7 一つの方向─60年代・その3

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    
 『あほうの星』のでた年、松谷みよ子の『ちいさいモモちゃん』がでる。
 これは、モモちゃんの誕生から3歳までを描いたものである。
 モモちゃんの生まれたその晩に、ジャガイモとニンジンとタマネギが、カレー粉の袋を背負って訪ねてくる。誕生を祝して、カレーライスをつくりにきたわけである。ママはおどろいて、まだ、まだ、早すぎると追いかえしてしまう。つぎにやってくるのはチューインガム。それからソフトクリームがやってくる。ママは、みんなを追いかえし、モモちゃんにおっぱいを飲ませた……というのである。物語は、ここからはじまる。

 さてそれから、モモちゃんはおっぱいを、ゴックン、ゴックン、のんだので、どんどん大きくなりました。
 ある日のことです。
 ママがえんがわで、モモちゃんのおむつをかえていますと、いつのまにか、ちいさな、まっくろなネコがきて、すわっていました。
「おもちろいや、にんげんのあかちゃん、おしっこできないんだね、おむつしてるんだね。」
 子ネコは、いいました。
「ぼくなんか、すなをシュッシュッ、ってほってね、チューってするでしょ。それからあとへ、シュッシュッってすなをかけて、きれいにしておくんだから。」
「まあ、ネコと、にんげんのあかちゃんは、ちがうのよ。なまいきいうんじゃありません。」
 ママは、ちびネコのおしりを、ペン、とたたこうとしました。ところが、そのときになったら、ネコが、パンツもズボンも、はいていないことにきがつきました。
 そこで、こわいかおをして、めっ、といってみせました。
 それなのに、その子ネコはいうんです。
「ぼくを、このおうちの子にしてくれないかな。」

 これが、モモちゃんとともに活躍する猫のプーである。ほんとうは、「クー」というのだが、モモちゃんが「プー」といったため、プー猫になる。幼児であるモモちゃんが、はじめて口にしたことばが、「ンマ」と「プー」であったことを記念している。プーは、のちに『モモちゃんとプー』(昭和45年)にも登場する。
 プーという名前は、児童文学の世界では、すでにミルンの『くまのプーさん』(1926年)でよく知られている。そのことを、この場合、意識しないでもない。ミルンの場合は、はしょったいい方をすれば、子どもの「遊び」に形を与えるという功績があった。もちろん、子どもの場合の「遊び」とは、子どもの生活そのものである。ミルンは、それを、クリストファー・ロビンとその仲間たち、という形で、きわめて楽しい世界につくりあげた。物語のところどころで、ミルンが、ロビンに話しかけるそんな個所があるが、ほとんどは、子どもとその仲間の目を通して描かれる。
 それにくらべて、松谷みよ子の場合はどうなのだろうか……。猫のプーとモモちゃんは、そうしたミルンの後塵を拝するだけなのかどうかと、問えそうである。この時期の日本児童文学の思潮を考える時、たとえ、ミルンの「プー」と優劣を比較されるとしても、この作品が、子どもの世界に形を与えようとした試みは、一つの意味を持っていることは確かだろう。子どもを通して、子どもの置かれている状況の問題や、そこでの生き方を追求する方向に対して、これは、子ども自身の世界(あるいは、あり方)に、形を与えることによって、児童文学の世界に、もう一つの発展方向のあることを告げたからである。楽しさの系譜と、かりに規定してきたが、『ちいさいモモちゃん』には、それをつくりだしていく志向性がある。書き手の主張よりも、読み手の世界を重視することによって、これは児童文学の「もう一つの流れ」に深く関わっているのである。
 ミルンの場合には、おとなが、作品の背後にかくれようとした。しかし、松谷みよ子の場合には、大きな比重を持っておとなが登場するところに、一つの特徴がある。すなわち、モモちゃんのママとパパがそうである。とりわけ、ママは、モモちゃんやプーと「三位一体」の関係をつくって、この作品のおもしろさをつくっていく。この作品は、モモちゃんの成長を軸にして、それに反応するプーと、それを測定し、促進しようというママのあり方に、楽しい形を与えているのである。
