横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

戦後児童文学論

去る五月、日本児童文学者協会の創立二十周年を記念する、児童文学討論会が明治大学で開かれた。討論会のテーマは「戦後児童文学の問題点」で、戦後二十年の時を経た児童文学の文学上、思想上の問題点を、「伝統と創造――未明伝統批判などをめぐって――」「思想と方法――戦後児童文学を中心に――」「これからの児童文学」という三つの視点から討論した。
討論の成果は、テーマが内包する問題の大きさに比べて、時間があまりにもすくなかったために、ほとんど問題点を深めることができず、予期したほどのことはなかったが、戦後児童文学の経過をあきらかにしようとする一つの契機をもたらした意義はあった。
いま児童文学の世界では、新しい転換のきざしがみえはじめているが、これからの児童文学の展望を切り開くためにも、このあたりで戦後児童文学の実体をはっきりとさせておく必要がある。
戦後児童文学のあゆみについては、すでにいくつかの現象的な整理や問題史的な展望がおこなわれている。そのなかでも、最近大月書店から出版された『日本の児童文学』(菅忠道)の「戦後の児童文学」の項は、すぐれた仕事として評価していいものである。
だが、これらの整理、展望を読んでも、それぞれの時期におこった現象や問題点についてはそれなりの理解をとどかせることができるが、ではいったい戦後児童文学とはなにであったのかという全体的なすがたについては、なかなか明確にはとらえることができないのである。
しかし、いまわたしたちに必要なことは、そのときどきの現象を知ることではなく、その現象の裏をつらぬいている内的必然をさぐることによって、戦後児童文学の実体を大づかみにすることである。
はたして戦後児童文学は前進であったのか、あるいは不毛であったのか。もし前進であったとすればどの面において進歩したのか。戦後児童文学がかかげた目標とはなにであったか。それはいまなお生きているのか、有効性を喪失したのか。わたしはこれらの問いを核にして、戦後児童文学の足どりをたどり、できればその骨格をあきらかにしてみたいと思う。

戦後児童文学がなにであったかを考えるとき、まずその出発点においてかかげた目標がどのような内容のものであったかを、手がかりの一つとして検討してみる必要がある。
戦後の児童文学の具体的な発足は、「児童文学者協会」の結成(昭和二十一年三月十七日)によってはじまったのであるが、その創立総会において採択された「創立趣旨」および「綱領」のうえに、戦後児童文学が目標とした文学理想が象徴的に反映されていた。
つまりそれは、「軍国主義的な教育にゆがめられた児童の精神を解放し」「児童の自由な創造的な生活を培うために」児童文学のうえになお色濃い封建的なものとたたかうという基底の線で、児童文学者のエネルギーの結集をはかり、そのうえに立って「民主主義的な児童文学を創造し普及する」ことを目ざすものであった。
この「民主主義的児童文学の創造」という目標は、戦後の解放されたフンイキのなかで、それなりの機能をはたしたことはいうまでもない。しかし、この目標を志向する作家たちは、高揚した精神にささえられて、民主主義とヒューマニズムを歌いあげることにおいては一応の共通点をもっていたが、そこに迫る立場は、民主主義をたんなる意匠として身につけたものから、人民民主主義革命を遂行しようとするものまで、複雑多岐にわたっていた。
いうならば「民主主義的児童文学」という文学理念は、表面的にはともかく、一歩つきつめてその内容を明確にしようとするとき、きわめて漠然とした内容規定しかもたず、その実現をになう主体は、はなはだアイマイなものでしかなかったのである。
たとえば、その内容規定には、宮本百合子が『両輪』(「新日本文学」・一九四八年三月号)のなかで「労働者階級とその同盟者としての農民それに協同して革命を遂行してゆく小市民およびインテリゲンチャ、民主主義文学の主体をそのように理解すれば、文学評価の基準が、歴史の推進発展の方向に沿ってどういうものでなければならないかということもわかりやすいことであろう」とかいたたしかさはなかった。
ところで、こうしたアイマイさは、新しい児童文学団体である「児童文学者協会」の構成そのもののなかに素因としてひそんでいた。
つまり、「児童文学者協会」の中核は、大正の「赤い鳥」の流れをくむ芸術的童話伝統派と、昭和初期におこったプロレタリア児童文学の流れに立つ人びととの合流によって形成されていたのである。
しかもそこに、「その雛形が、いちはやく結成準備の進んでいた新日本文学会(プロレタリア文学を主軸とする民主主義文学運動の統一戦線)に求められていたことは疑いない。ただし、それは、相対的に社会意識の弱い児童文学に即して、具体化がはかられていたわけである」(菅忠道『日本の児童文学』)といった事情が加わったことを推察するとき、その事情がアイマイさに拍車をかけたことは十分に首肯できるのである。
だが、「民主主義的児童文学」という目標のアイマイさは、そうした人的構成の要因もさることながら、やはりなんといっても、それが政治的原理の域にとどまっていて、文学の目標として熟したものになっていなかった要素からひきおこされたものであろう。この問題はさらにくわしく検討する必要があるが、ともかく「民主主義的児童文学」という目標が、将来にむかって成熟し、作家の内面においてたえず検証され、その実現のためにたたかっていく共通の目標となるにしては、あまりにも抽象的であったことはいなめない。
戦後の民主主義革命の高揚期にあっては、その共通性はかろうじて保持されていたが、やがておとずれる反動逆コースのなかで、たちまち色あせたものになって衰退したのも、このことを裏側から立証しているといえるだろう。
戦後児童文学初期の民主主義児童文学運動が、こうした目標のアイマイさに象徴されるような弱点のために、わずか二、三年で挫折した要因については、すでにいくつかの批判的な見解が提示されている。
たとえばつぎのようなものがある。
