(6)

 今回はチェンバレンの AINO FAIRY TALES を瞥見する機会があったので、日本学の分野の草分け的存在である王堂チェンバレンの、これまで殆ど知られることのなかった三冊の絵本について述べてみた。チェンバレンの関心の在り方を示す一例として面白い資料だと思う。
 1872(明5)年に設立された「日本アジア協会」には、へボンやブラウンなどアメリカの宣教師の他、駐日イギリス領事館の外交官パークスや、アーネスト・サトウ、W.G.アストン、オルコック、ハーンも参画しておリ、これらの人々の日本研究は日本の学問研究に大きな影響を与えた。生え抜きの外交官というわけではなかったチェンバレンは、外交官としての仕事の片手間にでなく、本腰を入れて日本研究に身を捧げた人だった。「実語教」の英訳(1876)、「古事記」の英訳(1883)など書物を通しての日本理解と併せて、チェンバレンは北海道、琉球をはじめ、伊豆半島、箱根、松江、鹿児島など各地をくまなく歩き、日本に触れている。
 アイヌ研究のために、バチェラーを幌別に訪ね、先に述べたように合計51の話を集め、AINO Folk TALES として1888(明21)年に自費出版したという。この本には、人類学界の権威であったE・B.タイラーが序文を寄せているそうだが、この本の存在すら話題にされたことがなく、今以て未見である。51話の中の「犬が話せないわけ(Why dogs cannot speak)」だけが先述した『日本事物誌』に発表されて、人々の目に触れたが、この自費出版のAINO Folik TALES の中の三話を、その前年1887(明20)年に挿絵入りの本として長谷川弘文社から出したのだということが分かった。しかしこの絵本のことは、楠家重敏氏の大著の中にも言及されていない。おそらくチェンバレン研究者たちの目にも触れていないのだろう。なぜこの三話が選ばれたのか、長谷川が51話を知ってその中からこの三話を選んだのか、チェンバレン自身が推薦したのかにっいては分からない。おそらく慧眼の出版人であった長谷川がある程度まとまった挿し絵絵本にするのにふさわしいものと判断したのだろうと思われる。第二巻のTheBirds'Partyの他と異質のアイヌ・コタンの写生や手描きのメモも、これで十中八九チェンバレンのものと断定できる。日本人のアイヌに対する関心が低かった時に、話として不完全とはいえ、こうした本を出版した長谷川の英断は称賛されてよい。
 チェンバレンにすれば、自らの日本研究の一手段としてアイヌの言語、昔話の採集をしたのだろう。それは先に述べたバチェラーと共著の日本とアイヌの言語、神話、地名の比較研究の冒頭に書いていることからも分かる。すなわち「以下の頁で扱う主題はアイヌと古代日本の言語、神話の比較によって二民族間に存在する何らかの関係をつきとめ、前歴史時代後期以降の日本列島の人間の情況に関する不明瞭な問題に光をあてることにある。」とその目的を明らかにしているのだ。チェンバレンがアイヌの神話ユ一カラを採集できなかったことが、後に金田一京助らによって批判されておリ、その点でこの採集が一大業績と認められなかったとはいえ、それはチェンバレンのアイヌとの接触が限られたものだったことによるだろう。それでもAINO Folk TALES の採集は、昔話研究者からすれば、先駆的な仕事であることにちがいはない。またチェンバレンが「日本アジア協会」誌に載せた An Aino Bear Hunt は、未見ではあるがユーカラの一部を訳したもので「当時はあまり注目を集めなかった」と楠家氏の著作にあるが、おそらくこれがAINO FAIRY TALES の第一巻 Tha Hunter in Fairy Land となったものと推察される。
 こうして見ると、今回取リ上げた三冊はチェンバレンの研究者たちの関心をも惹く、新たな資料といえよう。児童文学・文化研究の私たちの側からすれば、このことに加えて出版人長谷川武次郎という人物の先見性がさらなる関心を呼ぶ。ちりめん本は単なる外国人のお土産本であるという認識しかない人が多いが、明治20年代に早くもこれらの優秀なお雇い外国人と渡リを付け、「日本昔噺シリーズ」だけでなく、実に様々の美しい出版物を出した長谷川については、まだ調べる価値がある。いずれ近いうちに、日本の出版美術の黎明期に大きな仕事をした一人として武次郎と長谷川弘文社の出版物についてまとめてみたいと思っている。AINO FAIRY TALES 三冊に関しては、国会図書館並びに本学図書館に御手数をかけたことを感謝をもって付記しておく。(1998年1O月31日)
next back