新美南吉に関する覚書

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    

 
 いったい児童文学のおもしろさとは何だろうか……ということを、わたしが考えたのは、今からほぼ十年前の話である。(『児童文学のおもしろさについて』児童文学誌『馬車』三号/昭30)その一文を書くきっかけとなったのは、当時、飯沢匡が、「近頃の(つまり、その頃の)児童文学者の書くものは、おもしろくない」といったことにあったわけで、なにも児童文学のおもしろくなさは、「近頃だけ(その当時だけ)に限ったことではない」と考えていたわたしは、それでは、なぜ、おもしろくないのか、その理由なり原因なりはどこにあるのか、その点を明らかにしてみたいと考えたわけである。
 わたしは、そのため、おもしろくないといわれている近代童話の中では、比較的(人によっては、すこぶる)おもしろいと評価されている新美南吉の作品を取りあげ、その「おもしろい南吉童話」の中にさえ、すでに今日の(というのは、戦後ほぼ十年にあたるその当時の)児童文学のおもしろくなさの原因が内在していること、壁の一端があることをわたしなりにしてみたわけである。わたしはそこで、主題の展開をいそぐあまり、新美南吉の作品について、多くのことを割愛してきたといえる。
 改めて、新美南吉論を……という考えは根強く残り、今やっと、その加筆補稿の機会を得たのが、この小論である。
 わたしは、ここで、日本児童文学の問題点を摘出するためではなく、新美南吉それ自身の問題点をも考えてみたいと思っている。
 いうまでもなく、新美南吉は、大正二年七月(一九一三年)愛知県の半田に生まれ、昭和十八年三月(一九四三年)、太平洋戦争の真最中に三十歳で病歿で児童文学者である。児童文学者という当世風ないい方をするよりも、その全集の編者である巽聖歌のいうように、童話作家と呼ぶ方がふさわしいのかもしれない。すなわち、巽聖歌は、南吉の作品集『牛をつないだ椿の木』(日本少国民文学新鋭叢書/大和書店/昭18・9)のあとがきで、「新美君の作品をとおして感じられることは、新美君はあくまでも童話を書いたということである。ちかごろの童話が(もちろん、これは戦中童話を指してのことばである)とかくの批評が多いときに、新美君は敢然として童話の本道をつらぬきとおしたということである。童話らしいものでも、童話の仮面をかぶっているのでもない、どこまでも童話そのものの究明に身を捨てたということでもある」書き、また、戦後の作品集も『新美南吉童話全集』(全三巻・大日本図書・昭35)と銘うったからである。もちろん、南吉自身、児童文学ということばを使っているが(日記/昭和四年三月二十九日/牧書店版新美南吉全集7)これは「童話」と同意語である。今日みる長篇少年少女小説、あるいは長篇児童文学シリーズのイメージは、南吉の中には無かったに違いない。とにかく、新美南吉は『張紅倫』(昭4)にはじまり『鳥山鳥右衛門』(昭17)『かぶと虫』(昭18)に終ったのである。もし、今日なお在りせば……ということは許されない。
 わたしは、そこで、未完にせよ完結にせよ、一つの輪をとじた新美南吉の作品世界の特徴を考えることにより、次に、それらの作品を年代順に検討し、最後に、新美南吉は、何を語ろうとしたか、また、それは児童文学の展開の中で、いかなる限界を持つものであったかということを、ここで考えてみたいのである。



 新美南吉は、不幸な時代の不幸な作家であった。
