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のっけから暗い話で申し訳ないのだけれど、日本の有力な児童書出版社のひとつが去年の秋、終焉を迎えた。いや、そう言ってしまっては、関係の方からお叱りを受けるかもしれない。その会社はまだある。出版活動も続いている。ただ、児童書はもう出さないとかいうことで、これまでその方面の編集に携わってきたスタッフもすでに全員退社されたと聞く。こうなれば、私たち児童書関係者にとって、その会社はもう終わったのと同じことだろう。 いやそうではなく、児童書の出版はもう金輪際しないというのではなく、少し間をおいて別の方針で再開するのだ、という噂も一部にはあったりするらしいが、それではこれまでの方針のどこがどういけなかったのか、さっぱり見当のつくはずもない部外者の私としては、そういう不確かな未来に期待をかけるよりも、今まであったものが突如なくなってしまった理不尽さを心から嘆くことに専念したいと思うのだ。 そういうわけで、読者の皆さん、皆さんが本誌「翻訳時評」のページに「福武書 店」の名前を目にすることができるのは、残念ながら、恐らくこれが最後です。 日本の児童書出版が−−とりわけ翻訳出版が−−ジリ貧と言われる状況になってもうどのくらいたつのだろう。そんな中にあって、ちょっと追悼文風におおげさに言ってしまえば、福武書店はここ五年ばかりの間、海外児童文学を愛する我らが希望の星だった。まず、次から次へとどんどん出した。作家・訳者の有名無名を問わずに出した。英語圏以外のものでも出した。児童書らしからぬ陰々滅々ドロドロの内容でも出した。どんなに厚くても出した。訳文は概してどれも読みやすかった。表紙は概してどれも美しかった。挿絵がないのもスッキリしてよかった(と私は思う)。 いずれにしても今となっては、あの『のっぽのサラ』が『ゴースト・ドラム』が『ゼバスチアンからの電話』が、早すぎる絶版の憂き目を見ることだけはないよう、祈るしかない−−黙祷。 さて、そういうことがあったので、今回リストに上がった福武書店の二冊には最初からついかまえてしまった。特に文字どおりの最後の一冊となったクルト・ヘルトの『赤毛のゾラ』(渡辺芳子訳)を通勤の車中で開いたときには、思わず肩にモリモリと力が入るのを感じたものだ。とにかく、厚い、重い! で、読み始めてみると、一九四一年に書かれた七〇〇ページに及ぶそれは、起こったことを起こった順に細大漏らさず書き並べていくいわゆる古風な饒舌体で、正直言って、とてもすんなり話の中に入っていける代物ではなかった。けれどもいったん慣れてしまえば、その衒いのなさはかえって心地よくさえあり、いささかノスタルジックにその世界に酔いながら、児童文学の本質とは何か、などという小むずかしい問題に思いをいたしたりもしたのだった。 舞台は旧ユーゴスラビアの一角。登場するのはいずれも親をなくした五人の子どもたち。その当時の日本の言葉で言えば浮浪児。それも、札つきのおたずね者である。彼らは町の古城を隠れ家に、日常的に盗みをはたらき、大人たちの裏をかき、ためらわずに暴力をふるう。といっても、生きていくため、食べるため、当局から身を守るため、そして権力者の横暴に立ち向かうためにやむをえずしていることだから、少しもすさんだ感じはしないし、むしろ小気味よいくらいのものだ。 自分たちをその土地に伝わる伝説の「戦士」になぞらえるだけあって、生活はきちんと律している。多少の小競り合いはあるが、仲間同士の結束もかたい。恒常的なリーダーは彼らの中で最も勇敢とされるゾラだが、誰かが何かを思いついて、それにみんなが賛成したときには、その計画に限ってはその言い出しっぺをリーダーとする、といった極めて民主的なルールもある。ちなみにゾラは女の子、あとの四人はみんな男の子である。ウーン、新しい・・。 主人公は、その四人のうちの一人であるブランコ。母に死なれ、祖母には家を追い出され、空腹に耐えかねて路上に落ちていた魚を拾って食べようところを、窃盗の現行犯で逮捕される。