 そのことは、はじめにあげたモモちゃんの誕生の話をふりかえってみればいいだろう。この作品の中のママは、モモちゃんの成長に必要不可欠な人間として登場する。ジャガイモやニンジンたちが、カレー粉の袋をかついでお祝いにやってくる。カレーライスをつくって食べさせようとする。もし、生まれたばかりのモモちゃんに、カレーライスを食べさせたとすればどうなるか。おとなにとって、その結果は自明の理である。しかし、幼児にとっては、おとなほど、それは自明の理ではない。じぶんの食べられるものや、じぶんの好きな食べものは、同時に、ほかのすべての人間の食べることのできるものだと考えるかもしれない。赤ん坊もまた、カレーライスを食べてわるい理由がどこにあるだろう。じぶんが食べるように食べたっていいじゃないか、そう考えることもありうる。カレーだけではなく、ガムだって、ソフトクリームだって、おなじ論理で赤ん坊にすすめることが起こりうるだろう。その論理にマッタをかけ、赤ん坊のごちそうは「おっぱい」だと教えるのは、ママである。もちろん、ママがマッタをかけているのは、ジャガイモたちに向かってだけではない。作品の外側で、モモちゃんの話を読む(読んでもらう)子どもたち全体に向かって「まだ、まだ」といっているわけである。これは、母親の立場からの語りかけだといえるだろう。事実、続編の『モモちゃんとプー』にいたるまで、この母親の立場というものはついてまわる。だから、モモちゃんの物語は、「おかあさんが小さい子どもに話して聞かせる」連作集といえないでもない。
 しかし、この中のママは、それに集約される母親のあり方は、幼児に一定の知識を教えこむ「教示者」の立場に固定されているだろうか。もし、楽しく何かを教示する子どもの本、というだけなら、すでに、中川李枝子の『いやいやえん』(昭和37年)があったわけである。
『いやいやえん』もまた、人間の直面する「現実的主題」の形象化よりも、子どもが子どもである世界に、形を与えようとしてきた。
「ちゅーりっぷ・ほいくえん」のしげるという男の子を中心にして、子どもの「遊び」(生活)に楽しい形を与えてきた。この中で、とりわけ、「やまのこぐちゃん」の話や、赤い毛糸のジャケツを着た狼の話などは楽しい。(人によっては、「くじらとり」の話が、いちばんおもしろいという意見もあるだろう。現実から空想への移行が、ごく自然に行なわれ、そこには、説教臭がまったくないからだ……という理由づけもある。それもわからないではない。しかし、ここでは、『いやいやえん』の、話それぞれを比較検討することが中心ではない。わたしの楽しかった個所を、例として抜きだしているだけである)。狼の話がおもしろいというのは、狼のあのあわてた食事の準備ぶりである。
  おなべ、おなべ、
  水だ、水だ、
  まき、まき、
  たきつけ、たきつけ、
  まっちだ、まっちだ、
 そう叫んで、狼が、お湯をわかす。かまどは、あわててこたえるし、洗面器も、石けんのあり場所を教える。ここに、大あわてに子どもを食べようとする狼の動きがよくでている。小さい子どもなら、わくわくしてくるところである。そうしたおもしろさを、『いやいやえん』は持っている。それにもかかわらず、『いやいやえん』の世界は、しげるならしげるという男の子を通して、一種の「いい子主義」の発想にしばられていた、とはいえるだろう。そのことは、しげるのおかあさんも、保母の先生も、子どもにとって、「いいこと・わるいこと」を教える立場に立っている、いや、立っているように描かれているところからくる。しげるといっしょになって、「遊び」の世界で動きまわらない。つまり、固定した「保護者」の位置を占めている。もちろん、こういったからといって、「いいこと・わるいこと」を教えようとするのが、よくないことだ、といっているのではない。生活の基本的知識や、人間としての最低のエチケットの伝達は、幼児教育としては必要だろう。しかし、幼児の文学という場合、それは、幼児教育の右のような役割を、そのまま引き受けるものだろうか。『いやいやえん』が、保育における「しつけ読本」としてつくられているなら話は別だが、これが幼年文学であるとするなら、「しつけ読本」の枠組みをこえねばならないだろう。