 不幸な……というのは、個人の自由な構想力の展開を封鎖された時代に、その代表作を提示したということであり、また、それが、いかなる評価を受けるかということも全く知らずに終ったということでもある。すなわち、少国民文芸選の一冊として出版された『花のき村と盗人たち』(帝国教育出版部/昭18・9)にしても、また、日本少国民文学新鋭叢書の一冊である『牛をつないだ椿の木』(同年同月/大和書店)にしても、すでに死後の出版であり、時代は、一童話作家の価値を考慮するには、あまりにも浮足たっていたといっていい。ガダルカナル島の撤退に続く日本の戦局は、学徒戦時動員体制の確立を急ぐと共に、決戦国政運営方針を決定し、ようやく濃くなってきた敗戦の様相を、いかにして補強するかに腐心していたわけである。もちろん、こうした状況の中にあって新美南吉の作品の価値を指摘する人はあったわけだが、(波多野完治や、右の作品集の編者である与田準一や巽聖歌など)新美南吉の評価がひろく行きわたったのは、なんといっても戦後のことである。
 菅忠道は、この時代をふりかえり、
「一九四○年以降になると、大勢は国策文学化してしまった。そういう情勢のなかでは、主題の問題にはふれないで、作品の形象性だけをとりだして、芸術性を論ずる風潮も強くなってきた。(中略)この段階では、童話・少年小説に、回想的な題材のものが、ある程度あらわれている。(中略)国策的主題に背をむけ、平穏な時代の回想を描くことで、消極的ながら芸術的抵抗がおこなわれていたといえよう」(日本児童文学大系4/三一書房/昭30)といい、新美南吉もまた、『おじいさんのランプ』を始めとする作品によって、消極的ながら、時代に抗したと評価したのである。
 しかし、これは、時代と相関した場合の評価であって、南吉の作品自体の評価ではない。南吉の作品については、たとえば、
 「人生の理想として、その善人の美しさのようなものを」描いたという考え方。(坪田譲治/新美南吉童話全集第二巻解説/大日本図書/昭35)
 「人間性を極度に抽出し、単純化して、純粋なすがたにおいてながめることにより、童話化を完成しようとつとめている」lとする考え方。(波多野完治/児童心理と児童文学/金子書房/もちろん波多野完治の考え方は、これにつきるものではない。大日本図書の全集解説では、生活童話とメルヘンに二分し、メルヘンは大人を主人公としていること、モラルがあること、その他。生活童話では、子供が主人公であること、モラルがあからさまに提示されていないこと等、細分化した評価をしている)
 「多く江戸時代の末期から明治の文明開化期に(素材を)えらんでいて、伝統的素朴な人間の誠実を仏教観的勧懲主義の上に立って、幾分シニカルに描いている」とする考え方。(船木枳郎/現代児童文学史/新潮社/昭27)
 あるいは、「単純な勧懲主義童話では感じられない様々な教訓を読者に与える」ものとして、南吉の作品の中に「モラル性・ストリー性・民話性」などの底流を指摘する考え方。(西田良子/「赤い鳥」と新美南吉/赤い鳥研究/小峰書店/昭40)
 さらに、「南吉の童話は、近代とのたたかいの記録であり、また近代との対決による、緊迫した状態の記録でもある」が、そこに、「作家主体のあいまいさ」や「想像力の貧しさ」もあるとする考え方。(佐々木守/「おじいさんのランプ」論/日本児童文学/昭34・12月号)
などがあり、それらを統括した考え方としては、(というより、一般的世評としては、といった方がいいのかもしれない)たとえば、次の巽聖歌のことばの中に集約されていたのではないかと思う。
 「わたしは新美南吉を、秀才だとも天才だとも思っていない。(著者・注/つまり、世評は、南吉を一種の天才的童話作家だとしているということである)ただ、家庭的に不幸なやつだったし、(このことは、わたしも本論の中で触れるつもりである)無名のまま三十歳にもならずに死んでしまったのが、不憫で不憫でしかたなかった。(中略)わたしは先に、南吉を秀才だとも、天才だとも思ってないと書いた。これは、永年いっしょに生活し、死後も見詰めてきたわたしの自戒であって、絶えず、『溺れてはいけない、直視しろ』という、自分に科した鞭である。そんな私ごころとは関わりなく、世間ではやはり、絶賛をも浴びていることになろう。(中略)とにかく南吉は、意外なところに波紋をばらまいている。作家や評論家、心理学者や教育者によっても、数かぎりなく問題にされている。わたしの思惑とは別に、新美南吉の作品が独立して歩いているのだ」(新美南吉とわたし/牧書店版全集はさみこみ「新美南吉研究/第五号」)
