人間の狂態をみつめる目
トミー・ウンゲラー

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)



『サスペリア』などという「恐怖映画」が流行する時代に、久しぶりに「笑って笑って笑って」手をたたいたのは、映画『大陸横断超特急』の一場面だった。
 ジーン・ワイルダー扮する出版屋が、殺人犯と間違われる。そして、警察の緊急手配を受ける。それでも、改札口を通過して、特急列車にのりこまかければならない。ここに、ひとりの泥棒が登場する。黒人リチャード・プライアー扮する手錠をかけられた男である。ひょんなことから、ジーン・ワイルダーは、この泥棒と行動を共にするようになる。行動を共にするだけではなく、いかにすれば警官の目をかすめて改札口を通過できるのか、その方法を習うことになる。それには、トイレで顔に靴墨を塗り、黒人に変装することだといわれる。はじめは、ぎごちないジーン・ワイルダーも、トランジスター・ラジオの強烈なリズムに体をあわせているうちに、気分がのってくる。相棒の黒人があきれるほど、その役にのめりこむ。体をふり、奇声を発し、駅の構内を練り歩く……。ぼくは、ここで「笑って笑って笑って」手を叩いたのだが、それはどうしてだったのだろう。
 白人が黒人の真似をする。それだけではないだろう。白人の黒人観(たとえば、一面的理解の仕方や表層的認識)がよくでている。それでもないだろう。そうしたことも、多少は、この場面の「笑い」を誘いだす要素になっていたのだろうが、もうすこし別の理由がありそうである。たとえば、靴墨を顔に塗るだけで、じぶんがもうだれだかわからないだろうと思いこむ気持。それが、この男に、一時的にせよ、白人の出版屋であることを忘れさせる。また、逃亡中の手配された人物であることを忘れさせる。それだけではなく、ふいに開放された自由な人間であるかのように錯覚させ、そんなふうに振舞わせる。加えて、はじめてリズムにのる喜びを知った男として、ただもうむやみやたらに腰をふること。これらのことが、きわめていきいきと表現されているため、ぼくは、その姿の中に、映画の流れに関わりなく、(別の言葉でいえば、劇映画などという枠をこえて)人間の滑稽さというものを見てしまった(あるいは、見せられた)……それに笑ったとはいえないか。
 こういえば、たかが白人が黒人に変装するだけの話ではないか、何がそんなにおもしろいのか、そういわれそうである。たしかに言葉にすれば、それだけのことである。どこにどうといって傑出しているように思えないかもしれない。しかし、リチャード・プライアーが、メル・ブレックスといっしょに、例の西部大喜劇『ブレージング・サドル』の脚色者であったこと、また、ジーン・ワイルダーが、『ヤング・フランケンシュタイン』の主演者であったこと、そうした演技の素晴らしさを含めて、この場面は、忘れがたい強烈な「笑い」をつくりだしたのである。その傑出した「笑い」は、特急列車がシカゴ駅に突っこむなどという「パニック・シーン」よりも、数等「人間」の方がおもしろいということを伝えている。それと同時に、この場面は、本来、ドラマの流れの中の一挿話なのに、ドラマそれ自体をはなれて、ひとつの卓抜な表現となりうるということ、つまり、「部分」が「全体」をしのぐ場合のありうることを示してくれたのである。殺人事件あり、列車上の大格闘あり、暴走激突あり……というものの、それらは、この一場面よりはるかにくだらなく、この映画はこの場面故に傑出している……。もし、これが、映画『大陸横断超特急』論なら、ぼくはそう記しただろう。たぶん、暴論のそしりがあっても、それで「おしまい」ということにしただろう。