「この民主主義的児童文学の花ざかりが、あっというまにたたきつぶされた原因は、今日ほぼ次のふたつであると考えられているようだ。ひとつは通俗ジャーナリズムの攻勢で、もうひとつは児童者内部の弱さである」(古田足日『現代児童文学事典』昭和38・3)
「解放された彼らは、新しい出発に際して子どもの文学とはどんなものかを考え、幼児から高学年にいたる年齢に応じた文学の型を考え、子どもの心の成長にかなうものは何かを考えなかった。彼らは、ただ自分たちが民主主義の理念と考えるものを、図式的なかき方で子どもたちに提出した。そして、その理念そのものが、当時としてはまったくの常識として一般に通用していた程度のものだった」(神宮輝夫『児童文学概論』昭和38・1)
「(戦後)児童文学の不幸は、まず、当時の進歩的団体が占領軍を解放軍と規定したように、戦後を『解放』と規定したところにはじまる。(中略)児童文学者が戦後まっさきにやらなければならなかったことは、民主的な組織づくりや広報活動とともに、じぶん自身の手で、自分たちの創作方法の検討をやり、従来の児童文学の功罪を明らかにすることではなかったかと思うのである」(上野瞭『なぜか』、「日本児童文学」昭和40・2)
これらの見解は、それぞれに社会的・主体的・外的要因にわたってふれ、その限りで的を射たものであると思う。だが、なかには木によって魚を求めるような側面がないわけではない。
たしかに、敗戦直後の自由を「解放」として受け取り、当時の支配権力の実態やアメリカ占領軍が矢つぎばやに打ち出してきた一連の「民主化」政策にひそむものを洞察することができずに、錯覚と期待をそこに抱いた甘さは批判されなければならないとしても、その甘さはなにも児童文学者だけが責められるべき性質のものではない。それに戦後の「解放」にたいしてかけた期待と願望が、まったくの錯誤であり徒労であったとは思えないのである。むしろ、そうした期待と願望をささえとして、戦争によって抑圧されていた心情を、「新しい夜明け」への讃歌と、封建的なものへの性急な批判というかたちで、「叫び」のように一挙に吐きだしたことは、無理からぬものがありきわめて自然な成行であったと考える。
おそらくそこでは、読者である子どものことなどを考える余裕はなかったのである。うっ積していたものを噴出させるのに精いっぱいだったにちがいないのである。本多秋五は『戦後文学史論』(「展望」昭和39・11)の仲で「戦後文学は、敗戦によってホッと弛みを感じた無名青年たちによってはじめられた」といっているが、戦後児童文学にも似た事情があったことは説明するまでもないだろう。
戦後児童文学の初期にかかれた「叫び」のような作品は、この「ホッとした弛み」と民主主義革命にみられる精神の高揚が背景にあってはじめて生まれてきたのではなかろうか。そしてわたしは、その「叫び」のような作品がもっていた一種の迫力を、それなりに評価したいと思うのである。
昭和二十一年から二十三年にかけて、続々と創刊された新児童雑誌「赤とんぼ」(昭和21・4)「子どもの広場」(昭和21・4)「銀河」(昭和21・10)「童話教室」(昭和22・1)「少年少女」(昭和23・1)などに発表されたいくつかの作品、たとえば、小川未明の『兄の声』、坪田譲治の『サバクの虹』、藤森成吉の『ピオの話』、塚原健二郎の『風船は空に』、岩倉政治の『空気のなくなる日』、筒井敬介の『コルプス先生汽車へのる』、岡本良雄の『あすもおかしいか』、猪野省三の『ぬすまれた自転車』、平塚武二の『ウィザード博士』、関英雄の『三本のロウソク』などは、いま読んでも当時の熱っぽい叫びが、美しいひびきをもってきこえてくるようである。
だが、だからといってこれらの作品にふくまれている弱さを見逃すわけではない。その弱さについては、さきに紹介した見解がいくつか指摘しているが、わたしはつぎのような要因をあげたいと思う。
つまりそれを一口にいってしまえば、これらの作品が、なによりもまず、自己の戦争体験を思想の問題としてとらえることから出発せず、外からの「解放」によって生じた民主主義の原理を、直線的に文学上の目標とするところからかかれたことにある。いいかえれば、戦後の児童文学者は自己の戦時中における体験に誠実にかかわり、それを徹底的に問題とする地点から、戦後児童文学のあり方を発想すべきであったのである。
だが、事実はつぎの通りであった。
「児童文学者たちも、戦地で、銃後で、きびしい戦争体験を経てきた。意識的にか無意識的にか、戦争に協力し、不本意ながらそういう結果になったという屈折した場合もあったにちがいない。その反省もあり、もともと平和主義者の多い児童文学者としては、敗戦の日から、あらためて"戦争と平和"の問題を考えないではいられなかったはずである。それだから、平和のよろこびを語り戦渦のいたましさを描いた作品が、さまざまに生み出されはした。だが、児童文学者の多くは戦争体験への徹底的な対決を避けて通り、ただちに戦後の現実へ立ち向かっていった。」(菅忠道・前掲)のである。
このように戦後の児童文学者が、戦時体験との対決をほとんど素通りして、まっすぐに戦後の状況にかかわっていったことは、考えてみればおかしなことであった。なぜなら、戦時体験は必然的に戦後の仕事を規定せずにはいないはずだからである。
戦後児童文学の初期の作品が、全体的にみたときなにかしら単調な色合いをおび、民主主義の常識をふりかざしたような図式を感じさせるのも、また「叫び」の持続がわずか二、三年で立枯れてしまったのも、いずれもこの戦時体験との対決をなおざりにした結果、問題の持続的な探求に必要なエネルギーの蓄積があまりおこなわれなかったからではなかろうか。あるいはまた、戦後初期の作品は方法的にいって、戦中・戦前の方法とほとんど等質であった由因もここに求められなければならない。
もし戦後の発足にあたって、戦時中における原体験に固執し、それを問いつめるところから仕事がはじまっているならば、すくなくとも、いままでの童話文学の発想と方法の再検討にいきつかざるをえず、おなじ「叫び」であっても現在のそれとはもっと異質なものになっていたにちがいないのである。戦中と戦後の作品がほぼ等質であるということは、結局戦中の作品が戦後に復活したにすぎないことを意味している。
