なぜ猫なのか…ということ

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    

 「絵本の中の猫たち」を考えようとするとき、ぼくの思いは、どうしても絵本の「外の」猫たちの方へいってしまう。それも猫一般ではなく、じぶんと同居してきた猫たち、とりわけハゲ猫であったホブの晩年に……である。晩年などいうと、悠々の老猫期があったように誤解されるのだが、かれは、猫齢的にみて若死だった。東隣の小学生の先生の家の庭に墜落し、そのまま息絶える直前に発見され、やっとこさ臨終はわが家で……という有様だった。「側禿院優生居士」(そくとくいんゆうせいこじ)、つまり「横ハゲのあるやさしい猫」という戒名と共に土にかえっていった。一年前の話である。
 ところで、猫が塀から墜落するということは尋常ではない。倒れたまま声もあげずに細い息をしていたというから、つい、どこかで一服盛られたのかな、など考えてしまう。もちろん、これは身びいきな憶測であって、その証拠に、初代の同居猫クロは、階段から転落して死んでいるし、このハゲ猫のあとにきたペケも、おなじケースで打ちどころが悪く意識不明のあと昇天している。だからハゲ猫の死は、変死ではなく事故死という可能性も大いにある。それなのに「尋常ではない」と考えたのは、事ほど左様に、ハゲ猫の後半生がきびしい状況と共にあったからである。「猫が猫であること」を許さない四囲の状況といえばよいか。かれがハゲ猫になったのも人間の暴力の結果だし、かれが無二の親友と離別するにいたったのも、人間の「多数決」の発想の結果である。
 かれにはミケという同性の友達がいた。ミケは、裏手の屋根を二つこえたところにあるM家の飼猫である。細っそりとしなやかな三毛猫で、クロという妹がいた。出歩く時は、この兄妹そろって屋根をこえる。妹の方は、内気なのかそれとも臆病なのか、人間のいるところへは近づいてこない。しかし、小柄な兄貴の方は反対であって、わが家の二階の物干台に跳びあがると、ぼくがいようがハゲ猫がいようが、ぽんと部屋の中にはいってくる。まるで旧知の間柄のように体をすり寄せてくる。そのあと、悠々とハゲ猫の食器の調査をやる。食器の中に、多少に関わらず飯が残っていると食いはじめる。わが家のハゲ猫はそれを黙許し、黙許することによってお互いの友情を深める。二匹はかくしておなじ釜の飯とカツオブシを食うことにより、いつも部屋の中を追いつ追われつして遊びまわるようになっていたのだ。
 そのミケが突然こなくなった。それと共に、いつも遠くの屋根から、そんな兄貴の行動を気づかわしげに見ていた妹のクロの姿が見えなくなった。そして数日後、うちのカミサンがM家のオクサンから聞いてきた話がこうである。裏通り一帯の町内会が臨時に開かれ、出席したM家のオクサンに、「多数決」で猫をすててくるように決議したというのである。理由は、ミケとクロが町内の屋根を歩きまわり、屋根瓦がゆるんだり割れたりすること。植木鉢が倒れたり、板塀のすき間を潜りぬけてそこいらを歩きまわること。どこでもうろつきまわる猫は物騒であって、魚などを置いておけないこと。その他、いろいろな苦情がでたらしいが、その詳細はわからない。わかったことは、M家のオクサンが被告席に坐った形となり、とても居たたまれなかったことと、「多数」の決議によって、とうとうミケとクロを自転車で遠くへすてにいくことになった事実である。M家のオクサンは、かねがねわが家のハゲ猫とミケが友誼を堅めていることを知っていたので、声を低めて、ハゲ猫も気をつけるようにと心配してくれた。住みづらい世の中になりましたわ……というその時の述懐は、猫にとっての話だったのか、人間にとっての話だったのか。