 しかし、ぼくは、ここで、トミー・ウンゲラー論を書こうとしているのである。そのつもりで机にむかっている。それがどうして、『大陸横断超特急』なのか。「笑って笑って笑って」の一場面なのか。ぼくは、別に、ウンゲラー論を、あらぬ方向へ暴走させようと考えているのではない。それどころか、ウンゲラーの絵本のまん中に突っこみたいと考えている。そのために、十冊ばかりの絵本を何度かひっくりかえした。眺めているうちに、ひどく気になることがあるような気がしてきた。それが、ジーン・ワイルダーとリチャード・プライアーのその場面を思いださせ、ウンゲラーの絵本を考える場合のきわめて適切な比喩ではないかと思うようになってきた。そこで「まわり道」をした。説明すれば、これが、『大陸横断超特急』にとびのった理由である。しかし、これではやはり、ひとりよがりな納得の仕方といわれるだろう。そこで、比喩は比喩としてひとまず横に置き、ぼくが何を「気にした」のか、そのことから記す必要がある。ぼくが、ウンゲラーの絵本を眺めているうちに、ふと考えたこと……、それを要約すると、つぎのようになる。



 レオ・レオニといえば、反射的に、『あおくんときいろちゃん』(Little Blue And Little Yellow)か『フレデリック』(Frederick)を、人は思い浮かべる。また、モーリス・センダクといえば『かいじゅうたちのいるところ』(Where the WildThings are)か『夜の台所』(In the Night Kitchen)を思い浮かべる。では、トミー・ウンゲラーを考える場合、人はどんな絵本を思い浮かべるのか。
 ぼくは、『へびのクリクター』(Crictor 1958)から、現代版「マッチ売りの少女」ともいえる『アリュメット』(Allumette1974)まで、十冊ばかり絵本をひっくりかえしてみて、じつは、右のようなことを考えてしまったのだ。人は……といったが、世間さま一般の反応はこの場合、棚にあげておこう。ぼく自身、レオニやセンダクをむこうに置いて、ウンゲラーの作品をあげるとすれば、何をあげるのか。
 こういえば、たちどころにいくつかの作品をあげるファンがあるだろう。『月からきた男』(Moon Man 1967)。『山高帽』(Hat 1970)。『キスなんて大きらい』(No Kiss for Mothers 1973)。あるいは、『ラシーヌさんのふしぎな生きもの』(The Beast of Monsieur Racine 1971)。トミー・ウンゲラーは、レオニやセンダクにくらべて遜色ある絵本作家ではない。その証拠に、各国で競って彼の作品を翻訳紹介している。その名声評価のほどは定着している。第一、あれだけ多くの絵本の仕事をしているのに、何を今さらそんなにあげつらうのか。そういわれそうである。それはそのとおりであって、ぼくも異論はない。そもそも、ぼくは、ウンゲラーをレオニやセンダクのそれと比較しているわけではないからである。
 ぼくのいっているのは、絵本という独自の表現形態において、ウンゲラーはどのような可能性を開いたか……ということである。たとえば、レオニは、『あおくんときいろちゃん』で、絵本でしか表現できない新しい世界を創りだした。センダクもまた、『かいじゅうたちのいるところ』で、現実から空想へ、空想から現実へ……という形で、子どもの未分化な内面世界に独自の形を与えた。しかし、ウンゲラーはどうか。ウンゲラーは、それらと等質の絵本の独自性を創りだしたのか……。ぼくは、そう自問しているのである。
 繰り返すようだが、ぼくは、個々の作家の才能の問題をいっているのではない。ありあまる才気という点では、ウンゲラーは右の二人にまさるとも劣らない作家である。だから、多彩かどうか、鬼才かどうか……ということは、この場合問題ではない。そうした才能が、絵本というひとつの世界で、どれほど新しいものを付け加えたか……ということである。熱烈なファンには申し訳ないが、ぼくは、その点を「気にしている」のだ。
 もちろん、これに対して、『人喰い鬼と少女』(Zeralda's Ogre1967)を突きつける人があるかもしれない。ここに独自の表現がある。この絵のすばらしさがわからないのか……と、腹立ちまぎれに表紙絵をこぶしで叩くかもしれない。描写力。構成。ユニークな鬼の発想。賛辞は尽きないだろう。
 ぼくは、その指摘に反対しない。反対しないどころか、ぼくもまた、いわれる限りでは、その表紙絵を激賞するだろう。いや、こうした激賞は、何もこの一冊には限らないのだ。『月からきた男』でも『クリクター』でもいい。一頁一頁、各場面でのウンゲラーの才能という限りでは、ぼくは文句なく賛辞に共鳴する。しかし、この賛辞への共鳴は、そのままウンゲラーの絵本へのそれには結びつかないのだ。