そして、ゾラの手引きで脱獄。そのまま彼女のチームに加えられ、他人を欺く暮らしに疑問を感じながらも、最後まで本来の自分を見失うことなく、次第にたくましく成長していく、というのがこの物語の主要な流れとなる。 だが、ブランコはまだ一二歳。ほかの子たちもまた同じような年頃で、自分たちだけでサバイバルし続けるにはちょっと若すぎる。こっそり食物をくれたり、自分の家にかくまってくれたりする大人たちがいなければ、彼らの連帯は早々に挫折していたかもしれない。そして、結局その大人たちの助力によって彼らも最後にはチームを解散し、浮浪児生活から足を洗うことになる−−と言えば、当たり前すぎるほどまっとうな児童文学みたいだけれど、この話は少しも説教臭くはない。 『赤毛のゾラ』は第二次大戦中に書かれた。時代は否応なく浮浪児を量産し続けていた。そんな中にあって理想の浮浪児像を描き出すことが、多分作者の目的だったのだと思う。読者の心に残るのも、最後におとなしくゴリアン爺の小屋に落ち着くゾラではなく、間抜けな警官を罠にはめては勇ましいタンカを切っていた頃のゾラの方ではないだろうか。 そして、福武書店のもう一冊、ブロック・コールの『森に消える道』(中川千尋訳)というのが、なぜかまたまた子どもたちのサバイバルの話であったりするのには驚いた。それも『ゾラ』とはうってかわって、こちらの方はなんとも現代的な設定。もちろん単なる偶然にすぎないのだろうけれど、まるで新旧そろえてわざわざ見せてくれたみたいで、そのたくまざるサービス精神には、勝手に感激してしまいます。 舞台は一九八〇年代のアメリカ。主人公である少年と少女は、どちらも集団生活が苦手な内向的タイプの一人っ子。いわゆるヒッピー世代である親たちはそんな我が子にどう接していいのかわからず、長い夏休みには彼らを湖畔のサマー・キャンプに追いたて、体のいいやっかい払いを決め込んでいる。物語はそんな彼らが、キャンプの仲間たちの残酷ないじめに遭う場面から始まる。仲間たちは二人を舟に乗せて島に渡り、そこで素っ裸にして置き去りにする。やった本人たちにしてみれは、これはそのキャンプに伝統的に伝わる単なる遊び。さほどの悪意があってのことではないのだけれど、や られた方はパニックに陥り、さらにそれ以上のいじめを受けることを恐れて、裸のまま、泳いで島を抜け出そうとする。読んでる方はこのあたりからもうドキドキハラハラ、いっときも目が離せない状態になってしまう。 ところで、その「単なる遊び」は「ヤギ」と呼ばれる。西の文化では間抜けの代表、好色の象徴。加えて「贖罪のヤギ」にされるてしまうこともあるというかわいそうな動物である。ちなみに、この作品の原題は『ヤギ』。なかなか意味深長だ。 さて、ようやく岸辺にたどり着いた二人は手近にあった無人の別荘に無断で侵入。裸のまま、けれどもちろん少しもエッチな気分ではなく、一夜を過ごしたところで、さあどうしよう。金は一銭もないし、着るものもない。親はあてにならないし、連絡も取れない。けれども、キャンプにだけは絶対に戻りたくない−−ということに意見が一致した二人は、とにかく逃げ続けることを決心。ゾラたちとは違ってまことに不器用な手際ながらも、窃盗、置き引き、詐欺、無銭飲食を繰り返し、スキャンダルを恐れてなんとか二人を我が手に取り戻そうとするキャンプの大人たちの追跡を逃れて、見事に思いをまっとうする。彼らは、わずか数日間とはいえ、自力でサバイバルを達成するのだ。もっとも、行きずりの子どもたちに助けてもらったことはあった。だが、大人の手を借りたことは一度としてなかった・・。 同時に、その数日の間に、二人は互いにとって本当に特別な存在となる。単なる同志意識とは少し違う。かと言って、初恋ともどこか違う。とにかく、絶対に離れてはならないという強い思いで、この間二人は確かに愛し合っている。その一体感が、いじめられっ子だった二人を少しずつ強くしていくのだ。