 つまり、戦中作家であった南吉が、戦後の今日において正当な評価を受け感動を与えているということだが、(そして、巽聖歌は、そのことを自省的に肯定しているわけだが)いったい、新美南吉の作品のどこに、右のような世評を生み出す要素があったのだろうか。もし、南吉の作品が、唯、善人の提示に終始したり、また、人間の本性を純粋な形で提示するにとどまったりしただけのものであるならば、さほどの感銘を戦後の読者に与えたり、また、高い評価を受けたりはしなかったに違いない。明らかに、そこには、南吉童話独自のおもしろさが無ければならなかったりするはずである。
 新美南吉は、日本が対米英宣戦布告の年、『童話における物語性の喪失』という一文を書き、(早大新聞/昭16・11・26/大日本図書版全集・第三巻載)彼なりに、「おもしろさ」について考えていたことを示している。
 「おとなの文学が物語性を失ったとき、文学家族の一員である児童文学も、見よう見まねで堕落したのである。今日の童話を読んでみると、そのほとんどが、物語性の存していないことに、人は気づくだろう。自分の子供や生徒に、お話を聞かせてやるために、あなた方が、ストリーを探そうとして、百篇の今日の童話を読まれても、あなた方はただ、失望の吐息をつかれるばかりであろう。(中略)そこで今日の童話は、物語性をとりもどすことに、努力を払わねばならない。(以下略)」
 物語の回復……それだけのことであるが、(そして、この物語性ということについて、それ以上のことは書かれていないわけであるが)新美南吉においては、すでに、この時、後年、高い評価を受けることになる代表作品の多くを書きあげていたわけであって(このエッセイ発表の年、すでに『百姓の足、坊さんの足』『おじいさんのランプ』『鳥山鳥右衛門』『牛をつないだ椿の木』など、南吉の傑作と評されるものは、ほとんど脱稿していた)それを読まれること、そこに、自分の主張する物語性は具体的に提示してあることを考えて、多くの説明を要しなかったのであろう。
 事実、それらの作品は、その構成において、また、独自の表現法によって、一つのおもしろさを提示していたからである。
 たとえば、『鳥山鳥右衛門』(戦中出版の作品集では『鳥右衛門諸国をめぐる』になっている)においては、弓の名手である鳥右衛門が、しもべの平次の目を射潰したことを契機に、修行に出て、あらゆる職業を経た後に、山寺の坊主に収まり、果ては発狂するにいたるという劇的な構成をとっている。同じく『百姓の足、坊さんの足』では、貧しい百姓の菊次が、現世で罰を受け、同じ罪を犯した雲華寺の和尚の方は、死後にいたって始めて罰を受けるというような奇抜な構成をとっているのである。
 筋書のおもしろさ、あるいは、着想の卓抜さという点を、右の物語性といい直すならば、確かに、南吉の童話の世界には「物語の復権」があり、それがそのまま、先に列記した世評に結びついていたとも考えられる。
『屁』(昭15・4)における是信さん、石太郎の提示の仕方。
 「是信さんは、正午の梵鐘をつきながら、鐘の音の数だけ、屁をぶっぱなすことができるという」し、石太郎は、その是信さんについて屁の修行をしたという冒頭。あるいは、小説「銭」(昭15・7・2)における出もどりの「てえちや」(輝)を、見守る好奇心にみちた蓮蔵君の目。新美南吉は、ごくありふれた日常生活の中に、不安を呼び起こし、それにからまれておびえる人間の姿を描き出したということも、そのおもしろさの一つであろう。