少なくとも、物語を通過することは、子どもにとって、人間であることのよろこびや、じぶんの求める自由に形を与えたものとの出合いになるのではないか。『いやいやえん』では、そのいくつかの楽しさの向こうに、保育園できらわれない子どもになること、すなわち「いい子になるしげる」という現実適応の結末が待ちかまえている。物語は、結果として、そういう発想の上に成立している。そういう発想、という場合、子どもをそこへ教導する「教示者」の視点があるということである。それが、保母の先生や、しげるのおかあさんのあり方に反映している。別のいい方をすれば、この物語におけるおとなは、この作品内の子どもに対して、一種の不動の価値観を示す立場を占める、ということである。子どもたちに向かっては、少なくとも誤りを知らぬ絶対者の位置に立っているのだ。
 それにくらべて、『ちいさいモモちゃん』のママ(母親の立場)は、モモちゃんやプーたちに「教示者」の立場をとりながら、けっして、そこに安住していないのである。モモちゃんといっしょに、じぶんが母親であることのあり方を探りつつ、成長していくものとして把えられているのである。そのことは、「パンツのうた」や、「モモちゃん、おこる」、あるいは、『モモちゃんとプー』の中の、「かげをなめられたモモちゃん」によくでている。ママもまた、ほんとうは、はじめから何でも知っているのではない。こんなにあわてたり、こんなに心配したりして、おろおろと手さぐりで、モモちゃんといっしょに生きてきたのだ(あるいは、生きているのだ)、そんなふうに描かれている。そんなふうにおとなを登場させている。そうすることによって、松谷みよ子は、母親の必要性だけではなく、母親の役割、人間としての母親、それに、母と子の関係そのものを、子どもたちに伝えようとした、といえるのである。
 これは、結果としては一種の教示性かもしれない。しかし、教示性だとしても、ここで教示されるのは、母親の絶対性でもなく、母親の賢明さでもない。母親というものが、どんなふうに生きるものであるかを、そのあわてぶりや心配の仕方を通して、教示していることになる。そのことは、人間の生き方を伝えていることになる。
『ちいさいモモちゃん』が『くまのプーさん』と違う点は、そこにある。おとなと子どもが密接な関係を持っているものとして描かれている点である。これは優劣の問題ではなく、作品構造の問題である。こうした構成の仕方に対して、つぎのようにいうこともできるだろう。だから、モモちゃんの物語は、奔放な子どもの空想に形を与えることができずに、母親的配慮の枠内での「楽しさ」に終わったのだ、と。確かに、モモちゃんの活躍圏は、ママのいる家から離れない。離れても、いつかは、そこへもどってくる。『くまのプーさん』のクリストファー・ロビンとプーたちのように、人間の家庭を意識させずに、それぞれ独自の家を持ち、別世界をつくっている点とは違っている。しかし、日本の児童文学が、「現実的主題」をリアルな形で追うのに対して、こうした「小市民的」形であれ、子どもの世界の楽しさに、この時期、一つの形を与えたことは評価されなければならないだろう。家庭、母親という枠組みはあっても、その中で、モモちゃんは、プーといっしょに、子どもの楽しみ(遊び=生活)をひろげてくれたからである。
 二つとすこしになったモモちゃんは、いつものように、「あかちゃんのいえ」にあずけられにいく。猫のプーも、もちろん、お供する。途中で、モモちゃんは、キリの木の枝をほしがる。プーが、木にのぼって取ってきてやるのは、いうまでもない。モモちゃんは得意である。道で、焼き芋屋のおばあさんにあって、それをお芋と取りかえっこしようといわれても、渡さない。「あかちゃんのいえ」の先生に、いいわね、ちょうだい、といわれても渡さない。みんな、キリの枝をほしがるのに、渡さない。プーは、いばって、「あのね、ぼくが、とってあげたの。だもん、だれにもあげないよねえ」という。それなのに、モモちゃんは、ちいさいゾウさんみたいな男の子コウちゃんに、「あい」といって、その枝をやってしまうのだ。いつもなら、モモちゃんのそばにいる猫のプーが、その日は、しょぼんとして、ママのおしりについて帰る。