 ここまでいえば、ぼくがはじめに、映画『大陸横断超特急』を持ちだした理由が、わかってもらえるのではないだろうか。推察のとおり、ぼくは、ウンゲラーのきらめく才能を一枚絵(あるいは一画面のもの)として拍手している。そうした才筆では卓抜な作家といえるが、そらの流れによって形成される絵本としては、意外に平凡なドラマしか作り出していない……そういっている。
 平凡なドラマ。それは常識的な物語の発想、ウンゲラーでなくても考えつくだろう絵本の発想を指している。たとえば、『クリクター』から『アリュメット』まで……と先にいったから、この二冊を取りあげてみてもいい。『クリクター』は、おばあさんと同居するやさしい蛇の物語だ。この絵本をくっていくと、一場面一場面の絵の前で立ちどまってしまう。「蛇の擬態百選」とでもいえばよいか、ちょうど展覧会場に足を踏み入れたように、そのおもしろさに引きつけられる。かりに「事件」というものを抜きだせば、その後半のどろぼうをつかまえるところだろう。しかし、この「事件の流れ」も、わずか三場面で終わってしまう。この絵本の面白さは、一貫するドラマの中にあるのではなく、繰り返しているように一場面一場面の構成、描写、表現内容にあることがわかる。それにもかかわらず、これを物語絵本として考えなおすならば、「善意」と「正義」の物語……ということになるのだろう。これは、『エミール』『オルランド』に共通する発想である。そして『アリュメット』にも通じることである。ここでも、ぼくらは、蛇や蛸やはげ鷹で見た、「善意」と「正義」の枠組みに出会うのである。
 『アリュメット』は、しかし、『クリクター』よりも「劇的」である。一貫した「物語の流れ」がある。だが、この「物語の流れ」の何と紋切り型であることか。少女が、天からのおくりものを不幸な人びとに分かち与えることにより、世界中にボランティア活動がひろがるという「筋書」である。このオプティズムは何なんだろう。 「善意」と「正義」。ぼくは、それを批難しているのではない。、「善意」と「正義」の絵本があってもすこしもおかしくはない。それはそれで、ひとつの価値のある試みだ。それを語る絵本にケチをつけるつもりはない。しかし、事、ウンゲラーの場合は、『山高帽』のような皮肉な結末の絵本をつくると同時に、『アダムとイブ』(Adam and Eve 1974)のように、辛辣な人間狂態の表現をやってのけていたからである。もちろん、これは「大人の漫画」だから……ということもある。子どもはここに描かれているほど「男と女の葛藤」を経験していない……ということもできる。だから、子どもの絵本は「善意」と「正義」をその基盤にすえるということもありうる。しかしここにいるウンゲラー、さめた目の諷刺か、またThe Poster Art of Tomi Ungerer(edited by Jack Nennert 1971)の中のするどくて同時に軽快な人生観察者、状況批判者としてのウンゲラー、そのかれは、どこへいってしまうのだろう。
 ぼくは、絵本の中に、そうしたサーカスティックなウンゲラーが「不在」だ……といっているのではない。それは、どの絵本の中にも「散見」できる。しかし、絵本自体が、そうした発想で貫かれていないことをいっているのだ。
 『山高帽』を忘れているわけではない。ここには、『アリュメット』に見られた「ハッピー・エンド」はない。むしろ、反対に、人間の不幸を予測させるような結末がある。せっかく手に入れた幸運の帽子を、風に吹きとばされてそのままにする男。ここに人間の愚かさが暗示されている。その意味ではウンゲラー的である。しかしウンゲラーの発想は、「運命」に左右される人間、また、そうした偶然性のもたらす人間の幸不幸を描くことではなかったように思うのだ。かれは、常に、人間そのものが引き起こす悲劇、人間に本来内在する愚かさを、風刺的に描こうとしてきたのではないか。空とぶふしぎな帽子は、その点で、きわめて偶発的である。外側から人間を左右する。
