ぱろる5号
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 1996年もまた多くの絵本に眼福を授けられた。毎年変わらず素敵な贈り物を私達に届けてくれる作家達、片山健、井上洋介、長新太、五味太郎、太田大八、スズキコージ田島征三、田島征彦、佐々木マキ、たむらしげる……今年も思わず快哉をあげる作品を発表した。それぞれがその作家にしか成し得ない表現を達成し、私はいくら時間があっても足りないぞ、と不平をもらしている。
しかしここではそれらの作品の紹介ではなく、イラストレーターや画家、あるいは新人の素敵な絵本をとりあげてみたい。画家というなら、先ほど挙げた作家達もみな画家であり、絵本原画展ではない新作画展を画廊で行なっている人も多い。だから私のここでの区分は、単純に現時点での絵本出版占数が少なく、他のジャンルでの活躍のほうが目につく、という程度のことである。だからその肩書が(ィラストレーター〉であったり(画家〉であることが多い人達の絵本と思っていただければいいと思う。そして後半でとりあげるいわゆる(新人〉と呼べる作家は、単行本としてはデビュー作あるいは2、3作目にあたる作品を今年発表したフレッシュな作家である。ただし二月中旬までに刊行された絵本しか紹介できないのであしからず。
まず山本容子のおこちゃん』(小学館)。自伝絵本と銘打たれているが、別に主人公のおこちゃんに山本容子を重ね合わしてどうこう、という作品ではない。おこちゃんはおこちゃん以外の何者でもなく、画面の中のおこちゃんは、それはもうおこちゃんとして元気に跳ね回っている。それでいて一画面の中に何人ものおこちゃんが登場するという手法は、明るい記憶の総天然色パノラマという趣きを呈していて、どこか懐かしい。しかもここにあるのは、ありったけの記憶ではなく、記憶の中の心地良い部分を実に丁寧にピックアップしたと思えるようなはずんだ暖かさにあふれている。山本特有のオレンジ色に彩られた、近年屈指の子どものバィタリティーを描いた絵本だと思う。
スースーとネルネルも愉快な子ども達だ。荒井良二『スースーとネルネル』(借成社)に登場するこの2人(兄妹か姉弟かを想像するだけでも小一時間は楽しめる)は夢遊ぴをする。ただし、荒井の絵そのものがキャラクターも含めて夢のょうなもの(彼の絵は(のようなもの)のリアルさにつねに満ちている)なので、ことは単純ではない。ともかくここには「おやすみ」という安らかな挨拶にいたる最も幸せなプロセスがある。「おゃすみ」の前のなだらかな覚醒の幸福。まさに夢のような絵本である。
が内田麟太郎と組んだ『うそつきのつき』(文渓堂)は変な絵本としかいいようがない。少なくとも内田の文章は、絵本としてのすわりの良さをあえて回避している感がありタイトル通り<うそぶく>という語がふさわしい。荒井良二はそのうそぶきに結構真面月につきあっていてその取り合わせが漫才のようで実に面白い。その上で彼は、この気まぐれなうそぶき(に見せる内田の巧みさ)に絵本としての筋を一本通した。例えぱ文章のないぺージの処理とそれ以降の背景での遊び。おじさんの各画面での位置。あるいは描き文字のエスプリ。かなりのオフロードを安定したサスべンションの四輪駆動で駆け抜ける快感のような絵本だ。荒井良二の他の楽しい仕事について触れられるスぺースがないので題名のみ挙げる。『ぱたぱたぽん』の一冊『ぼくのいちにち』(福音館書店)、『ギタローアンドアソコ』『ホーラ・イワンコッチャナイの日記』(トムスボックス)、そして福音館書店の月刊誌「おおきなポケット」の 目次広告の連載。
