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(13) 「父親。母親。満。ホストファミリーとの関係が好転すればするほど、ぼくはなんだかうしろめたい思いにかられ」たあげく、天使のプラプラに真のからだを真に返して欲しいと申し出る。それに対して、プラプラから24時間以内に「ぼく」の犯した罪はなんだかを答えろと交換条件が出され、「ぼく」は、必死にそれを探しあるくのだが、そんな時、「真だけじゃない。 唱子だけでも、ひろかだけでもない。 このたいへんな世界では、きっとだれもが同等に、傷ものなんだ。」 という思いにとらわれる。 そして、唱子のことばをヒントに、とうとう「ぼくのあやまち」に気づくのである。 プラプラはいう。 「あなたがたご自身がつまずいた場所で、あなたがたご自身の問題を、あなたがたご自身がもういちど見つめなおしていく……」 それがホームステイなのだ、と。 「もういちど見つめなおす」、そう、リセット可能なのだ。 子どもたちは、十分に愛されているとわかったとき作動するように組み込まれたリセット装置を持っている。 もし、つまずいた場所が家族のいるところなら、その家族に、あるいは、つまずいた場所が学校なら、クラスメイトの誰かに、自分が十分に愛されていると知ったとき、この人たちを信じていいのだと確信したとき、リセットボタンが押され、「育ちなおす」ことができるのだ。 (14) ここに育つことをやめた子どもがいる。社会に背を向け、閉じ込もったきりになってしまったとき、その子と社会のあいだに立ち、その子がいつか「育ちなおす」きっかけをつかむまで見守り続ける人が側にいなければならない。そして、これまでは、母親がその人(同伴者)、父親がその最大の理解者、といわれてきた。 しかし、いま、時代は、父親もまた「同伴者」でなければならないことを求めている。 なぜなら、『カラフル』が写し取ったように、「病理」は多様化し越境しているからである。 じぶんさえよければいいと思っている父親。 不倫する母親。 思いやりのない兄。 中年男と援助交際するひろか。 うるさくまとわりつく唱子。 学校での孤立。 そして、子どもがそうであるように、母親もまた手いっぱいの状態に置かれている。もちろん、父親もそうだ。 しかし、父親には捨てられるものがたくさんあるのではないか。いわゆる「男社会」であるがゆえに、当然と考えられていただけであって、実は、手放してもなんの問題もないものをも抱え込み、背負い込んでいただけではないのか。男役割を演じるただそのためだけの小道具が多すぎたのではないか(たとえば付き合い酒etc)。 「男役割」を捨てたからといって男でなくなるわけではない。人間としての価値がなくなるわけでもない。「父親役割」をやめたからといって、父親でなくなるわけではない……そんなふうには考えられないか。 いま、児童文学の書き手にとって、男や父親が見えなくなっているのは、「男役割」「父親役割」に代わる典型を見つけようとしているからではないだろうか。 しかし、過渡期にあるいま、旧来の「父親役割」に代わるモデルを見いだすことは至難の技である。 なぜなら、圧倒的多数の男たちは、「男役割」「父親役割」を捨て去ることを躊躇しているからだ(それを、個人の心がけに還元してしまうには、問題が大きすぎる。だが、それでもやはり、一人一人が自分の問題として引き受けなければはじまらない。まずは、児 童文学の書き手がその困難と取り組むことだ)。 道は二つしかないように見える。 一つは、『超・ハーモニー』のように、旧来の父親像を使うこと。 もう一つは、作品から父親を締めだしてしまうことである。 いうまでもないことだが、どんな父親であろうが、向き合う可能性はある。だが、後者の道をとった場合、そこには向き合う相手は存在しないことになる。 愛されることの困難は、ここに尽きる。 (15) 『ゴールドラッシュ』の父親は、愛することを知らない父親であった。その父親を惨殺した少年は、生きることの困難さに窒息しかかっていたのであり、その生きることの困難とは、愛されることの困難に他ならない。 少年が響子という女性と「信じる」「信じない」といったやりとりを交わすシーンがある。 「わたしを信じて。なにかを信じなければ生きていけないと思うの。宗教じゃなかったら、だれかを。だれかひとりを」 「響子はなにを信じてるんだ」 「わたしは、自分を信じてる。もうひとりの自分を信じようとしたの」 さらに、響子はいう、 だから、わたしは、わたしを殺さない。ひとも殺さない」 やりとりは続く。 「おれには関係ないね」 「どうしてわたしにお父さんを殺したことを話したの?」 「信じたからだろ」 「だったらもっと信じて。わたしはあなたを信じてる。わたしを受け容れて。おねがい。自首して」 そして、あくびをする少年に向かって、響子は、「信じてくれないんだね」とのことばを残して立ち去ろうとする。「もうこないの?」と問う少年に、響子は、もう二度と逢わない、逢えるわけないでしょ、と答える。少年は、突然、「そんなの淋しい、堪えられない、響子を失えばすべてを失ってしまう」という感情に襲われ、悲憤とも絶望ともつかないうめき声をもらすのだ。 あぁぁ しんしる あああ しんしるよ ところで、作者は、朝日新聞のインダューの中で、「すべて書いたつもりだったが、作中の少年は他者を本当に「信じる」ところに至っていないと最近感じ始めた。いずれ続編を書きたい」と語っている。 『ゴールドラッシュ』の少年と向き合い、そして、作者のインタビュー記事を読んだあと、こんなことを考えている。 信じてる人に信じてもらっている、その実感が、愛されること、ということではないだろうか、と。
−おわり−
あとがき 「育ちなおす」……これは、わたしのオリジナルではない。「登校拒否」をテーマにしたある講演(の録音テープ)から拝借したものである。 また、「書き手自身、作品の中で人間関係を構築していく力が弱くなっているのではないか」という考察は、西山利佳が、読書体験に関して「読む力(虚構と相対する精神力のようなもの)が、か弱い」(雑誌「日本児童文学」99年1−2月号 巻末評論)と書いているのからヒントを得たものである。 旧来の「父親役割」をしている父親像を、どんどん書いてもらいたい。「父親役割」がいかに家族を抑圧してきたかがわかるからだ。その上でやっと、「父親役割」を捨てた父親が登場してくるだろうと思う。 『カラフル』の、すっとぼけた父親は、これからの児童文学のモデルになりうるかもしれない。手の内をすべて明らかにしてしまってどうする、という批判もあろうが、カラフルな自分に頭を抱えることなく、へらへらと生きていけるのも「力」だと思う。どのよう に生きるのか、という大テーゼは、どう生き抜くかという小テーゼの上にしかのっからないと思う。 批評は、作品を再武装させるためにある、と思う。そして、それは、ことばでしかできない。 1999.2.24 [引用作品一覧] 『超・ハーモニー』魚住直子 講談社 97・7 『魔法使いのいた場所』杉本りえ ポプラ社 98・5 『ポーラをさがして』さなともこ 講談社 97・6 『家族の告白』下川香苗 ポプラ社 98・7 『さいなら天使』中尾三十里 ひくまの出版 98・6 『カラフル』森絵都 理論社 98・7 『ゴールドラッシュ』柳美里 新潮社 98・11 |
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