 たとえば、『久助君の話』(昭14・10・18)や『嘘』(昭16・6)における久助君の心理がそれである。冗談なのか真剣なのか、とっ組み合いのけんかの中で、相手の兵太郎について、ふいに見知らぬ人間のような気がしてくることや(久助君の話)また、嘘つきなのか、本気でいっているのか、久助君に不安を与える太郎左衛門のことなど(嘘)、作品個々にあたっての検討は、次第に行なうとしても、ここでは、新美南吉の作品が、その発想法において一つのおもしろさを持っていたことを指摘しておきたいのである。そして、それは、次に抜き書きするような独得の表現法をともなって、南吉童話のユーモアとペーソスを構成してきたわけである。
 その一例は、『和太郎さんと牛』(昭17)の中で、和太郎さんが牛と共に行方不明になり、村中総出で、そのありかを確かめようとする場面である。
 「もと吉野山参りの先達をなんべんもやった亀菊さんは、ひさしぶりに鳴らしてやろうというので、宝蔵倉からほら貝をとり出してきました。しかし一ふきふいてみて、おどろいたことに、もうそのほら貝は、しゅうしゅうという音をたてるばかりで、鳴りませんでした。『こりゃ、ひびがはいっただかや』と亀菊さんは言いましたが、息子の亀徳さんがふいたら、そのほら貝はよい音で鳴ったのです。そこで、亀菊さんは、じぶんが年をとったことがわかりました。そして年をとることは、あほらしいことである、と思ったのでありました」
 年をとったこと、また、年をとることは、あほらしいことである……という最後の繰りかえし。南吉童話の一種のとぼけた感じは、こうした繰りかえしの中にある。前のことばで肉体のおとろえを自覚したことを告げると共に、それがどういうことであるのか、ひょいと価値判断を加える おもしろみ、(それも、悲しいとか淋しいといわずに、あほらしいといういい方で)こうした繰りかえしが、ある場合には、ユーモアとなり、また逆に、哀愁感を強調するものになったといえる。それは、次の例でも明らかである。
 「小さい太郎の胸に、深い悲しみがわきあがりました。安雄さんはもう、小さい太郎のそばに帰ってはこないのです。もういっしょに遊ぶことはないのです。おなかがいたいなら、あしたになればなおるでしょう。三河にもらわれていったって、いつかまた帰ってくることもあるでしょう。しかし、おとなの世界にはいった人が、もう子どもの世界に帰ってくることはないのです。(中略)ある悲しみは、なくことができます。ないて消すことができます。しかし、ある悲しみは、なくことができません。ないたって、どうしたって、消すことはできないのです。」(かぶと虫/昭18)
 すなわち、「悲しみ」の繰りかえしが、幼い主人公の胸の傷を強調するのである。このほか、新美南吉 は、人間の感情の爆発しそうになる瞬間を、筆をおさえて、するりと切り抜け、そうすることによって、もっとも痛ましい感動をつくり出すことに成功したともいえる。たとえば、『ごんぎつね』(昭7/赤い鳥一月号載)や、『名なし指物語』(昭9)や、『鳥山鳥右衛門』(昭17)の次の箇所がそうである。
 兵十が、栗や松茸を持って来てくれる「ごんぎつね」とは気付かずに、火縄銃で射った後の場面にこうある。
 「おや、と兵十は、びっくりしてごんに目を落としました。『ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは』ごんは、ぐったり目をつぶったまま、うなづきました。兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。」
 南吉は、この時、十六歳である。(半田中学在学中)十六歳にしては、この作品のしめくくり方の巧みさは、なかなかのものである。兵十は、本来なら、ここで、射殺した「ごんぎつね」に気付いて、思わずかけ寄るか、その誤殺の嘆きの声を発するところである。それを、火縄銃からの 一筋の煙でおさえ切った表現の仕方は、その後、引きつがれて、南吉独自の表現法となったと考えられる。たとえば、この作品の二年後の、『名なし指物語』において、南吉は、主人公マタンの指が、リンゴの実と共にハサミで摘みとられるシーンを、次のように描き出している。