 かりに、この帽子が、「奇跡」や「運命」ではなく、人間の内在的価値とでも呼ぶべきもの、その象徴だとしても、そして、それらに気づかない人間の愚かさを描いているのだとしても、(そういうことは、大いにありうる)それでは、この一冊をもって、これこそウンゲラーの開いた絵本の新しい世界だと、ぼくらは高言することができるのか。
 たぶん、ぼくは、ウンゲラーにひどく期待を寄せすぎているのだろう。それに、ウンゲラーの発想として、ぼくはじぶん勝手な思いこみをしているのかもしれない。そこで、この思いこみが、誤解であれ六階であれ、もうすこし具体的に記してみる必要がある。
 テキストファイル化妹尾良子


 たとえば、ぼくの好きな絵本に、『ラシーヌさんのふしぎな生きもの』がある(前出 The Beast of Monsieur Racine)。ぼくが、この絵本を好きだというのは、先に触れたように、ウンゲラーの卓抜な発想が「散見」できるからである。もちろん、物語の方も、その結末のつけ方をのぞけばそう悪くない。
 ある日、ラシーヌさんが奇妙な動物を発見する。鼻と耳のいやに長い、目のない小型の象のような生きものである。ラシーヌさんは、この動物を家に引きいれる。まるで、じぶんの子どもか友達のように大切にする。一方、ラシーヌさんは、この奇妙な動物がいかなる生物か、研究を進める。フランス科学アカデミーは、この生きものに深い関心を寄せる。そこで、ラシーヌさんは、この動物を公開し、観察研究結果などを発表することにする。ところが、公開当日、この奇妙な動物が「ぬいぐるみ」であることがわかる。壇上の動物の中から、二人の子どもがでてくるからだ。会場は騒然となる。しかし、子どもは両親のもとへ帰り、それ以後、ラシーヌさんと仲よしになる……。
 「結末のつけ方をのぞけば」と、ぼくはこの作品を「条件法」で評価したが、その理由は簡単だ。ぼくは、この奇妙な動物に、センダクにおける Wild Thing あるいは、レオニにおけるねずみ、さらには、アーノルド・ローベルの蛙たち、そうした独自の存在を期待したということである。しかし、結果は、「ぬいぐるみ」であり、子どものいたずらだった……。こうなると、よくある話だということになる。これが、「結末」をのぞけば……という条件付き評価につながる。
 一方、ぼくは、この絵本の好きな理由として、「卓抜な発想」の「散見」という言葉を使った。それはどういうことか。
 「散見」といえば、この絵本のところどころに、才能の部分的ひらめきがあるように思えるかもしれない。言葉の意味としてはそうなるだろう。しかし、ウンゲラーの場合、才能のひらめきが僅少であるはずはない。ほんとうは、どの頁にもユニークな表現がある。これは、他の絵本の場合もおなじである。それにもかかわらず、あえて「散見」などいうのは、ウンゲラーならではの表現として、特定の場面を考えているからである。
 ステッキを肩に、ラシーヌさんが、ソフトクリームをなめる奇妙な動物を眺めている表紙絵。また、遊園地で、この動物と遊ぶラシーヌさん。さらに、動物を研究するため顕微鏡をのぞいているラシーヌさん。別に、ラシーヌさんに限らないが、どの場面も、その限りのおもしろさという点では、みんないい。しかし、とりわけ、ウンゲラーのすばらしさを感じるのは、人間群像の活写場面である。たとえば、この奇妙な動物を檻にいれて駅まで運ぶ場面。つぎにくる駅頭風景。あるいは、アカデミーでの混乱場面。それに続く街頭の騒乱表現。このあたりにくると、これがウンゲラーだな……という独自の表現を感じる。レオニやセンダクに、それぞれその独自性を示す一冊の絵本をあげたが、それに匹敵する独自性として、ウンゲラーのこうした一場面を持ちだしたくなってくる。
 その独自性とは何なのか。一言でいえば、こういうことである。ウンゲラーの皮肉な目、諷刺的表現、それにこめられた人間観、遊び、ナンセンスへの志向性、冷静な観察と激しい表現衝動、そうしたものがメルティング・ポットのように、みごとに人間群像の活写の中に溶けこんでいることである。