もっとも、すべての作品が単純な復活現象によってかかれたわけではない。
川崎大治の『雪山の煙の下に』(昭和23)には、戦前の「プロレタリア童話」「生活主義・集団主義童話」のもつリアリズムの前進がみられたし、平塚武二の『太陽よりも月よりも』(昭和22)や与田準一の『五十一番目のザボン』(昭和26)などの業績には、芸術的童話文学の一つの完成に近い達成があった。
しかし、この時期のもっとも特徴的な作風として登場してきた社会諷刺性のつよいメルヘンには、あきらかに、戦時体験を内発的にくぐってこなかった弱さが露呈しているものが多かった。波多野完治はこれらの傾向の童話にたいして、戦後の激動する社会に生きる子どもをとらえることができずに、観念の世界に逃避したものという批判をなげかけそれを「無国籍童話」と名づけたが、そうした弱点はたしかにもっていた。
平塚武二の『ウィザード博士』は、そうした「無国籍童話」の典型的なものの一つで、敗戦時の日本の状況や天皇制を、「(前略)ドンナトキデモ、ドンナコトデモ、王様カラトイウノガ、アナタガタノオ国ノしきたりデアルトイウデハアリマセンカ。しきたりハマモラナケレバナリマセン」と痛烈に皮肉り風刺したものである。
そこにとらえられた状況は的確であり、表現もたくみであるが、その諷刺の骨格はけっしてたくましいものであるとはいえない。なんとなく現象の表面だけをなぜてとおり、その奥にある本質まで表現がとどいていない感じがするのである。そして、この弱さも、戦時体験が自己の思想の問題としてうけとめられていないことからきていると思えてならないのである。
といって、戦後の児童文学者が、戦時体験あるいは敗戦体験を全く問おうとしなかったというのではない。
戦争責任の問題もふくめて、いくつかの問題提起の論文や作品がかかれてきた。
関英雄は、『児童文学者は何をなすべきか』という論文を「日本児童文学」(創刊号、昭和21・9)に発表し、戦後いちはやく児童文学者の戦争責任の問題、作家主体の問題に言及した。
つまり「一九四五年八月十五日以後の事態に対して、たんに物が自由に書けるようになって都合がよいというだけの安易な、職業作家的態度が、児童文学者のうちにあることをおそれる。子供たちを戦争へかり立てたことの責任を、子供たちの教師としての児童文学者はどの程度に自覚しているのであろうか。少なくとも児童文学の正統派と目さるる作家たちは、この問題について相当の苦悶を経過しつつあるものと私は信じたい」として、児童文学者の戦中の思想的無抵抗を反省し、その深刻な自己批判を要請しているのである。
また作品では坪田譲治が『サバクの虹』をかき、荒涼とした廃墟のむなしさと、自然のうつりかわりを表現することによって、自己の戦時中の原体験と対決した。この作品のさししめすものについては東洋的なあきらめが色濃くて児童文学としてふさわしいものであるかどうかという論議があるが、戦時体験を思想体験としてとらえた数少ないものの一つである。
このほか、戦後児童文学の初期のおける収穫として、『ノンちゃん雲にのる』(石井桃子・昭和22)『ビルマの竪琴』(竹山道雄・昭和22)を、そこにいくつかの問題性を内包しているにしても、指摘しておくべきであろう。
ともあれ、戦後初期の児童文学の特質あるいは問題点は、戦時体験の不徹底性にこそあったというのが、わたしの考えである。良くも悪くも、この戦時体験の不徹底性が、戦後児童文学の初期の仕事を規定したのである。
では、どうしてこのような戦時体験の不徹底性が生じたのであろうかという問いが、当然つぎにおこってくるだろう。
この問いは、「民主主義的児童文学」思潮の敗退後におこった創作児童文学の慢性的不況の原因にもかかわってくるが、いまのわたしには、この問いにたいして的確にこたえるだけの準備も自信もない。
なぜなら、この問いにこたえるということは、まず児童文学者の主体のあり方を問題にすることであり、それはとりもなおさず自己自身を対象化することにほかならないからである。
したがって、ここでは現在の時点においてわたしの考えおよぶかぎりでの仮説を提出するにとどめたいと思う。
戦時体験の不徹底性の由因を解明しようとするとき、さしあたって二つの側面からさぐってみることが大切である。
その一つは児童文学者の姿勢についてであり、いま一つは、児童文学そのもののあり方についてである。
戦後児童文学の発足以来今日まで、児童文学者の作家主体については、ことあるたびに議論の対象になり、そのあり方をめぐってさまざまな見解がしめされてきた。そしてそれらの見解に共通しているものは、主観的には誠実ではあるが、結果的にはひよわい主体しかもたない児童文学者の姿勢をえぐりだしていることであった。
たとえば、関英雄は前出の論文のなかで、戦時中の児童文学者が「結果として軍国主義者の用意した軌道を走」らざるをえなかった原因についてつぎのようにいう。
「これら童心派の自由主義が『子供の世界』という限られた枠内での自由の主張にすぎず、児童観上の自由主義を確固たる世界観上の自由思想としてうちたてるに至らなかった、わが童話作家たちの思想的薄弱のためだったといえよう。同時に若干は生活的な弱さのためでもあったようだ」
またおなじころ中野重治はこうもいった。
「彼らは戦おうとしたが、彼らのある弱さがそれを妨げた。子供への愛、子供ために仕事することの悦びは、彼らに充満していたが、その愛と悦びとの純粋が彼ら特有の弱さに結びついていた」(『子供のための文学のこと』昭和22)
わたしは、はたしてこのような児童文学者特有の弱さといったものが一般的に存在するのかと思う。そんなことはありえないのではないかとも考える。だが、たしかに客観的には、児童文学者とよばれるもののまわりに、そうしたフンイキがただよっていることは否定することのできない事実である。ただその実体は必ずしも明瞭なものではない。
おそらくこの実体の解明には、日本の社会構造における児童文学のしめる位置や、児童文学者の資質そのものに深いメスをあてなければならないだろう。ここではそれにくわしくふれている余裕はないが、その一つの手がかりとして次のことだけはとりあげておきたいと思う。