沢田としきの アフリカの音』(講談社)は風土絵本である。「イラストレーション」誌9月号で詳しく触れたのだが、この作品はアフリカの風土をみごとに描いた絵本だと思う。土地でなく風土。光景でなく風景。大気含みの音。それらが高い集中力でゆっくりゆったり紡ぎあげられている。遠く離れてはいるが、確かに私達と地続きのアフリカ。その親しい遥かさが、画面の隅々にまで浸透している渾身の一作だと思う。
最近、絵本で絶好調の飯野和好がまたまたやってくれました。むかでのいしゃむかえ』 (「こどものとも年少版」4月号/福音館書店)。むかでが医者を迎えに行くのであります。もうそれ以上は見てのお楽しみ。笑える、笑える。本人の言にもある通り落語調の軽快なテンボで話は進むが、内容はそれなりに深刻なのだ。なにしろ医者を迎えに行く事態なのだから。そのギャップのおかしさはまさに落語のそれであろう。飯野の描写が登場する昆虫達のプヨプヨだったりコツンだったりザワザワだったりする存在感をことのほかリアルに描出していて出色だ。
高部晴市の2作サーカス』コドモノカガク』(架空社)は油断ならざる絵本だ。これまた「イラストレーション」誌の97年1月号に書いたことだが、一言で言って白昼夢のことき作品である。穏やかではあるが、日常をちょっと踏み出た心のざわめきがこの2作の中に描き止められている。好奇心に潜むささやかな恐怖と心躍りが鮮やかに画面となっている。
 ささめやゆきはどうぶつふうせん』(文・岩瀬成子/ほるぷ出版)とガドルフの百合』(文・宮沢賢治/僧成社)の近作2冊で、情景描写の名手たるところを如何なく発揮した。彼の絵に私が感じるのは、主人公とその背景という描写の仕方ではない、一種の抽象化をくぐった、情景としか呼びようのないものなのである。情がたっぷりと注人されているにもかかわらず湿っていない画面。それがこの2冊の文章と交錯し浸透し照応する。その画面のあり方に私は強く魅かれるのだ(「イラストレーション」誌11月号に詳述)。
抽象化ということでは藤枝リュウジのことばのからくり』全4冊(文・大津由紀雄/岩波書店)とみしまてんとうの仔馬のハル』(架空社)も落とせない。前者は日本語のさまざまなニュアンスの遊ぴに絵をつけたもので、藤枝の明快かつ柔かなテキスト把握が、類書にないシャープさを獲得している。ここまでよけいなことを言わないためには、よほどの抽象力が必要だと思う。一方みしまの絵本は、絵本のデザインという抽象化を経てあらわれた抽象性に見える。物語性の濃い文章をあまりべたつかないようにヴィジュアル化するための手法がサラリと成功していると思う。言わば物語がほどよく断片化されているのである。
そして、ドンケデリコ』(作品社)。この大竹伸朗とヤマンタカ・アイによるFAX交換慢画集は天下の奇書という装いではあるが、よくよく見れば画本の王道を高速度で疾走するぶっとい表現といえる。なにしろフルスピードなのでついていくのは骨が折れる。だからついていかなきゃいいのだ。とりあえずその速さを楽しめばいい。で、何度も集中力をもって眺めていれぱ、そのうち眼も慣れてくるしこちらの動体視力も高まり、その視力の進歩にウキウキできる。要するに一生ものということだ。心の視力さえ落ちなければ。
さてフレッシュな作家の作品を挙げょう。いずれ劣らず今後も活躍するであろう作家なので駆け足はご容赦を。まず国松エリカの『フンガくん』(小学館)。色、形、構図、文章いずれにも艶やかな品があってうれしい。どいかや『チップとチョコのおでかけ』(文渓堂)のたおやかなユーモア、とりごえまり『月のみはりばん』(借成社)のゆったりしたのんぴり感は何度見ても飽きない。長谷川直子の『こんなよるには』(架空社)にある静けさ、こじましほ『へぴかんこうセンター』(文渓堂)の元気な描写力、オーシマタエコ『タマミちゃんハーイ!』(童心社)の切なさにも要注目!(小野明
ぱろる5号 1996/12/20

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