 具体的にいおう。先にあげたフランス科学アカデミーでの混乱場面を眺めてみるといい。ここは、奇妙な動物が子どものいたずらとわかって、驚き怒り立つ場面である。しかし、この絵本を知っているものなら、だれだって、その驚きぶりが、常識的な意味でのそれとは違っていることに気付くはずである。「ぬいぐるみ」に憤慨し、そのいたずらに対してストレートに反応してるのは、ほんのわずかである。正確にいえば、壇上でまっ赤になって腕をふりあげている学者らしい男、それに失神している眼鏡をかけた人物くらいである。ラシーヌさんは、騒乱をよそに、すました表情でレポートなどを読みあげている。この場面には、そのほか五十人ばかりの人間が描かれているのだが、その反応は、奇妙な動物の正体などそっちのけの狂騒ぶりである。
 突如、隣の婦人のかつらをむしりとる紳士。鼻の頭に、なぜか万年筆を突き刺されて卒倒せんとする淑女。隣の男の鼻を、力いっぱいつまみあげる男。懐中時計を脳天に打ちこまれて気絶寸前の男。この騒乱には、警官や消防夫も一役買っている。警官のひとりは、騒乱鎮定どころか、みずからその騒ぎの拡大に加担している。腕ずくで手前にいた女性をかかえこもうとしている。消防夫は、壇上背後のカーテンの火を消すかわりに、消火用ホースを聴衆のひとりにむかって突きだしている。また、パチンコで、ラシーヌさんを狙い撃ちしようとする男がいるかと思えば、頭のてっぺんの一部を、コルク栓のように空中にとびあがらせている男もいる。
 この騒乱状態は、つぎの街頭場面にも続く。しかし、そのひとつひとつの狂態ぶりを紹介する必要はないだろう。このスラプスティック・コメディ風な画面にあるのは、奇妙な生きものとしての人間の表現である。きっかけさえ与えられれば、その理由の如何など即座に投げすてて、狂気を発揮するという人間の提示である。ふいに予測不能な不合理な存在に転化する人間。理性の仮面をかなぐりすてて感情の暴発に身を投じる人間。ウンゲラーは、そうした人間と集団を描きだす。ユーモアあふれるタッチで、その狂気のさまを描く。こうもり傘を頭に突き刺されながら、なおかつ、その事故の模様を警官に説明し続ける男。そんな「ありえない」存在が、ウンゲラーの人間群像の中には、いたるところで顔をだす。
 ブラック・ユーモア。たしかに、それはそうだろう。そういい切れば、それですむのかもしれない。しかし、ウンゲラーはなぜ「怒り」ではなく「笑い」の表現に熱中するのか。


 これもすでに触れた『トミー・ウンゲラーのポスター芸術』(前出 The Poster Art of Tomi Ungerer)、に話をとばすと、ここにも「笑い」がある。とりわけ、その冒頭部分に集められた「反戦ポスター」は、見るものの安易な平和感覚を凍りつかせるようなものがある。シルエットで、ヒットラーのような男が、画面手前に立っている。左腕にまきつけた腕章はナチスのそれである。この男は、右手をかざし、ナチ式の敬礼をしている。敬礼の対象は、画面右に、遠近法で小さく描かれた国旗掲揚ポールである。そこには、アメリカの兵士たちがいる。そして、星条旗をかかげている。かつて、自由の敵としてアメリカ軍の攻撃にさらされたナチズムの男。そのファシストが、アメリカの国旗に敬礼を送るさまは、不気味である。同族に対する敬意と嘲笑がある。アメリカよ、おまえもまた、おれの歩んだ道を進みつつある。侵略と殺戮と、自由圧殺と力の誇示。おまえたちの今のその道を、一歩先んじたのは、このおれだ。どうだ、アメリカよ……。言葉はないが、そうした声が聞こえる。これほど、ぞっとする「笑い」はないだろう。そうした声にも気づかずに、黙々と戦い、星条旗に敬意をおくるアメリカ。いうまでもなく、これはベトナム戦争の最中に生まれた反戦ポスターだが、ウンゲラーは、「怒り」の腕をふりあげるかわりに、過去の亡霊の腕をふりあげさせ、「怒り」にまさるするどい批判を突きつけている。
 この諷刺性。「怒り」の直截性に対して、「笑い」の曲射性を発揮するウンゲラー。こうした人間狂気への批判は、絵本の世界に見られる「善意」や「正義」の発想より、ずっと根深いところから照射されているように思える。それは、ウンゲラーにおける過去の体験と関わっているのだろうか。ぼくは、むりやりそれとこれを結びつけるつもりはない。しかし、かれの少年期は、それを無視して通りすぎるには、あまりにも重いものがありすぎるように思うのだ。