つまり、児童文学者の「ある弱さ」は、一口にいって、政治・歴史・人間にたいする積極的でダイナミックなかかわりを、受身のかたちで回避することによって、「純粋」とか「善意」といったものを保持しようとする姿勢から生じているということである。このことは戦中の児童文学のあり方と密接に結びついている。「純粋」を保持しとうとする態度が結果において戦争にたいする消極的な抵抗の役割をはたしたという状況がそこにあった。そしてある人たちは、この戦中児童文学のあり方に、児童文学者のもつ弱さの一つの根源を見出している。
戦中児童文学は、内務省警保局図書館による児童図書浄化措置を中心とする一連の政策によって、俗悪な児童読物が統制され、その結果、逆に戦時中の統制のわくのもとではあるが、良心的芸術的な児童文学作品が浮かびあがる契機となり、多くの専門児童文学者の出現をみるという「復興現象」をもった。このいわば文学統制に守られて隆盛をみた児童文学現象について、鳥越信は「転向作家たちは、思想的には後退をつづけながらも、芸術的な力量の故にふみこたえた。芸術的力量のなかった児童作家たちは、権力の保護の下に幻の花を咲かせたのである」(『戦中児童文学の二、三の問題』<新選日本児童文学第二巻>昭和34・5)とのべている。
たしかにこの戦中児童文学のすがたに、児童文学者の弱さが典型的に露呈されたことは事実であるが、その弱さの根源はもっと深いところにあり、戦中児童文学の現象はその一つのあらわれにすぎないとわたしは考えている。
ところで、児童文学の弱さを、児童文学者の主体のひよわさや外的条件とは別に、日本の児童文学そのもののあり方に求めようとする見解もある。
その一人は古田足日で、「民主主義児童文学退潮後の『慢性的不況』の根源」として彼は二つの要因を指摘する。一つは「昭和初期にあった童話の主張と児童文学の癒着」によって、児童文学のなかに「おとな的」なものが残存していること。いま一つは「童話作家をして童話作家たらしめた、その内的モチーフのなかにある」(『昭和文学十四講』<昭和の児童文学>昭和41・1)とする。
ここで古田足日が提出している見解は、日本の児童文学が、つねにおとなの内部の直接表現という童話の方法をすてきれないために、そのありかたが中途半端になり、子どもの読者にとってはおもしろくなく、かといっておとなの自己表現としてはまずしいという未分化の状態をついたものであった。
この問題は、日本の近代のなりたちとかかわりのなかで、もっと深く追求されなければならないことがらであるが、要するにおとながおとなに徹しきれなかったところに未分化の真因がある。もちろん、そこには「子ども的」なものをすてきれないという人間の資質がかかわってくるが、自己の内部にある「子ども的」なものを批判し対象化するだけのおとなの眼をもたないかぎり、児童文学のもつ本来の機能をはたすことはできない。
わたしはこうした児童文学のあり方そのもののなかにも、一つの不徹底性をみる。そしてその不徹底性が、戦時体験の不徹底性と奥深いところで通じあっているとしても、あながち強弁だということはできないだろう。
ところで、対米従属的な独占資本主義の復興と、それにともなう反動政策推進の過程において、漫画・テレビに代表される巨大なマス・コミ文化が進出する一方、良心的児童雑誌は相ついで休刊し、創作児童文学は慢性的不況にあえいだ。
しかし、こうしたきびしい外的条件のなかにあって児童文学の本質・児童文学者の主体をふくめて、児童文学そのものの意味を根底から問いなおそうという動きがおこってきた。
それは既成の作家たちのあいだでも「長篇少年文学の創作」というかたちであらわれたが、多くは新しい世代からの追求であった。
つまり、それは昭和二十八年ごろから目だって盛んになった同人雑誌運動による若い児童文学者たちによってになわれ、早大童話会の名で発表された「少年文学の旗の下に」という宣言はもっとも象徴的なあらわれであったということができる。
この同人雑誌運動を推進した新人たちは、伝統批判、創作方法の探求、作家主体、戦中戦後責任の追及などの面で活発な創造、評論活動をおこない、児童文学不振の状況打開につとめた。
そのなかでも「少年文学の旗の下に」という宣言は、「近代的『小説精神』を中核とする『少年文学』の道」をめざし、童話から小説へ、詩から散文への移行をとなえ、「社会を変化発展するものとしてとらえる認識を基礎に置いた創作方法」(鳥越信『童話小説論争の問題点』、「教育」昭和29・12)を主張して、児童文学の世界に論争をよんだ。この論争そのものは「童話か小説か」というような二者択一的な地点でおこなわれ、ほとんどみるべき成果もなく立ち消えてしまったが、これは後に長篇少年少女小説が続出する導火線となり、また石井桃子たちの「子どもと文学」が投げかけた問題とも関連して、「日本の近代伝統と欧米的な伝統」という児童文学における創造と伝統の問題をひきおこすきっかけともなった。
創作面では、長篇少年文学運動の成果として、住井すゑの『夜明け朝明け』(昭和29)、国分一太郎の『鉄の町の少年』(昭和29)、永井萠二の『ささぶね船長』(昭和30)などがかかれたが、いずれも主題の積極性は評価されながら、その芸術的形象の弱さが問題となった。同人雑誌運動のなかからはいぬいとみこの『ながいながいペンギンの話』(昭和32)が生まれ、幼年童話に新しい作風をふきこんだ。しかし、この時期にもっとも大きな反響をよびおこしたのは、石森延男の千五百枚に及ぶ長篇『コタンの口笛』で、アイヌ部落の姉弟の生きかたを描いたこの作品は以後の長篇児童文学の創作に強い刺激をあたえ、その出版を促進する口火となった。
だがこれらの作品は、それぞれに孤立して一つの大きな流れを形成するまでの過渡的な位置をしめるものであった。
菅忠道はこの時期の児童文学を「創作児童文学の慢性的不況状況のなかで、児童文学界の新旧世代のあいだに、同人雑誌による文学運動が進み、しかも新旧世代間の矛盾が激化し、新しい発展のエネルギーが蓄積された『戦後児童文学の転換期』」(『日本の児童文学』)と規定している。
わたしもこの規定に賛成であるが、問題はこの「戦後児童文学の転換」がどうおこなわれたかということであろう。