 ハゲ猫はかくして親友を失った。しかし、この段階では、実はまだわが同居猫ホブはハゲ猫ではない。左目の上から耳にかけて、猫なみに毛を生やしている。かれは物干台のむこうからミケがやってくるのを待ち受けながら、その姿の見えないことに多少のわびしさは感じていたのだろうが、好物のホーレン草をよく食べることも、また西隣の家のガレージのトタン屋根で排泄することも順調にやっていた。
 トタン屋根での排泄といえば、どうしてかれが、ここをトイレと決めたのかわからない。不思議といえば不思議である。排泄後、ふつう猫は砂や土をかく。しかし、かれはトタン屋根をひっかくのである。冬の深夜など、その音は四方にひびきわたる。時にはトイの中に大小の塊りを盛りあげる。昼間見ると隣家のガレージの屋根は点々と糞だらけである。そこで一ヵ月に一度、西隣のダンナが掃木などをかかえて屋根にあらわれる。もちろん、その音を聞いて、そそくさとわが家のカミサンも出動する。屋根の上で猫のウンチをめぐっての挨拶がはじまる。これを聞くぼくは、まさに身の縮む思いで、そのたびに猫にこぼしていたのである。土がないわけじゃあるまい。どうして猫の額ほどの庭にしてもそこでやらないのかと。猫いわく。じぶんの額でウンチができるか。まあそうはいわないものの、猫としても、ひろびろとしたトタン屋根の方が一握りの土よりもよかったのだろう。この西隣のダンナは君子で、ハゲ猫の生前、一度もガレージの上に「何々するべからず」という立札を立てなかった。そればかりではなく、じぶんは猫嫌いのくせに、その庭に猫の出没を黙許し、果てはハゲ猫の落し子であるルルを自宅内で飼うようになった。もっとも、これにはダンナより、そのオクサンと若オクサンの猫好きが大いに作用している。この西隣の家とわが家をのぞくと、裏通りの町内同様、わが町内もまた「猫よりも屋根」派の世界であった。
ミケとクロが追放されたあと、冬がやってきた。そして、同居者ハゲ猫の悲劇がはじまった。ある日、散歩にでたかれは、夜おそく物干台から部屋にはいってきた。まず、カミサンが小さな悲鳴を発し、それから、ぼくが思わず息をのんだ。かれは、『四谷怪談』にあらわれる「お岩さま」そっくりで、左目の上から左耳にかけてすさまじいコブをつくっていた。その中央に一ヵ所まるい傷穴が開き、そこから血が流れていた。冬、猫は異性とたわむれるものである。そのために無数の引っかき傷や爪跡を残す場合がある。しかし、かれの傷はそれとは違って、明らかに鋭くとがった何かで一撃をくらったものだった。コブの周辺に、何一つ引っかき傷は見あたらなかった。釘か、それに類した金属のついた棒切れで、思い切りなぐられた……と推定できるものだった。血は畳の上に点々とこぼれ落ちた。かれが、こうした深手を負いながら、やっとの思いで、ぼくたち同居者のところまでたどりついたのは明らかである。食事もとらず鳴きもせず、傷の手当をしようとするぼくらの手をふり切って、かれは部屋の片隅で丸くなってしまった。人間がこういう暴力を受けた場合、どうするだろうか。まず傷の痛みがどのようなものなのか、誰かに伝えようとするに違いない。そして、どこで、誰に、そんな目にあわされたのかを告げようとするだろう。しかし、猫はそうしたことを人間に伝えるための言葉を持たない。またぼくらは猫語を解読する能力を持っていない。ただひたすら、じぶんの額を釘の先でなぐられた場合を想定し、その痛みなりショックなりを推測するだけである。ぼくは、じぶんの苦痛すら伝えることのできない猫を前にして、そうした単純な事実をさえ想像できない人間のいることに、激しい怒りを感じた。たかが猫一匹のことで……ということはできる。また、ベトナムにおける人間の苦痛ならいざ知らず(この時点で、まだベトナムは戦火の唯中にあった)……という言い方もあるだろう。しかし、現に、ここに、ぼくらとおなじ生命を持ったものがいて、それが猫であるにせよ犬であるにせよ、ふいに抹殺の危機にさらされる衝撃を想像できないものが、どうして猫以外の生命体の苦難を想像しうるのか。ぼくにはわからない。