 「わたしは、アルザス地方のストラスブールで生まれた。父は、三歳の時なくなった。しかし、兄や姉たちを通して、父は、わたしの仕事に大きい影響を与えた。」
 こんなふうに記すウンゲラー。これは Third Book of Junior Authors (edited by Doris De Montreville and Donna Hill, 1972)に収められた「略伝」(Autobiographical Sketch of Jean Thomas Ungerer)だが、この記述には、ウンゲラーの「戦争体験」とでもいうべきものが含まれている。父の死後、おなじフランス領コゥルマーに移転する。祖母の家である。
 「わたしは、そこで大きくなった。そして、いろいろな意味で、戦争とそれの及ぼす結果を目撃したのもそこだった。わたしは、第二次世界大戦のあいだ、ドイツ人になった」
(ジャック・レナート宛の略伝の中で、ウンゲラーは「一晩のうちに」ドイツ人にされた……と記している。ドイツのアルザス侵攻、占領、支配を指している。この略伝は、前出『ポスター芸術』の序論に収録されている)
 「わたしは、ひとりの子どもとして、ナチの教育を受ける破目になった。通りの向う側には囚人キャンプがあり、そこのロシア人捕虜は死ぬにまかされていた。ゲシュタポ、恐怖、毎日の宣伝が、四年にわたる生活様式だった。戦線がすぐそばまでやってきた。1944年から45年にまたがる冬のあいだ中、つまり、三ヶ月間、わたしたちはコゥルマーの谷間にいた。戦闘の中で暮らしているのとおなじだった。そのあいだずっと、わたしの家族は、二人の姉とひとりの兄を加えて、できる限り寄りそい温めあい、動かないようにしていた」
 この「戦争体験」が、そのまま「反戦ポスター」につながるとはいえないだろう。人間の生きざまは、それほど短絡な因果関係の上に成立しない。しかし、簡潔にのべられたこの少年期の人生認識が、のちの人間狂態凝視の核になっていることは否定できないだろう。先のジャック・レナート宛の略伝の中で、ウンゲラー自身、この時期のことを、人生最初のシニシズムのレッスンだった……と記しているからである。狂気の時代。その中のマス・ヒステリア。そうしたものを目撃体験したものにとって、その傷痕を消し去ることは容易ではないからである。殺戮と立ちはだかる権力。それに怯える人間の狂態と愚行。この「暗黒劇」の中に、ウンゲラーはのちに、人間の矮小性を感得するのだろう。
 矮小なる故に、そりくりかえる人間。矮小なる故に、巨大な武器に依存する人間。矮小なる故に、じぶんの理不尽ぶりを黙許する人間。これら人間の矮小性を、人はどうして超克するのか。「怒り」によってか。「怒り」はそれを糾弾するだろう。しかし、「怒り」もまた、時として、人間の矮小性を拡大することがある。きわめて些細な事柄に怒りをぶちまける人間。おのれの考えに反対するからといって、怒りで体をふるわせる人間。この場合、「怒り」は、おのれの矮小性をおおいかくす垂れ幕となる。しかし、激怒する人間は気づかないだろうが、感情の距離を取って当人を眺める時、その姿は滑稽である。当人が怒れば怒るほど滑稽感を増幅する場合がある。その滑稽感を指摘すること。拡大し、あざやかに形として示して見せること。それこそ、矮小性を超克しえないとしても、矮小性を知覚させるひとつの方法である。滑稽感の形象化、それが「笑い」による人間表現である。ウンゲラーは、そこに視点をあてる。人間のあまりにも滑稽であることを追求することにより、もろもろの人間の「肩書」と「衣装」を剥ぎ取る。


 『アダムとイブ』には、無数の裸の男女が登場する。反対に、無数の「飾り」(制服もそのひとつだ)をまとった人間も登場する。女性の残酷さ、男性の愚劣さ、それを描いたものの中には、ウンゲラーの自嘲や離婚体験も投射しているのかもしれない。いずれにしても、ウンゲラーは、じぶんを含めて、人間の滑稽さをむきだしにしているのだ。これは、一種の「感情の遠近法」(とでも呼ぶべきもの)を身につけた人間にして、はじめて可能である。「じぶんを笑う」ことのできない人間は、とうてい他人の滑稽さを指摘できない。ウンゲラーは、その意味で、じぶんに対してもサーカスティックである。それが、諷刺家ウンゲラーを形成する。人間群像の狂態表現を可能にする。