「戦後児童文学の転換」のもっとも顕著な特徴は、日本の伝統的な童話文学を根元から問いただそうとするところにあった。そこには「本質論の深まり」があり「視野の拡大」があった。あるいは「子どもの存在にたいする認識」の高まりがあった。
しかし、「近代文学の精神」を核にして、日本の児童文学に本来の物語性と社会性を実現しようとする試みは、必ずしも十分にははたされなかった。たしかに現象的には、日本の児童文学の主傾向は、転換の目標である童話から小説へと移っていった。だがそれは「移行」であって「変革」ではなかった。
別な言葉でいいなおせば、童話文学伝統にたいする批判は、童話文学のめざすものを傷つけこわすことはできたが、けっして根本から革新することはできなかったのである。「近代文学の精神」という常識的な目標はあったが、童話文学の目標にかわる新しい児童文学理念をうちたてることはできなかったわけである。
その大きな原因は、童話文学伝統批判が十分な思想的準備のもとにおこなわれず、日本の近代社会の特殊なゆがみとの関連を無視したところで、技術主義的に処理されたことにあると思う。

戦後児童文学の初期における民主主義児童文学運動の弱点として、わたしは児童文学者の戦時体験への内発的なかかわりの不徹底性を指摘した。もちろん、そのことは、初期の作品に戦時体験が投影されていなかったということではない。なんらかのかたちでの反映は当然みられたが、戦時体験そのものが創造活動の課題となることはきわめてすくなかった。
戦後の児童文学において、戦争体験が自己の文学的・思想的課題としてとりくまれ、新しい方法によって造型されはじめるようになったのは、昭和三十四年以降のことである。
具体的には、『だれも知らない小さな国』(佐藤暁、昭和34・8)、『谷間の底から』(柴田道子、昭和34・9)、『荒野の魂』(斎藤了一、昭和34・10)、『木かげの家の小人たち』(いぬいとみこ、昭和34・12)など一群の新人作家の作品が登場してきて以来である。
この児童文学現象には、いくつかの共通した特色がみられる。
その一つは、これらの作品が不振・停滞の時代に同人雑誌運動によって、地道な活動をつづけてきた若い世代の手になったものであること、二つには、童話から小説へという主張にそって、短篇ではなく長篇形式をとっていること。三つには、いずれも戦争体験というものが創造の基底にすえられ、その思想的意味を問うところからはじめられていること。四つには、児童文学における創作方法の開拓が試みられ、新しい児童文学のあり方に一つの解答をだしていること。なかでも、『だれも知らない小さな国』『木かげの家の小人たち』が、ファンタジーの領域を切り開いた意味は大きいものであったこと。
そして、これらの特質を生み出した底には、若い世代の作家が長い不振と停滞の時代を経てつかみとった児童文学観の質的変化があったことはいうまでもない。
昭和三十四年にあらわれた児童文学現象のこうしたきわだった特徴は、児童文学における「戦後文学」が、このときはじめてはじまったという見解を生んでいる。昭和三十四年をもって、戦後児童文学の新しい出発点とする発想は、若い世代の評論家に共通したものであるが、その発想をささえている認識は、前記の作品群が「児童文学とは何か」に本質的にこたえたものであり、また戦争体験というものがはじめてまともにとりあげられ追求されているというところにある。
このような判断にたいして、昭和三十四年に登場した純粋戦後派のもつ意味はたしかに重要であるが、それをいたずらに強調するあまり、それ以前の過程を軽視することはあやまりであるという反対意見も古い世代から提出されている。
これはつまるところ、昭和三十四年にみられた児童文学現象の意義をどう評価し、それを戦後児童文学史のうえにどう位置づけるかということである。その鍵は、児童文学における「戦後文学」がどのような質的内容をもち、戦後児童文学のうえに、なにをつけ加えたかをみきわめるところにある。あるいは、この時期におこった児童文学の質的変化の具体的なすがたを明確にすることであろう。
たとえば、この時期の作品が童話から小説へ、短篇から長篇へ移行したことも、一つの大きな変化であることはちがいないが、その表現上の変化、形式上の変貌だけをもって、児童文学における「戦後文学」の特徴とすることはできないとわたしは思っている。
わたしは児童文学における「戦後文学」の特徴的な性格を、前記の作品が戦争体験の思想的意味をどうとらえているかというところに手がかりをもとめて考えてみたい。
『だれも知らない小さな国』は、「二十年近い前のことだから、もうむかしといってもいいかもしれない。ぼくはまだ小学校の三年生だった」という書出しではじまる。その年の夏休み、ぼくはもちの木をさがしにでかけ、そこで美しい泉のある小山を発見する。ぼくは小山を自分だけの山として大切にするが、この小山には昔「こぼしさま」がすみ、村人たちから「近よってはならない、えんぎのわるい山」だということを知る。でもぼくは中学へ進むころまで思い出したように小山へひとりで遊びにいっていた。しかし戦争がはじまり、ぼくの身のまわりもきびしくなって、小山のことは忘れてしまう。そして、終戦。ぼくは焼け野原になった町に立って、とつぜんぽっかりと小山のことを思い浮かべる。こうして、ぼくと小山にすむコロボックルという小人との交渉がはじまる。
作者はこのアイヌ伝説に登場するコロボックルの世界を、ファンタジーの方法でいかにも実在するもののように描きだしている。この作品の特色は、目に見えない世界を、目に見えるようにたしかな鮮明さをもって造型したところにあるが、それのみでなく、その作品世界に作者の戦争体験が色濃く投影されていることも見逃すことのできない特徴である。
敗戦の焼野原の町のなかで、「あつい雲がはれるように」ぽっかりと小山を思い浮かべたことが象徴するように、だれも知らない小さなコロボックルの国は、戦争・敗戦というものを契機にして発見されたところのものである。
きびしい戦争体験、敗戦体験をくぐることによってえた作者の発見が、かつて小さな頃に自分だけのものとして大切にしていた小山であり、そこにすむコロボックルの世界であったということはなにを意味するのか。