 かれは何もいわず、ただ体を丸めつづけることによって、その苦痛に耐えた。ぼくはその姿を見ながら、絶えず一つの空想場面に引きもどされた。そこには、右手に釘を打ちつけた棒切れをかくし持ち、左手でかれを呼びよせる人間の姿があった。かれは野良猫のように敏捷ではない。むしろ、おっとりとして人なつっこい。手を差しのべる人間は皆おなじである。それは、頭を撫でようとするか、抱きあげようとするか、のどちらかである。だから、近づいた途端の衝撃は、何が何だかわからない。激しい痛みで跳びあがるだけである。なぜ、じぶんがなぐられるのか、いや、なぐられたのか、それさえわからない。かれは本能的に逃げる。それだけである。しかし一撃を加えた人間の方は、ついに悪魔にダメージを与えたように、快哉を叫んだに違いない。これで、植木鉢も板塀も、屋根瓦も魚も、当分は大丈夫だと考えたのに違いない。たとえ、かれが張本人でないにしても、猫は猫である。野良猫であれ飼猫であれ、猫はおしなべて、人間生活の快的さをかき乱す不貞の輩である。とりわけ、その人間が、鉢植の木や花を大切にしている一人なら、かくして「自然」を守ることができ、また「自然」を尊重するじぶんの立場は貫けた……と考えたのではなかろうか。
 それにしても、多少の野生を保持している猫を追放することによって、保持される「自然」とは何だろうか。人間による人間のための人間だけの生活様式をそう呼ぶのか。また、草花や樹木に囲まれた人間だけがいて、自然に跳びはねる猫の除外された生活環境のことなのか。猫の存在さえ許容されない自然尊重というものを考えると、ぼくはそういう発想に不安と恐怖をさえ感じる。
「お岩さま」の状態から快復したかれは、それ以後この世を去るまで、文字通りハゲ猫で過した。ぼくはこの時期のかれについて何度か書いている。稲垣昌子の『マアおばさんはネコがすき』(理論社)や、ポール・ギャリコの『さすらいのジェニー』(学習研究社)を書評する形で、それとなく触れている。おかげで二、三の人からは、「稀代の猫好き」とまではいかなくても、相当な愛猫家と誤解されることにもなった。しかし、いわゆるぼくは愛猫家ではない。ほんとうの猫好き、あるいは「猫気違い」のように、猫のすべてに興味関心を持っていない。むしろ反対に、そうした「猫族」の中にあるペルシャ猫、シャム猫にまつわる「血統書」尊重の考え方に拒否反応を引きおこす一人である。「血筋」の発想ほど生命体を差別するものはないと思っている。家柄、落胤、純血、正統、その他……。こうした「血統書」ないしは「血統書付き」の発想こそ、もっとも悪い意味で人間的なものである。いいかえれば、もっとも「非人間的」なものの考え方だと思っている。何も猫の世界にまで、(犬の世界にもあることだが)人間社会の身分・格式・肩書尊重主義を持ちこまなくてもいいではないか。ペルシャ猫は、またシャム猫は、常にその血統を誇ることによって他の猫と関わっているのか。おそらくそうではなくて、人間が、かれらを他の猫から隔離することによって、その価値の上下を決定しているに違いない。これは一握りの白人支配によるアフリカの某国同様、「アパルトヘイト」の発想なのである。ぼくが雑種の猫を愛する所以は、右のように、猫を猫そのものとして受けいれないで、血統などというきわめて人間臭い価値規準で左右する発想が、「愛猫族」の一部に根強くあるからである。そうした発想が消滅しない限り、猫はまだ「自然」の状態から遠いだろう。それはまた、人間が解放されていない状態を具体的に示すものであるだろう。