 「へいの中では、さっきから、はさみを持ったお金持ちが、おじょうさんにかごを持たせて、色よいリンゴをえらびながら、チョキンチョキンと切ってまわっていました。そして、マタンがリンゴに手をかけたとき、お金持ちはちょうど、その木の下にいたのでありました。『マタンちゃん、いけないってば』ジュリーが右手をひっぱりますと、マタンはひっぱられるままに、おりてきました。けれどどうしたことでしょう。左手をおさえて、その場にしゃがんでしまいました。顔色はまっさおでした。『あ、マタン』ジュリーは、ものにおびえたようにするどくさけぶと、前だれで顔をおおってしまいました」
 叫ぶのは、ジュリーであって、マタンではない。ここでは、マタンは指一本切りとられている。しかし、うめきもしない提示の仕方が採られているのである。これが、後年の『鳥山鳥右衛門』に行くと、しもべの平次の目を射つぶすシーンに受けつがれる。
 「『ええい、ここなやつが、下郎の分ざいで、主人をにらむとはなまいき千万。のちのちの見せしめに……』そういって、犬を射るつもりでふりしぼった矢を、平次の方にむけました。『その、にっくき目の玉を射てくれるわ』平次はあおむけにひっくりかえりました。矢は、右の目を射つぶしていました。庭のすみのたちばなの花に、はちが音をたててきているしずかな昼のことでした」
 それから、七年して、今度は、左の目を射つぶす場面になる。
 「『や、おぬしは片目だな。や、や、おぬしは平次だな』船頭は右の目がありませんでした。『平次だとて、かた目だとてゆるすことがなろうか。ただいまの悪口雑言、武士として聞きずてにならぬぞ、こうしてくれるわ』矢は一文字にとびました。どぼんと音がして、船の向こうの光っているところに水けむりがたちました。ゆれている小船の上には、人のすがたがありませんでした」
 これらは、絶叫しないことによって、もっとも残酷なシーンとなっている箇所である。南吉は、両眼を射つぶすという冷酷な着想を、蜂の羽音や光波や波紋というのどかな情景の中で提示するのである。ひややかに、登場人物をつき放した表現法である。
 もちろん、こうはいっても、これだけが、新美南吉のすべてであって、そこに南吉の独自性なり、南吉評価の重点がかかっていたというのではない。むしろ、世評は、南吉の、そうした鋭い筆づかいの世界とは反対の、のどかな山村の物語に集まっていたとさえ考えられる。ちょうど、宮沢賢治が、岩手県の不毛の土地の中に「イーハトーヴォ」という世界を構想したように、南吉も南吉独自の世界があり、それが、独自の感動を誘うものだったといってもいい。すなわち、それは、「しんたのむね」があって、鳥根山があって、宝蔵倉があって、寺がある一つの世界である。
 これが、単なる比喩的ないい方ではない証拠に、南吉が、その作品の中で繰りかえし提示した情景 を抜き出してみればいい、南吉は、『自転車物語』(昭15)において、『耳』(昭17)において、また、『鯛造さんの死』(昭17)において、「しんたのむね」という場所をごく自然に持ち出し、『自転車物語』では忠太郎がオシノを犯す場所とし、『耳』では、主人公の久助君が、自転車の荷台から手を放す場所とし、『鯛造さんの死』では、鯛造さんと孫の捨吉が、ひと休みする場所として提示したのである。いうまでもなく、『牛をつないだ椿の木』で、主人公の海蔵さんが井戸を掘ろうと考える場所も「しんたのむね」の下である。