ここで作者が語ろうとしている思想は、もっとも大切なものは個人の内部であり、それだけはなにがなんでも守らねばならないということである。作者がその戦争体験からえた思想的な意味は、個の確立、個人の尊厳というものにたいする認識にあるといっていいだろう。
これは一般の戦後文学において、「近代文学」派の人びとが、その文学的出発にあたってなによりもまず「近代的個の確立」「主体性の確立」を追求しようとしたこととほぼ見合っている。
ところで、昭和三十四年にあらわれた作品は戦時中に少年時代をおくった戦中世代によってかかれてきた。彼らは、敗戦によって戦争中に押しつけられた聖戦思想を支柱とする価値体系が一挙にくずれさるのを目撃した。一切の観念が空無と化したのである。あとにのこったものは、空虚と不信であった。だが、戦後の経過のなかで、児童文学者としての自己を確立していくためには、なんらかのかたちで、くずれさった観念体系を再建していかなければならない。
そのとき、彼ら戦中世代が再建への模索の手がかりを、もっとも深傷をあたえられた戦争体験・敗戦体験を対象化する道にもとめたのは、きわめて必然のことであったのである。
彼らにとって、戦争体験の意味を徹底的に究明せずには、一歩も前進することが不可能であった。おそらくこの点に、戦後児童文学の初期に活動した児童文学者との決定的ともいえる差異がある。戦後初期の運動をになった児童文学者たちは、自己の戦争体験を徹底的に問わずとも、戦後の状況にかかわっていくことは可能であった。それはたとえわずかでも、戦争にたいする抵抗の心情を保持することができたからであろう。しかし戦中世代は、戦争にすべてをささげてたたかうことを、そしてその正しさを信じることを強制された世代であったのである。そこでは傍観者の位置は許されなかった。それだけに、かれらが戦後において児童文学者としての自己を確立し出発点に立つまでには、戦後十四、五年という長い時間を必要としたのであろう。昭和三十四年になって、純粋戦後派の作家が新しい作品をひっさげて、一度に登場してきた理由もこのへんにあるはずである。
ところで、『だれも知らない小さな国』でみたように、戦中世代の彼らが、戦争体験の意味を究明して、まず「個我の発見・確立」にいきつき、そこから自己の文学を出発させようとしたことは当然であり、児童文学における「戦後文学」の特徴の一つとなっているが、いま一つの特徴は、これらの作品が、平和をもとめ戦争を悪とする立場にたち、被害者のがわから戦争というものを告発していることである。
『木かげの家の小人たち』は、イギリスから移住した小人たちが、太平洋戦争のきびしい状況のなかで生きぬいていくという作品で、その物語の設定そのものに作者の戦争体験と戦争への批判がこめられている。また『谷間の底から』では、戦争中におこなわれた学童疎開の体験を生活記録風に描くことによって、戦争のもつ悲惨さを浮かびあがらせている。
いま一般の文学では戦後文学否定論がさかんにおこなわれ、その根拠の一つとして、戦後文学者は戦争というものを単純に悪としてきめつけ、被害者の顔つきでその罪状を告発していることがあげられる。
この観点でいくと、前記の作品も否定されなければならないことになるが、戦中世代の経過した戦争体験を考えるとき、彼らが被害者の立場から侵略戦争の悪を告発しようとしたことはきわめて正当であったと思う。
ただここで気になることは、前記の作品にあらわれている戦争体験の思想化が心情的におこなわれ、せいぜい戦争はいやだというていどにとどまっていることである。このような心情は、戦後児童文学の初期の作品にもみられたところのもので、そのかぎりでは初期の作品と昭和三十四年の作品は同質であり連続したものだといっていい。
いずれにしても、昭和三十四年にあらわれた児童文学作品の特質は、戦争体験の思想化による「自我の確立」と「戦争への告発」であり、同時にそれらが児童文学本来のすがたにちかいものとして表現されたことにある。
このことからも、戦後の児童文学には一貫して平和を愛し、戦争の悪をにくむヒューマニズムの立場が保持されていることはわかるが、児童文学作品を生みだしていくうえでの思想と方法はかつてないほどの多様さをおびてきていた。
そのなかで特にいちじるしい動向は、リアリズムの方法による長篇少年少女小説の進展である。
具体的な作品としては、山中恒の『とべたら本こ』(昭和35・4)、『赤毛のポチ』(昭和35・7)、鈴木実他の『山が泣いている』(昭和35・8)、早船ちよの『キューポラのある街』(昭和36・4)、早乙女勝元の『ゆびきり』(昭和36・9)、香山美子の『あり子の記』(昭和37・3)などがあらわれた。
これらリアリズム作品にみられる特色は、一つは子どもというものを、かつての童話文学のように作者の内部に存在するものとしてとらえるのではなく、社会現実のなかでそれとのかかわりにおいてとらえようとしていることである。それは「文学的・社会的視野の拡大」となってあらわれてきている。
いま一つは長篇小説が要求するところの、「起伏の多いストーリー」や「おもしろさ」についての関心の深さをあげることができる。
たとえば『赤毛のポチ』では主人公のカッコが、学校や家庭でのさまざまなできごとを通じて思考し行動しながら成長していくようすが、明確な構成のもとにえがかれている。
また『とべたら本こ』や『キューポラのある街』では、社会のどん底で貧困にもまれながら、きわめてエネルギッシュに、ときには本能的に行動して生きていく子どものすがたが描かれている。それは行動的な児童像を造型した点で評価されなければならないが、その方向はどちらかというと実存主義的な側面に傾斜し、貧困の根源である社会機構と権力へのたたかいの側面が弱くなっている。この面への新しい方法による追求はあまり進展せず、そのために社会批判の意図がとかく図式的なものにとどまりがちであったことは指摘しなければならない。
『山が泣いている』は、米軍基地撤去のたたかいのようすを集団的に描こうとしたものであるが、多分に図式的なものを内包していたし、おなじようなことは、吉田としの『少年の海』(昭和36・12)という李ライン問題をとりあげた作品や鈴木喜代春の『北風の子』(昭和37・5)、木暮正夫の『ドブネズミ色の街』(昭和37・10)などのリアリズム作品にもいえる。