「おや、プー。きょうは、おうちにかえるの?あかちゃんのうちに、いないの?」
「だって、モモちゃんたら、コウちゃんとばかし、あそんでいるんだもん。ぼくのキリのみ、あげちゃうんだもん。」
 プーは、しっぽをたれてすねてしまう。それをみて、ママはいう。
「ねえプー、きょうのおかず、なににする?プーのすきな、おさかな、どう?」

 プーは、モモちゃんと対等に描かれていく。ジャガ芋やガマガエルやカバが、話したり、よろこんだりするのとおなじである。これは、幼児期におけるアニミズムのあらわれであろう。アニミズムに形を与えたものに違いない。それは確かだとしても、だからといって、この作品は、そうした思考期を卒業した地点から、それに形を与えているのではない。今まさに、そうした思考期をたどる幼児の側に立って、ママに集約されるおとなをも描きだしているのである。この発想は、幼児の内側から物語世界を形成しようという試みだろう。子どもが子どもであることを描こうとしたもの、あるいは、描いたものはある。たとえば、坪田譲治の「善太と三平」の登場する短編の中にある。しかし、善太や三平の世界は、その内側にはいりこんで描くというよりも、空想にふける子どもの姿として、外側から描かれている。子どもは、そうした世界を持つものだということが、おとなから見おろす形で描かれていた。その点、モモちゃんの世界は、子どもの発想に立って一つの世界を描きだしていく。プーも、ジャガ芋も、ごく自然に、ママと肩を並べて生活を展開していくのである。
 生活の展開、といったが、ここにも、この物語のおもしろさがある。猫のプーの御飯を、はいはいしていってつかみとろうとしたモモちゃんが、猫やママとの関係の中で、少しずつ、じぶんの世界をつくりあげていく楽しさがある。それは、さきにあげた「キリの枝」の話でわかるだろう。モモちゃんは、たくさんいる幼児の中から、ゾウのようなコウちゃんを選びだし、コウちゃんが好きになることで、単にママに依存していた生活から、一歩前へ進むのだ。三つになった時、ミルクびんやおしゃぶりを乳母車につんで、「もう、おねえちゃんだから……」と、ヘビやモグラやクマに、それを与えにいく話にも、よくあらわれている。また、ママの帰りが遅いので、憤慨して家出する話にも、それがうかがえる。生活の展開とは、モモちゃんの場合、成長と発育の歴史でもあるのだ。猫のプーも、また、飼猫の位置に収まっていない。「モモちゃんとプー」を読めばわかることだが、ジャムという友だちを持つようになる。ママも同じである。モモちゃんの病気を通して、ママがママであることに成長していく。
 猫。おとな。幼児。この三者の関係を描くことによって、松谷みよ子は、幼児の世界に形を与えた。それを楽しい世界として定着した。これは「楽しさの系譜」を形成するものである。しかし、子どもにとって、「楽しさ」や「楽しさ」に形を与えたものだけがたいせつなのか、という問いかけは後を絶たない。「人生いかにあるべきか」という問題提起は、幼年文学の世界に対しても投げかけられる。「いい子」の「楽しさ」などは、生活の安定したおとなの自己満足ではないか、という疑問である。たとえ、子ども本来のあり方が、モモちゃんのように、のびのびとじぶんの世界をつくるものであったとしても、今日只今の現実世界では、そうした安定した関係さえ組めない条件がありすぎる(24)。その事実を無視して、「楽しさ」の主張はどうか、というのである。こうした疑問に対しては、つぎのようにいわねばならぬだろう。「楽しさ」にせよ、「楽しさ」に形を与えるものにせよ、それは常に一定のパターンを持っているものではない。現に、「献身」を描くにせよ、「反献身」の発想にせよ、そこには、さまざまな形の与え方があった。「楽しさの系譜」と呼ぶものもおなじで、『ぽけっとにいっぱい』のように、書き手の思い描く世界に楽しい形を与えるものもあれば、『ちいさいモモちゃん』のように、子どもの成長に楽しい形を与えるものもある。当然、ここには、別の形の「楽しさ」を開く世界もあるはずである。たとえば……そのことをつぎに考えてみる必要がある。

テキストファイル化田代翠