91年回顧


           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     
児童文学が好きな読者のひとりとしては、刺激的な新作と出会う読書体験をリレーみたいに連続して楽しみたいんだけど、この一年間の児童文学、とくに日本の創作を振り返ってみると、なんとなく作家たちのリレーがうまくいってなかったみたいだ。後半になって息切れしてしまったような印象が強い。
川島誠「夏のこどもたち」(マガジンハウス、千二百円)が新年早々にスロットルを全開にして、それを受けた形で花形みつるの登板。さすがに打球がシャープだ。三月の「ゴジラがでそうな夕焼けだった」(河出書房新社、千百円)、七月の「逃げろ、ウルトラマン」(同上)と、ここまではいいぺースだったのに、それっき三部作の完結編がでていない。それに個人的にとても期待している萩原規子や寮美千子の新作も、とうとうこの原稿を書いている十二上旬までに出版されなかった。子どもや若者を描くということに関しては、なんだか今年の後半になって、本来、児童文学畑でない山田詠美や竹野雅人に一本やられた感じがする。

もちろん読書体験のリレーというのは読者の問題で、作家にはあんまり責任はないと思う。作家の方たちには、来年こそあっと驚こ面白い本をつくってもらうため、しっかり努力し、遊んでもらうとして、ここでは作者と読者をつなぐリレーの要でもある書評や評論のことをちよっと考えておきたい。もちろん自戒の念をこめて。川島誠が「飛ぶ教室」三九号(楡出版、千円)の「書評という切り礼」と題する評論の中で書いていた「書評というのはひとつの権力だと思います」という言葉が胸につきささる。そうなんだよね、書評とか評論って、よっぽど注意しないと権力になってしまうんだよね。どうだ、これがこの本の正しい読み方だなんてね。やっぱ、こういう切り口で読んだら、こんなことが見えてきて面白いぞ、なんていう多様な読みを提供できる、フットワークの軽快な児童文学評論がもっと必要なんじゃないかな。そんなスリリンクなリレーを屋開してくれる評論、権力をふるうのでなく、起爆剤になる評論が読みたい、と最近つくづく思っている。でないと、読者の読みがだんだん画一化されて、どんなに作家が面白い本を 書いても、その面白さがわからなくなっちゃうかもしれないからね。
といっても、いい評論がまったくないというわけじゃない。「飛ぶ教室」三九号からはじまった石井直人の連載評論「成長物語v のくびきをのがれて」は今後の展開が楽しみだし、清水真砂子の英米児童文学の評論集が近々出版されるらしい。

それから児童文学に対するフェミニズム批評がようやくまとまった形で世に問われるようになった。いい悪いは別としてややもするとすぐに母性と結びついてしまうきらいのある児童文学の世界にとって、これはめでたい限りだ。実際にどこまでフミニズム批評になるかどうかしらないけど、雑誌「日本児童文学」(文渓堂、七百円)が来年の五月号で「児童文学とフェミニズム」という特集を組むらしいし、やはりフミニズム批評としてテンションの高い横川寿美子潮という切礼」(JICC出版局、千五百五十円)は今年の児童文学評論の一番の収穫といえる。横川はシリーズ「変貌する家族」の四巻目「家族のフォークロア」(岩波書店二|千六百円)でも「少女マンガの家族像」という評論を書いていて、これもオススメ。 「たくましい父とやさしい母の愛情に包まれて何不自由なく暮らす子ども」というイメージとかつて孤児物語に代表される「家族の物語」を好んできた「フィクションの世界」 (つまり児童文学)とのズ レを枕に、八○年代の少女マンガで描かれた家族像を分析していく。ぼくはこの評論を読みながらふと、紡木たくの漫画「ホットロード」と高田桂子の「さわめきやまない」の類似性と相違点ということを考えていた。これはぼくの今後の宿題にしようと思う。 (酒寄進一
読書人 1991/12/23

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