このような図式化の原因は、結局社会現実をどうとらえるかということについての、児童文学の面からの方法的探求がほとんどなされていなかったことからきている。というよりも、この面の試みはいまやっとはじまったばかりで、これから切り開いていかなければならない大きな課題としてのこされているというべきだろう。いぬいとみこの『うみねこの空』(昭和41・5)は一つの可能性を切り開いたものとして評価すべき作品である。
そのことと関連してどうしてもふれておかねばならないことは、「子どもと文学」が提起しているつぎのような考えについてである。
「悲惨な貧乏状態を克明に描写したものや社会の不平等をなじったものなども、いつの時代にも書かれています。(中略)しかし、そうした物語は、ストーリー性のない観念的な読物となっていることが多く、どうしても子どもたちをひきつけることはできません」
「時代によって価値のかわるイデオロギーは―例えば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが―これをテーマにとりあげたこと自体、作品の古典的価値をそこなうと同時に、人生経験の浅い子どもたちにとって意味のないことです」
 この考えをつきつめていけば、社会現実とのかかわりのなかで子どもの存在をとらえる試みなどはナンセンスだということになる。同時に児童文学におけるテーマの積極性は否定されざるをえない。こうした主張の背後には「何を」よりも「どう描くか」に重点をおいた文学観がひそんでいる。だが文学においては思想と方法は切り離すことは不可能である。このことを無視して方法だけを偏重するとき、必然的に作家や作品の思想性は捨象され、政治・社会との相関のなかで作品をとらえるかまえはないがしろになってしまう。あとにのこるものは、政治と児童文学の分離であり、歴史的自覚の欠如による技術主義の横行である。児童文学における「古典的価値」も、この政治・社会との時と場合に応じたかかわりあいをつねに保持することによってのみ、保証されるものだといってよいだろう。
 それにしても、これまでの社会批判を意図した児童文学作品の多くが、そのリアリティにおいてかなり大きな欠陥をもっていたことは動かすことのできない事実である。
 この事実から、リアリズムの超克を目ざした評論や、リアリズムの弱さを克服しようとして意欲的な実験にとりくもうとした作品があらわれてきたのも当然である。
『現実的テーマ作品にみる非文学的傾向』(西本鶏介・「日本児童文学」昭和39・7)は、リアリズム批判の動きを代表する評論で、ここでは昨今のリアリズム作品の非ロマン的傾向をとりあげ、その原因を詩精神の欠如にもとめ、十九世紀のロマン主義に今後の進むべき道の範例をみるという主張がおこなわれている。たしかに、リアリズム作品の欠点の指摘はそれなりにあたっていないことはないが、ここでもわたしが感じることは、木によって魚をもとめる式のないものねだり、あるいは日本の現実認識に目をそらして、いたずらにリアリズム作品の未成熟さを必要以上に強調しようという性急さがある。
これらの主張は、結局日本の児童文学に西洋の近代文学、特に本格的なロマンという手本を導入しそれを目標にして努力すべきだという近代化理論に根ざしており、そのかぎりにおいて「子どもと文学」のそれと同根のものである。
創作方法の面では常識的なテーマを写実的リアリズムで描いた児童文学作品が、あまりにも底の浅い風俗小説にしかならなかったことにたいして、その弱点を他の方法によって克服しようとする志向が生まれてきた。
吉田足日の『ぬすまれた町』(昭和36・11)はそうした作品の代表例でリアリズムでは処理しきれない現実を他の方法でとらえようとして、安保闘争を素材に現実と未来を交錯させる実験的な手法を試みている。その試みは必ずしも成功していないが、児童文学の方法の多面的な模索をものがたる一つの事例として記憶されていい作品である。こうした傾向の作品として今江祥智の『山のむこうは青い海だった』(昭和35・10)、『わらいねこ』(昭和39・1)、小沢正の『目をさませトラゴロウ』(昭和41・8)などをあげることができるが、このほかメルヘンの領域において、神沢利子の『ちびっこカムのぼうけん』(昭和36・12)、中川李枝子の『いやいやえん』(昭和37・11)などの達成も見のがすことができない。また民話の再創造という方法によってかかれた松谷みよ子の『龍の子太郎』(昭和35・8)や民話の語りぐちを現代に生かしたおおえひでの『南の風の物語』(昭和36・4)の成果も、児童文学の方法の多彩化という側面を含めて指摘しておくべきであろう。
ところで、戦後児童文学のあしどりは、巨視的な観点からみるとき、それは戦争体験ないし戦争そのものを基軸にして回転し変貌してきたという感じをわたしはもっている。その発展変質の過程には、つねになんらかのかたちで戦争というものが色濃く反映しているといってもけっして不当ではないはずである。そしてそれぞれの時期に、戦争を素材にしたあるいは戦争体験を基底にした代表的な作品がかかれてきた。たとえば昭和二十四年には『ビルマの竪琴』(竹山道雄)、昭和二十七年には『二十四の瞳』(壺井栄)、昭和三十四年には『谷間の底から』(柴田道子)、『だれも知らない小さな国』(佐藤暁)などである。
さらにこれらの作品は戦争というものをヒューマニズムの立場から心情的に嫌悪することにおいて共通したものをもっていた。
だが、昭和三十八年ごろから数多くかかれるようになった「戦争児童文学」には、もっとちがった発想からのアプローチがみられるようになった。
まずこの頃から今日までの戦争を素材にした作品を列挙すると、つぎのようになる。
『つるのとぶ日』(山口勇子他・昭和38・7)、『若草色の汽船』(石川光男・昭和38・6)、『星の牧場』(庄野英二・昭和38・11)、『火の瞳』(早乙女勝元・昭和39・2)、『燃える湖』(山本和夫・昭和39・2)、『ぴいちゃあしゃん』(乙骨淑子・昭和39・3)、『あほうの星』(長崎源之助・昭和39・9)、『海に立つにじ』(大野允子・昭和40・8)、『シラカバと少女』(那須田稔・昭和40・12)、『柳の綿とぶ国』(赤木由子・昭和41)