 もちろん、こうした発想は(狂態表現、滑稽化指摘による人間表現)、そこにいたるまでの長い「学習」の期間があっての結果である。「絶望」や「怒り」から、「笑い」までの道程は長い。
「わたしは、ハイ・スクールを卒業しなかった。じぶんから、おさらばした。わたしは、八年から九年にわたって、冒険を求め、冒険を見つけるために、ずいぶんと旅をした。ラプランドからギリシャまで、パスポートなしに国境をこえ、仕事にありつき、じぶんが何をしたいのか、それを探り続けた。アフリカで、わたしはラクダ隊にはいったのだが、その折の重い病気が、わたしの放浪生活に終止符を打った」。
 これは、ドイツ敗戦後のことである。再びフランス人にもどったウンゲラーは、放浪のはて、フランス陸軍にはいる。それが The Camel Corps だろう。発病後、陸軍病院で長い療養生活を送ったという。その期間に、「読み」「考える」長い時間を持った。
 「1956年、わたしはニューヨークにきた。ひどい病気の上に、ひどい貧乏だった。わたしは、『ハーパーズ』のアーシュラ・ノードストームに会った。かれは、わたしのまだ描いてもいない一冊の本のため、五百ドル前払いしてくれた。わたしは、描きに描き続けた。それが、Mellops Go Flying だった。それは、the Children's Spring Book Festival で、Honor Book に選ばれた……」
 これ以後、すべては順調にいった……と、ウンゲラーは記している。「わたしは仕事が好きだし、じぶんをラッキーな男と思っている」と結んでいる。この「自伝的スケッチ」を書いた時、ウンゲラーは、ニューヨークに住んでいた。今、カナダに移り住んでいるという。それはいい。問題は、右の略伝に記された「放浪期間」である。それが「笑い」の発想のための、ウンゲラーの「学習」期間だった。そして、この「旅の時間」が、「戦争体験」によって形成された核に、それなりの果肉をつけていった。そうではなかろうか……といいたいだけである。また、ここまで考えてくると、「何というオプティミズム」とか、「紋切型の善意と正義」とか、ぼくが「気にした」絵本の発想が、案外、人間の狂気を見すぎたかれの、狂気拒否声明かもしれないなと思えてくるのだ。狂気を凝視し、表現し続けたものが、正気を遠望し、表現しようとしているのかもしれない。たとえ、そうだとしても、今のところ、ぼくはウンゲラーの絵本の独自性は、まだ、絵本全体よりも、それを構成する一枚一枚の絵の方にあると考えている。事実、そうしたウンゲラーの独壇場的絵本として『スナップ・パパとありえない話』(I am Papa Snap and These are My Favourite No Such Stories.1971)がある。
 これは、ひとつの流れを持った物語絵本ではない。一頁ないし見開き頁で終わるナンセンシカルな絵本である。浴槽の船にのり、パチンコで軍艦を沈める話や、腹ぺこソファに食べられてしまうスナップとうさんの話。こういう「でたらめ話」の中にあって、じつにしみじみとした熊の話もでてくる。友達もないし、敵もいない。だれも名前さえ知らない熊のおじさんの話。この熊は、ひっそりと平和な暮しを営んでいる。ただ、それだけの話である。絵は、岬の突端に腰をおろし、海を眺める熊を描いている。この「孤独」は何だろう。ここにもまた、絵本の世界とは別の意味で、ウンゲラーのひそかなる思いがこめられているのだろうか。
 ぼくは、人間狂態表現の中から、レオニやセンダクに匹敵するすごい絵本の生まれることを待ち望んでいる。しかし、それは、案外ウンゲラーの場合、この熊おじさんのような主人公の登場する新しい絵本かもしれないのだ。トミー・ウンゲラーよ、その日まで……。Au revoir!

テキストファイル化塩野裕子