 「絵本の中の猫たち」を考えようとして、ぼくはきわめて卑近な「絵本の外の猫」について書いてしまった。机の上には、エゴン・マチーセンの例の『あおい目のこねこ』(福音館)や、ワンダ・ガアグの"Millions of Cats"をはじめとして、"Have you Seen My Cat"(Eric Carle)、"The Very Hungry Cat"(Haakon Bjorklid)、"My Cat Likes to hide Boxes"(Eve Sutton & Lynley Dodd)、それに"A Magic Eye for IDA"(Kay Chorao)、"Katze und Maus in Gesellschaft"(Ruth Hurlimann)などが横積みになっている。もちろん、ハンス・フィッシャーの『ブレーメンのおんがくたい』(福音館)の猫も、トミー・アンゲラーの『キスなんてだいきらい』(文化出版局)の猫も出番を待っている。しかし、「絵本の中の猫たち」が愛されるほど、「絵本の外の猫たち」が尊重されていないことを考えると、 ここで喜々として「大ぐらい猫」や「いたずら子猫」のあとを追う気持にはなれないのだ。それに、たぶんぼくは、横ハゲ猫ホブのあとに同居するようになったメス猫のロロのことが気がかりなのだろう。
 彼女は老猫ナナの娘である。ナナがよぼよぼばあさんになってから生んだ子どもであるため、母乳では育てられなかった。そのせいかどうか不確かだが、彼女は現在、生後五ヵ月にもなるのに、子猫らしく跳びはねることができない。前足の、人間でいえば膝から下の部分に、上の骨がかぶさった形になり、走るかわりによたよたと歩いている。小児脱臼だという意見もあるし、受乳期の栄養不足による病気だという意見もある。カルシュウム不足だという注告をくれる人もあって、専ら塩気のない干魚の骨などをハサミで切って与えたりしている。わが家のバアチャンが重度の身体障害者なのだが、このロロもまた軽度の身体障害者である。毎日、トイレ用の砂をカミサンが洗っている。この砂は、植木屋で買ったのもあるし、ぼくは夜ふけの公園で盗んできたものもある。彼女は二階の椅子の下で以外、排泄ができないからである。そうしたこともあって、ぼくらの家は、常に猫のオシッコの匂いが漂っている。言うまでもなく、彼女のノミが猫と人間の体を間違えることもある。ハゲ猫ホブがそうだったように、人間同様仰向けになって布団の真中で眠る。ぼくはこういううすぎたない同居者を見るにつけても、この猫を受けいれないで「絵本の中の猫たち」だけを受けいれる人間がいるのではないか……ということが気になってならない。このびっこを引くようにして歩く猫が、そのまま町の中を歩きまわり、それをすべての人が好奇の目で見ることもなく、また、その存在をそのまま受けいれる世界が生れてくる時こそ、猫だけではなく、人間の側がもっと幸せな時代を迎えるのではないかと考えてしまう。ぼくたちの周辺には、そうした状況がない。まったくない……といえば極論になる。なぜなら、これは猫ではなく犬の話だが、この八月中暮らしていたバークレイの町では、それこそ大小の犬が自由に町中を歩きまわっていたからである。鎖のない犬たちは、人間同様、好き勝手に方向を定め、時には交差点で立ちどまっていた。どこにも飼主に対する高圧的な警告はなかった。猫は、犬のようにはならないというのだろうか。確かに、犬の賢明さと猫の身勝手さは対比される。しかし、犬に自由を与える町があるなら、猫にもまたその機会を提供する町があらわれてもいいのではないか。犬と人間の関係は一般的に見て、「主従関係」、タテの関係である。猫には、こうした忠誠心がまずない。それだけに、猫と人間の自由な共存は、より人間の、生命体そのものに対する畏敬の度合を計る一つのバローメーターになるのではないだろうか。
 長田弘はかつて、『猫には未来はない』(晶文社)というユニークな本を書いた。その書名を借りていえば、「絵本の中の猫たち」はいざ知らず、その外側にある猫たちは、残念なことながら、今や「現在さえもない」のである。(テキストファイル化天川佳代子