またその合間には、少女の母親がようやく親としての自覚にめざめ始める過程も描かれ、いろんな意味で読みごたえ十分の作品だと思う。 そして−−ハイ、もうおわかりでしょうが、次の作品もまた子どもがサバイバルする話です。こうなったらもうとまりません、お許しを。 その作品、ダリア・B・コーヘンの『ぼくたちは国境の森でであった』(母袋夏生訳、佑学社)は、基本的には戦争児童文学として考えるべきものなのだと思う。「ぼくたち」とは、イスラエルに住むユダヤ人の少年ウーリーとレバノンの難民村にいるパレスチナ・アラブの少年サリーム。「森」とはイスラエルの山岳地帯。「国境」とは言うまでもなく、イスラエルとレバノンの間のそれなのだから。 戦争で父を亡くしたばかりのウーリーが、登山のとちゅうで仲間とはぐれて手近のほら穴で雨やどりをしている。そこへ同じく山歩きをしていたサリームが迷いこんできて、二人はそのまま一夜の宿を共にし、ウーリーが携えていた一食分の食料を分け合う。実はこのときサリームは、イスラエルに侵入したPLOのテロリストたちをレバノン側に無事誘導せよとの密命を帯びてあたりを徘徊していたのだが、そのことはこの作品の最後までウーリーには全く知らされない。そういうわけで、互いの立場の違いは十分理解しながら、それでもできるだけ相手と親しみ合おうと努力するウーリーに対し、サリームは常に相手との間に一定の距離を保っておこうとする。その緊張感の中で、二人のサバイバルが始まるわけだ。 夏場のことで、山の中には木の実やキノコや、食料にできる植物がいっぱいある。野性化したヒツジの乳を搾ることもできれば、沼の魚を釣ることもできる。植物に詳しいのはサリー、釣りの技巧に長けているのはウーリー。二人は互いに知恵を出し合い、次第に友情を深めていく。だから、このサバイバルはめっぽう楽しく、やがて二人は互いの家に帰る日を一日のばしにするようになる。戦争のない時空間に少しでも長く身を置いていたいために・・。サリームは言う。「まあ、すくなくとも、ぼくたちふたりだけでも歴史のなかで、みじかいけど休戦を実行できたよね?」 そんな二人が山を降りることになるのは、ウーリーがオオカミに噛まれて重傷を負ったからだ。そして、サリームの村での人目をしのぶ暮らし。PLOのテロ活動に怒ったイスラエル軍の空爆。サリームの告白。友情の誓いと別れ・・。物語は、二人がそれぞれ自分の属する人たちのところへ戻っていくところで終わる。切ないけれど、物語の外側にある現実がそうなっている以上、しかたのないことだ。だから、ゾラたちもチームを解散したのだし、「ヤギ」にされた少年と少女もひとまず少女の母親のもとに戻ることにしたの だ。 けれども、いずれの場合も子どもたちは、自分たちだけですごしたサバイバルの時間に思いを残している。ゾラたちはいつまでも変わらず「戦士」として生きる将来を思い描いていた。夢想家である「ヤギ」の少年は、そのままずっと少女と二人だけで森の中に暮らし続ける白昼夢にふけっていた。ウーリーとサリームは、「もし、ふたりして冬のあいだもここにいたら・・」と話し合い、そして、「だまりこんだ」。 サバイバルは時代のキーワードである。大人たちはさまざまな分野で、サバイバルの術を子どもたちに伝授しようと躍起になっている。けれども、本当に伝授してしまったら、子どもたちが子どもたちだけで生きることが本当に可能になってしまったら、そして仮にそれを社会が認めたら、子どもたちはもう二度と大人たちのもとには戻ってこないかもしれない。けれども、それほどまでに魅力的なサバイバルを描ききるのでなければ、子どもの本は物語を読む楽しさを子どもたちに伝えることはできない。 そういう意味で、児童文学とはまことに業の深いものである。 さて、読者の皆さん、私がこの「翻訳時評」を担当するのもこれが最後です。読んでくださって、本当にありがとう 。(横川寿美子)
日本児童文学
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