は、それ自体の領域を持ち、人間の日常性のすぐそばにひそんでいる。
 もちろん、『怪獣また怪獣』を眺めて、作者マーサー・メイアーその人の画風に顔をしかめる読者もいるだろう。しかし、もしこの怪獣大競合だけで作者に眉をしかめる人がいるなら、事のついでに "White the Horeses Galloped to London" (World's Work. 1973) の方も眺めてほしい。物語はメイベル・ウォット(Mabel Watt) の手によるものだが、その絵はマーサー・メイアーである。ここにはメイアーのもう一つの顔がある。この絵本作家が、グロテスクな怪獣を描くだけではなく、ユニークな人間模様を表現できる画家であることは、この一冊で納得できると思うからである。
「妖怪変化」から「怪獣」まで、ぼくはまさに「馬車がロンドンにむかって走っている間」の出来事のように駈け足で語っていた。もし、この感想文に「むすび」の言葉を付けるとするなら、どんなふうな言葉がふさわしいのだろうか。ギレルモ・モルディロの、あのターザンもどきの男のように、ぼくらが何かの空気を抜きとってしまったために、こうした物語や絵本が生まれる……。それも一つの言い方である。しかし、それではあまりにも当り前すぎて、空気のもれた感じがする。そこで、マーサー・メイアーの絵本にもどって、こういえばどうだろう。サリイ・アンはぼくらである。ぼくらはルーシイ・ジェインに手紙を書く。何一つおもしろいことなんかありはしないの。遊びにきてよ……。もちろん、ぼくらは想像力の貧困のせいで、何一つ「可視的世界」以外のものを見ることも考えつくこともできない……ということである。
(注・これを書いたあと、センダクの絵本が「おばけ」から「かいじゅう」に改訳されて出版されたことを新聞で知った。よかったね Wild things たち……)テキストファイル化大塚菜生