 このことは、現実に、新美南吉の生活圏の中に、見慣れ、聞き慣れた「しんたのむね」があったことの反映として片付けられるものではなく、さらに進んで、その見慣れ、聞き慣れた村の特定の場所が、いつか、南吉の作品世界として定着し、それが一つのイメージとして常に南吉の中で明滅していたのだと、わたしは考える。『狐』(昭18)における「鳥根山」も同じで、たしかに南吉は、昭和十二年の九月から翌年の二月まで、鳥根山の畜禽研究所に月給二十円で住み込んでいた事実はあるとしても、それは、「しんたのむね」同様、南吉の作品世界に付属するイメージの中に、より生き生きと息づいていたのではなかろうか。また、そこには「寺がある」といったが、その寺は、時には雲華寺となり(百姓の足、坊さんの足)常念寺となり(川)また、浄光院となって(屁)宝蔵倉と同じく、常に南吉が作品を書き始めようとする時に浮かびあがってきたものであろう。ちなみに、宝蔵倉の出てくる作品をあげてみれば『和太郎さんと牛』『貧乏な少年の話』(昭17)『久助君の話』『鞠』(昭10)ということになる。その他、「池」を舞台背景とするものに『いぼ』(昭18)『草』(昭17)『うた時計』(昭16)などがある。さらに、登場人物にしぼっていえば、南吉は、南吉独自の少年像を持っていたとさえ考えられる。なぜなら、『久助君の話』(昭14)から『川』(昭15)へ、『嘘』(昭16)から『耳』(昭17)へ、かわることなく主人公の久助君なる人物を提示し、その性格は、『屁』の春吉くんへ、また『ごんごろ鐘」(昭17)のぼくや『いぼ』の松吉へ、そのまま受けつがれていく。このことは、南吉の小説『塀』(昭9)の新にも『しゃくやく』(昭10)の研にも、『小さな塊』(昭10)の伸にも通じることである。
 ともかく、南吉は、そうした一つの情景と、もっとも南吉的ともいうべき人物を提示し、それによって、一つの独自の世界を、わたしたちの前に展開したのである。(付け足していうならば、この南吉的人物像というのは、大人を主人公とした場合においても、同じで、『最後の胡弓引き』(昭14)における木之助は、『おじいさんのランプ』における巳之助と結び付く性格を持っており、『和太郎さんと牛』の和太郎さんも、『牛をつないだ椿の木』の海蔵さんや『除隊兵』(昭10)の草平とつながるということである。もちろん、木之助、巳之助の提示の仕方(対人生態度)に異質性を指摘できないわけではない。しかし、このことについては、後章でくわしく触れるつもりである。ここでは、南吉が、常に、農民……それも貧しい百姓を主人公に選んだこと、時は、それが『花のき村と盗人たち』における不景気な泥棒(もと職人)や、『鳥山鳥右衛門』における「しもべ」の姿をとったことを付け加えておけばいいだろう)
 ともかく、南吉評価における「素朴な」とか「善意の人」ということば、あるいは、「土着性」や「民族性」という一般の指摘は、右に記したような南吉的な世界から引き出されてくるものだと考えられる。引き出される……というよりも、それを説明しようとして投げかけられた概念であるといえるのである。
 しかし、南吉は、そうした独自の世界や独自の人物を提示することによって、それでは、いったい、何を語りかけようとしたのだろうか。初期の『張紅倫』や『正坊とクロ』から『かぶと虫』や『いぼ』にいたるほぼ十余年の創作活動の中で、何を追い求めていったのだろうか。
 わたしは、南吉的世界ということをいったが、それは、便宜的なグローバルないい方にすぎないのである。そこで、次に、南吉の作品を、初期のものと晩年のものとに大別し、それらを一つ一つ検討することにより、南吉が、どのように作品を展開していったか、そして、どのようなことを、その中で語りかけたのか……ということを考えてみたいのである。すなわち、そうすることによって、わたしは、わたしなりの南吉評価を提示し、また、南吉が、日本児童文学の中で占める意味をも明らかにしたいのである。

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