これらの作品を一応素材別に分類してみると、原爆体験を描いたもの(『つるのとぶ日』『海に立つにじ』)戦場または戦闘そのものを描いたもの(『燃える湖』『ぴいちゃあしゃん』)軍隊生活を素材にしたもの(『若草色の汽船』『あほうの星』)戦時中の内地・外地での体験を描いたもの(『火の瞳』『シラカバと少女』『柳の綿とぶ国』)戦争が残した傷あとを素材にしたもの(『星の牧場』)などにわけることができる。
こうした戦争ないし戦争体験のさまざまな視点・角度からのとりあげは、それが児童文学者にとっていかに根深いものであるかをものがたっている。長崎源之助はそのことについて、「わたしには、『戦争』をぬきにして、児童文学を書くことがむずかしい。何か書こうとすると、すぐ『戦争』が顔を出す。(中略)それほど深く『戦争』が根をおろしてしまっているのだ」(「日本児童文学」昭和40・8)といっている。
「戦争児童文学」が数多くかかれる理由には、平和憲法が改悪される問題が、政治の具体的なプログラムにのせられている情勢のなかで、軍国主義復活が公然とおこなわれ、子どもたちは児童雑誌や漫画の世界で「カッコイイ」戦争に毒されつつある。この子どもたちのために、児童文学者の責任において戦争そのものの本質を文学作品として表現し伝達しようとする動機もあるにちがいない。だがその根源的なモチーフは、「戦争」をぬきにして児童文学を考えることができないところにあるといっていいだろう。
この「戦争児童文学」には、大きくわけて二つの流れがある。
その一つは、いわゆる「戦争」そのものを体験だけでなく全体的にとらえその本質をあきらかにしようとするものであり、いま一つは、自己の体験に即して、戦争の悲惨さや非人間性を告発しようとするものである。
海軍の主計として従軍した体験をとおして軍隊という組織のなかで人間性を喪失していく兵隊のすがたを描いた『若草色の汽船』や東京空襲のようすを克明にとらえた『火の瞳』などは、後者の流れに位置する作品である。これらの作品が「戦争をしらないで育った世代に、いつか機会があったら、ほんとうの戦争を教えてやらなければいけないと思う」(早乙女勝元)という明確な姿勢によってささえられたとき、それはそれなりのリアリティをもった。
これにたいして、杉田隆という少年通信兵の行動をとおして軍隊生活の醜悪さや、中国の少年少女たちの交友といったものを描きならが、日中戦争の正体をつかもうとした『ぴいちゃあしゃん』や、情報将校として日中戦争に参加した山村少尉の活動を中心にして、戦争のナゾを見つめようとした『燃える湖』などは、前者の流れにたっている。
この二つの流れには、「戦争」そのものをとらえる方法において、きわだって差異がみられる。一方は体験を固執しようとする方向において方法が考えられ、他方は体験を克服する方向においてそれが考えられている。このことを別な言葉でいいかえれば、後者は実感的・被害者的であり、前者は原理的で加害者の立場も視野に入れようとしているということである。
乙骨淑子は『ぴいちゃあしゃん』のあとがきで、つぎのようにいう。
「戦争というものをただ体験としてとらえるのではなく、私は戦争によってゆがめられ、たたきこわされてきたもろもろのものを真正面からみすえ、はぐらかさずにしっかりととらえたい」
 この「戦争」というものを、ただ体験としてとらえることを拒否するということは、とりもなおさず、体験を思想化することであり、われわれの思考と行動の基準となるものをつくりだすことである。
 だが、『ぴいちゃあしゃん』には作者の視点と作中人物の視点との不統一はあっても、思考と行動の基準になるようなものは発見しえていない。ということは、作者はそこで日中戦争の本質をつかみそこねたことを意味している。『燃える湖』には、きわめて心情的なものにつつまれた実体のあいまいなアジア主義とでもいうべき原理が提出されているが、戦争のナゾがナゾのまま肯定されているこの作品からは、われわれの思考と行動の基準をひきだすことはできない。
 なお『シラカバと少女』や『柳の綿とぶ国』は、共に満州国(中国の東北地方)での戦時中の体験をもとにしてかかれ、中国の少女たちとの交友のなかで戦争の本質にめざめていくすがたが描れている。これらの作品はインターナショナルな観点からの戦争へのアプローチがなされているところに大きな特色がある。それは戦時中のナショナリズムへの共感というものを核にしてかかれた「戦争児童文学」とは鋭く対立するものである。

 戦後児童文学の二十年におよぶあゆみをまがりなりにもたどってみた。
 いろいろな面でいいとおしたこともあり、またふれないでしまったことも数多いが、いまここで戦後児童文学というものの特色を急いでまとめてみるとつぎのようになる。
 その一つは、戦後児童文学というもが、「戦争体験」を養分にして進展したということである。その二は、子どもの存在にたいして深い関心と興味を抱くようになったことである。あるいは抱かざるをえなくなったことである。その三は、「童話から小説へ」という現象に象徴的にあらわれているように、童話的な発想の克服が志向されたことである。その四は、欧米児童文学理念の導入などにみられるように「児童文学とは何か」が問われ、児童文学についての考えが徐々に変革しつつあることである。その五は、戦後の児童文学はそのとりあげる素材において、方法においてもその視野がかつてないほど拡大されたことである。
 このほかにもこまかくみていけば、なおいくつかの特質をあげることができるだろう。問題はこれらの特質はいまなお進行しつつあるものであるということであり、それをどのような方向にどのようなかたちで前進させていくかである。戦後児童文学は「幻影」であったといわないためにも、またすでにさしかかっている児童文学の新しい段階に正しく対処するためにも、戦後児童文学がめざしてきたものを、見失わないようにきびしい検証をつづけていく必要がある。
(「文化評論」昭和四十一年九月号掲載)
テキスト化天川佳代子